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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振

2017年06月03日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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SFは、どういわれようと、つねにどこかへのチケットである。モーリス・ルナールを敷衍するならば、このジャンルは人びとを未知の世界へと送りこむのだーージャック・ボドゥ


Al Greenの”Take Me To The River”をカヴァーした理由は、僕たちはブラック・ミュージックを発想の源泉にしていたのに、当時僕たちを好いてくれた層ときたらブラック・ミュージックを馬鹿にしていたからだ。もし有名な曲をカヴァーしたら自分たちのヴァージョンは比較されて興ざめで、意味なかっただろう。でも、誰もAl Greenの“Take Me To The River”を知らなかった。みんな僕たちが実際のあの曲を書いたと信じていて、好きになった。あとになって僕たちは『あは、君らはブラック・ミュージックを好きになったね』と言えたんだーーChris Frantz、Talking Heads/Tom Tom Club


(関連:荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点


 1970年代の半ば以降、ブロンクス、ニューヨークにて、1976年にGrandmaster Flash & The Furious FiveとFunky Four Plus One、1978年にはCold Crush Brothersといったヒップホップの基礎を形作るグループらが結成されていった。


 1978年には、世界で最初のラップが収められたアルバム・レコード盤がリリースされた。予期せぬ大当たりでブロードウェイに進出した、劇作家・作曲家のElizabeth Swadosのミュージカル『Runaways』のサウンドトラックだ。Peter Brookなどと働いた経験を持つ彼女の劇場作品の多くは、ミュージカルであっても、題材は人種差別など社会問題を扱い、その音楽の多くは市井から持ち込まれたもので、業界基準からはかけ離れていた。サウンドトラック盤に収められた曲「Blackout」は、ヒップホップのファウンデーションに影響を与えたと謂われている1977年のニューヨーク市での停電についての、ミッド・テンポでパーカッシブなトラックのラップである。


 ポップ音楽ではあるが、延々と続くビートにメロディを持ったボーカルではなくお喋りが乗るというラップが、初めてその誕生の地の外側に出たとき、演劇作品世界の裡であったというのは、そのおよそ10年後に原宿のラフォーレで行われた宮沢章夫とシティボーイズを中心とした演劇ユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」に導入された、いとうせいこうとゲットーブラスター(巨大なラジカセ)をやはり思い起こさせる。


 いわゆる“オールド・スクール”ーーヒップホップ初期のパーティのフライヤーと当時の様子を捉えた写真を集めた分厚い『Born In The Bronx』の著者であるヒップホップ歴史家、ヨハン・クーゲルバーグの2006年のこのレコードの発見により、長らく最初のラップ・レコードと謳われていたFatback Bandの「King Tim III」はそうではなくなった。


 Fatback Bandがラップ・レコードを制作したのは、ラップ/ヒップホップがダンス・ミュージックだったからだ。Fatback Bandは、1960年代末のそのデビューからファンク、そしてディスコへと転じながらダンス・ミュージックを演奏していたバンドだ。それこそ1970年代のサウス・ブロンクスのヒップホップ創世期をドラマ化したNetflixの『The Get Down』では、ヒップホップを発見し友だちとクルーをつくる主人公と、彼が恋をした少女が歌い始める華やかな成功を志向するディスコは異なった2つの音楽、場、それに価値として描かれている。ヒップホップのこの位相は、優れて日本のポップ・ミュージックとしてディスコを解釈した角松敏生にして、先駆として1980年代はじめにヒップホップに接近させながら、彼をそこにくぎ付けにしなかった理由でもある。ヒップホップがそれまでの音楽と異なっていたからだ。


 ヒップホップ/ラップは、1970年代に、メタ的なーー録音芸術として著しく自己参照的な性格を伴って登場した、幾つかのポップ音楽ジャンルのひとつだ。メディア/ポピュラー音楽研究のジェイソン・トインビーはそれを著書『ポピュラー音楽をつくる ミュージシャン・創造性・制度』で、こう記しているーー“私の論じたように、ポピュラー音楽制作が常軌を逸しているのは、その継続的な技術的再帰性である。ポピュラー音楽とは、身体と機械の関係が、新しい、はらはらするようなやり方で再発明されている領域”だ、と。


 1967年にジャマイカからの旅客機からJFK空港に降り立ったクライブ・キャンベル少年、すなわちヒップホップの創始者の1人、DJKoolHercの有名なエピソードに触れずとも、ヒップホップ/ラップの前にいたのはジャマイカのレゲエ/ダブであることは間違いない。音楽を通してのバトルの形式は、MCのフリースタイルの前にDJ同士、サウンド・システム同士のものがあるわけだが、それはジャマイカに遡る。また、早くも1960年代にはラップにあたるトースティングが、ダンスホールではマイクを通して行われており、彼らがボイス・オーバーをしたのは、既にリリースされた曲のインストゥルメンタル/ダブ・バージョンだった。マイケル・E・ヴィールが指摘したように、それは“録音されたポピュラー音楽を「形の決まった『商品』」から「より流動的な『過程』」に変えた”。いわゆる先行していた写真や映像といった記録芸術と同じく、“当初記録目的しかないと誤解されており、劣った見せかけの現実しか作れないと思われていた。しかし実際にはこれらのテクノロジーを創造的に使うことで、新しい形の現実を作り”、“ジャマイカが外の世界と交流するための豊かな空間と新しい文化的な型を生み出し”、“20世紀末の環大西洋地域を音で表象するものとして再想像されるように”なった。ここでは、ダブは単なるサウンド効果ではなく、植民地支配後のジャマイカのアフリカン・ディアスポラの経験された過去と未来の響きあいとして見做されているのだ。


 現実の日々と似て、アートの文脈でも、たったひとつの出来事、たったひとつの夜、たったひとつの作品がその後の時間に戻りようのない影響を与えていく。


 1980年10月3日から始まったワールドツアー『FROM TOKIO TO TOKYO』の期間中、11月2日、ロサンゼルスでのテレビ番組『ソウル・トレイン』のYellow Magic Orchestraの公開スタジオ収録は、日本人とアフリカ系アメリカ人双方がお互いを発見することとなり、ヒップホップの歴史の決定的な影響を与えた。


 さて、Yellow Magic Orchestraとそのメンバーたちは、このツアーの前後にもヒップホップの歴史からみて重要なリリースをしている。そのひとつは、ナイジェリアの“アフロ・ビート”の創始者として知られるFela Kutiに影響されたワン・コードにしてダブ楽曲、坂本龍一のソロアルバム『B2-Unit』からの「riot in Lagos」である。


 1977~78年ーーMalcolm McLarenとSex PistolsがロンドンとUKを丸ごとシチュアショニスト流儀に倣って“スペクタクル”でまだ騒乱に巻き込んでいる時期ーー日本とアメリカ、そしてヨーロッパのレコード会社やジャーナリストたちはいわゆる“第三世界”からの音楽に注目をし始めていた。これは後に拡大して“ワールド・ミュージック”ブームに繋がっていく。Fela Kutiの作品もレコードとしてアメリカでもリリースがされ、輸入盤として日本にも入ってくるようになっていた。そのうちの1枚、例えば「Expensive Shit」といった曲を聴くと、坂本龍一の影響を受けたという発言を理解できると同時に、西欧音楽の直線的な歴史から自在に概念を引き出し、暗喩や音響的表象としてのダブ、その芯を見透していたことにあらためて瞠目する。


 YMOと同じくプロダクションにTR-808を使ったこの曲は、ヒップホップの創始者であり歴史を変えた「Planet Rock」をリリースしたDJ Afrika Bambaataaに大きな影響を与えた。


 そしてYellow Magic Orchestraの3rdアルバム『BGM』に収められた細野晴臣の「RAP PHENOMENA/ラップ現象」。テクノロジーの間に顕れる“もののけ”への関心をロック以前のポピュラー音楽の伝統に沿ってノベルティ・ソング的に仕上げたものだが、その後スネークマンショーのためにラップ/ディスコ曲「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」をプロデュースする初期の日本語ラップ史に重要な細野晴臣の最初期の仕事である。また、ここでの「1、2……」と断続的な日本語での数のカウントはKraftwerkでの「Numbers」と同じく太平洋を越えて「Planet Rock」に直接に取り入れられただろう。


 KraftwerkとならんでYellow Magic Orchestraが、Afrika Bambaataaやそれに続く長いヒップホップの時間と空間と共振をみるのは、しかし、いくら歴史的に重要であってもある特定の1曲のあるフレーズの引用にあるというのではないーーAfrika Bambaataaは、「Planet Rock」や現在までに彼がリリースした楽曲のみで知られているのではない。彼はブレイクビーツという概念を拡大しほぼ現在までに渡って広く流布している(ヒップホップ)DJの定義を与えた。


 Afrika Bambaataaの他の幾つもの顔と活動、サウス・ブロンクスのストリート・ギャングのリーダーとして組織のみんなを音楽によってポジティブな方向へ再編成していくこと、ミュージシャンとして新たな楽曲を創作することなどは、他人の楽曲(のブレイクビーツ)を操作するDJという行為とばらばらにあるのではない。


 そこには“ほんとうにKraftwerkとYellow Magic Orchestraにのめり込んでいた。私は、バンドなし、電子楽器のみのレコードをリリースする最初の黒人グループになりかった”というAfrika Bambaataaの欲望がある。この欲望は、彼が現実世界で居住していた荒れ果てたサウス・ブロンクスとその周りを取り囲むアメリカ合衆国において彼が見てきた“黒人は、あれはしてはいけない、これもしてはいけない”環境と繋がっている。彼が選ぶブレイクビーツが、その初期からThe MonkeesやThe Rolling Stonesの名曲やBilly Squierの「The Big Beat」といった幅広い選択肢にあったことを生み出しているのは、現実世界で黒人ーーアフリカ系アメリカ人としてホモジニアスな方向へアイデンティティを補強するのではなく、彼らが押し込められた低所得者用の団地の窓から外に見える広い世界に向っていく、社会的/心理的な要因と呼び合っている。よく知られているように、アフリカ系アメリカンの文化史のなかで、こうした傾向や考えを持つのはAfrika Bambaataaが最初ではない。Sun Raという特異な、偉大な先駆者がいた。この未知の世界への欲望は、そのSF的な意匠とともに“アフロ・フューチャリズム”と呼ばれている。


 1982年、日本では映画『ブレードランナー』が公開された。SF作家フィリップ・K・ディックの原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きに、当時から遥か未来の2019年のロサンゼルスが描かれたが、それは有色人種(アジア人やメキシコ人)が降り続ける雨と巨大なネオンサインの間を群れになって動く暗い風景だった。『ブレードランナー』は今でこそ知る人が多いが、リドリー・スコットの長編監督作品としてふたつめで、当時はカルト映画とされていた。しかし、この映画を見た人々はその歌舞伎町の夜を思い出させる美術と雰囲気にのめり込んだ。1980年代の日本のサブカルチャーのディストピア指向は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』が既に設定していたが、『ブレードランナー』の影響は無視出来ない。


 藤原ヒロシと高木完、のちのTiny Punksの2人組もこの映画を見て影響を受けたことを記事にしているが、当時ニューヨークでこの映画を見た中西俊夫も忘れらなかった。そして、原爆。映画『ゴジラ』の第1作目は言うまでもなく、原爆の原体験が落とす暗い影は、バブル経済によってもたらされた誇大妄想的な傾向の裏返しのメランコリアとしてつきまとった。1982年のニューヨークでAfrika BambaataaのDJとRock Steady Crewのブレイクダンスを体験した中西が自身の新しいユニットに書いた曲は「Final News」ーー手塚治虫の短編集『空気の底』(大都社)に収められた「猫の血」に刺激を受けた“終末SF”テーマのものだった。


 同じ年、葛井克亮という青年はニューヨークで今まで見たことのない映画に出会っていた。


「私とフランはニューヨークでアメリカのクルーが日本に来たときや、日本のクルーがニューヨークに来たときにコーディネートする仕事をしていました。そのときに、関係が深かった映画配給会社・大映の作品で、アメリカの配給先を決める手伝いをした『雪華葬刺し』(高林陽一監督)がニューヨークの「New Directors/New Films Festival」で上映されて、57丁目の劇場に観に行ったんです。その映画祭の会場で、普通の映画ファンでないお客さん、42丁目に来るブルース・リーの映画を観にくるような黒人がドッとやってきたので、何だろう?と思ったら、それが『ワイルド・スタイル』で、フランとこの作品を観ることにしました。そうしたら、1982年当時珍しい、強烈な熱気と見たことのないカルチャーに驚きました。まだヒップホップという言葉もなかった時代です」(荏開津広)