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『光をくれた人』は尊さに満ちた作品だーーデレク・シアンフランス監督、大舞台での演出を読む

2017年05月30日 12:33  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『ブルーバレインタイン』(10)のデレク・シアンフランス監督が、ドリームワークスで映画を撮る。それだけでも事件だ。あの有機的かつ親密な空気感を紡ぐ演出術はインディペンデントな映画でしか成しえない所業だと思っていたが、そんな彼はかねてより『ブルーバレンタイン』の大ファンであると公言してはばからないスティーヴン・スピルバーグの誘いを受けて長編4作目をこのスタジオ映画として撮ることとなった。しかも初の原作モノ。果たしてこの大舞台と、彼らしい親密かつアーティスティックな作風は相容れるものなのか。これは才能ある映画監督がまた一つのステップを昇る試金石ともなろう。


参考:『ブルーバレンタイン』から『光をくれた人』へーー シアンフランス監督が語る「映画で夫婦を描き続ける理由」


 物語の始まりは1918年。第一次大戦の直後、戦場で心に傷を負いオーストラリアへ帰還を果たしたトム(マイケル・ファスベンダー)は、インド洋と南極海のぶつかる洋上の孤島で一人、灯台守りとしての仕事に就くこととなる。彼以外にこの島に住む者はいない。まさに外界から隔絶された地。そんな孤独な彼が、手続きのために島から本土へと戻った際、イザベル(アリシア・ヴィキャンデル)によって生命の輝きをもたらされる。二人は恋に落ち、やがて結婚。そしてイザベルはお腹の中に新たな生命を授かり……しかし運命の神は彼らに過酷な試練を与えた。授かった生命はこの世に誕生することはなかった。それも一度ならず、二度までも。そんな傷がまだ癒えぬある日、1隻のボートが島に打ち寄せられる。舟内には息絶えた男性と、元気な赤ん坊。イザベルはその子を自分たちの子として育てたいという思いに駆られるが……。


■失敗を恐れず、俳優にすべてをさらけ出させる演出術


 どうやらシアンフランス監督には恐れや焦りなどなかったようだ。今回もまた、彼らのチームがよくやるように、ごく少数だけで共同生活を行いながら、演技を超えた親密な空気感を醸成していったのだという。特にファスベンダーとヴィキャンデルについては、まるで『ブルーバレンタイン』のライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズを彷彿させるかのような濃密さで、時系列を経て変容していく二人の間の複雑な感情を見事に表現している。


 作品資料を紐解くと、シアンフランスによる興味深い一言があった。曰く、「役者からの最大の贈り物は、“失敗”である」。役者にはそれが良い演技か悪い演技か自己評価することなく、すべて包み隠さずさらけ出してほしいのだという。カメラの前で思い切り恥をかいてほしいという。なるほど、過去の『ブルーバレンタイン』といい、『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』(12)といい、いずれも自由にさらけ出された唯一無二の感情が大切に内包されていた。つまるところ、今回のファスベンダーもヴィキャンデルも失敗を恐れずに全てをさらけ出す二人だからこそこの世界の住人となれたのだろう。また、彼らが安心してそのような境地にまでたどり着けるようにいざなうのが彼の演出術なのだ。


■光を得ること。光を与えること。


 原作モノというだけあり、そのテーマ性にも文学的な深みがにじむ。例えば、本作の舞台の一つとなるヤヌス島。ヤヌスとは「終わり」と「始まり」という二つの顔を併せ持つローマの神の名前だという(そう考えると『ブルーバレンタイン』もまさにヤヌス的な作品だ)。そして二つの海がぶつかるその孤島で、主人公たちの心もまた二つの側面に引き裂かれる。


 トムはもともと戦場であまりの悲劇を目撃して心の傷を抱えており、またイザベルも兄たちが戦士したことに心を痛めている。しかし、この映画のタイトルにも、原題にも、そして邦訳本のタイトルにも「光=light」という言葉が含まれているように、この物語の中で登場人物たちはそれぞれが、光をやりとりするかのように生を紡ぐ様子がうかがえる。そうしなければ生きてはいけない、とでもいうように、その表情は一途だ。


 そもそも灯台守りという仕事は真っ暗闇の海を照らし、人々に光をもたらす職業である。兄たちを失ったイザベルもまたトムに生きる喜びを与えることで光を注ぐ。二人はお腹の中の生命を亡くすという悲劇を体験するが、それでも海の向こうから小舟に乗って届いた光に喜びを得る。そのまま胸の中に光を抱き締め続けることもできたかもしれない。世界がヤヌス島のみで成り立っているのであればそれは可能だったろう。しかし、世界は密接につながっている。誰かの喜びは誰かの悲しみを意味することだってある。これは当時も現代でもまったく同じことだ。


 久方ぶりの本土でトムは真相を知る。その瞬間、天啓を受けたかのような曲が響き渡る。自分たちは知らず知らずのうちに他人の光を奪っていた。かつて戦場で多くの仲間の命を失い、お腹の中の子供を失い、光を失うことの途方もない悲しみを知っているからこそ、トムの中でその行為が耐えられないものとなって膨らんでいく。彼の魂は二つに引き裂かれている。いやむしろ、そうやって様々な表情や思いに引き裂かれる姿こそ本来の人間の真っ正直な姿なのかもしれない。


 中盤から登場するレイチェル・ワイズ演じるハナという役柄もまた、誰かにかつて尊い光を与えられ、その光を失ってしまった女性だ。彼女がやがてトムとイザベル夫婦とその赤ん坊に辿りつくのもまた運命。そして彼女が下す決断もまた、かつて自分へもたらされた尊い光がそうさせたものだった。彼はトムやイザベルと同様、光を得る喜び、与える喜び、そして失う悲しみを深く知る者だ。まったく違う世界に生きてきた両者が出会うのは、悲劇のように見えながらも、しかしその実、「良き魂でありたい」と願い続ける彼らが互いに成し得る、大いなる光の交信だったに違いない。


 『光をくれた人』はこうして人と人とが思いを託しあいながらタペストリーを編み上げていく。『ブルーバレンタイン』のラブストーリーと、『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』の世代を超えた物語、そのいずれのエッセンスをも踏襲しながら有機的な触れ合いや心の変容を描きだすのもシアンフランス監督らしいところ。何よりも海というダイナミックで荒々しく、時に無慈悲な舞台を借りながら、洗い流された最後に残る一握の輝かしさをそっと観客に届けてくれる。その明かりはほのかに温かく、長きに渡って消えることがない。本作はそんな尊さに満ちた作品なのだ。(牛津厚信)