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過激なギャグアニメ『アニマルズ』のカタルシス

2017年05月30日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 人間が見ていないところで、動物たちは何をやっているのか? という疑問をファンタジックに描いた『ペット』という、大人も子どもも楽しめる劇場アニメーションがあったが、ここで紹介するのは、子どもに見せてはいけない、地上波でも放送できないアニメだ。アメリカのHBO(R)の過激なアニメーション作品『アニマルズ』は、ニューヨークで生活する動物たちが暴力やセックス、ドラッグに溺れ、毒舌をぶつけ合うなどの姿を描いている。『ザ・シンプソンズ』や『サウスパーク』、『ファミリー・ガイ』など、アメリカでは過激なギャグが連発されるアニメがいくつもあるが、『アニマルズ』は、ついに配信できる上限まで行ってしまったという感があり、アニメに対して、もっと大人向けの刺激が欲しいと思っている視聴者にはぴったりの作品である。


参考:劇場公開されない作品には受賞価値なし? カンヌ国際映画祭“Netflix論争”当事者たちの見解


 本作はまず、毒舌や過激な描写に圧倒されるが、それと同時に、毎エピソードとも最後には思わず心動かされてしまう、謎のカタルシスが用意されているというのも、大きな特徴となっている。ここでは、本作『アニマルズ』のなかにある「毒」について考えながら、魅力の本質にできるだけ近づいていきたい。


■ニューヨークに暮らす過激アニマルたちの生活


 本作の絵柄を見れば分かるとおり、『アニマルズ』は、リアルな動物の生態を勉強するものでも、動物のかわいい姿を楽しむ性質のものでもない(慣れてくると次第にかわいいと思えてくるところもある)。ここで擬人化され、ギャグとして扱われる犬猫や馬、ネズミ、ハト、虫、魚などに託されているのは、アメリカの都市生活者における、逃げ場のない不安感であり、その周りを取り巻く、個人を抑圧する社会の姿である。あるネズミは、童貞で繁殖の経験がないという悩みから、メスのネズミに声をかけまくっては傷つき、あるハトは自分のジェンダーに悩み、ある猫たちはペットとしての生活をこじらせ、アブノーマルな趣味を持ち始める。このようなダークなエピソードが、毒のあるユーモアとともに語られるのだ。


 1シーズン(全10話)のなかから、エピソードをひとつ紹介しよう。ネズミのフィルは、好きなメスの前に行くと、緊張して何故か下腹部が勃起状態になるという体質に悩んでいる(この設定からして不穏だ)。フィルは発明家であるネズミの友人に、それを隠すためのパンツを開発してもらう。ネズミ社会には加工した布を身に着けるという文化がなかったため、そのオシャレなパンツは、ネズミ社会で空前のブームとなり、その利益からフィルは豪邸と工場を手に入れる。ネズミの低賃金労働者を大量に雇い、新製品を大量生産してさらなる富を得ようとする、もはや当初の目的とかけ離れ、カネと権力に魅了されてしまったフィルのもとを、友人やメスのネズミが見限って離れていく。ここでは、一匹のネズミの勃起コントロール不全を超え、大量消費社会のなかで、ビジネスを拡大させていくことが至上の命題になってしまった人びとの心や、ブランド志向を皮肉っているのだ。


■監督コンビ自らが演じる毒舌芸の面白さ


 監督と脚本は、ニューヨークの小さな広告代理店で働いていて出会ったという、フィル・マタリーズとマイク・ルチアーノのコンビだ。フィルはウェブコミックを描きながらコピーライターの仕事をしており、マイクはビデオの編集をやっていた。彼らが試験的にいくつか作った『アニマルズ』のエピソードは、ニューヨーク・テレビジョン・フェスティバルで好評を得て、プロデューサーのジェイ&マーク・デュプラス兄弟に拾い上げられた。ちなみにデュプラス兄弟は、ロサンゼルスのストリートに生きるトランスジェンダーの登場人物たちの人間ドラマを、全編スマートフォンで撮影したことで話題となった映画『タンジェリン』で製作総指揮を務めている。


 本作を生み出したコンビの名前、「フィル」と「マイク」が、『アニマルズ』の多くのエピソードでそのまま各動物のキャラクターにつけられているように、彼ら自身が仲良くキャラクターの声優も務め、アドリブや毒舌を多用した会話が作品の面白さの核となっている。フィルとマイクはおそらく、会社での勤務が終わると、バーなどで会社や世の中に対する愚痴を言い合っていたのだろう。このように会話の細かな内容が中心となる手法は、MTVのギャグアニメ『Beavis and Butt-Head』(ビーバス・アンド・バットヘッド)が、実際のミュージック・ビデオに向かって、リアルタイムで悪態をつきまくるというスタイルにも近い。


 通常、他人の悪態や愚痴というのは、ことに日本においては嫌われる傾向にある。しかし、本作におけるフィルとマイクの「ダベり芸」は、あまり嫌味を感じず、素直に楽しめるものとなっている。その背景には、政治・社会批判を下敷きにした、アメリカのしゃべり芸「スタンダップコメディ」という文化の洗練があるだろう。そこで必要になるのは、公正な庶民感覚と反骨精神、優れた知性と豊富な知識である。そこが、現在の日本とアメリカの「笑い」に求められる決定的な違いでもある。


■過激表現の中に隠されたカタルシス


 フィルとマイクはなぜ、社会に対して不満をぶつけ、悪態をつき続けるのか。それは、彼らが実際には、むしろ純粋な存在であることを示しているのではないだろうか。『アニマルズ』が描いている通り、社会は、社会的弱者やマイノリティに対して不公平であり、悪徳と堕落に満ちている。本作で「人間」として登場する人物は、あらゆる悪徳に踏み込み、殺人を犯しながらニューヨーク市長への階段を登ろうとする。彼は、そのような汚濁に満ちた社会の象徴となっている。そういう現実を誤魔化すかのように、汚いことを意図的に無視した、ただポジティヴなだけの表現が、世の中にはあふれている。そういうときに我々は、「そうは言っても、現実はこんなにひどいじゃないか」と思ってしまう。明日を生きるためには、やさしく励まされるだけでは物足りないこともある。本作の「毒」は、ある意味「薬」にもなり得るはずである。


 また、そこにあるのは、近代的なアメリカ文学の手ごたえでもある。堕落した価値観と荒廃した社会によって、純粋な魂を持った主人公が反発するという構図は、アメリカ文学を代表する、エポックな名作青春小説、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』はもちろんのこと、70~80年代に活躍した、労働者階級出身のレイモンド・カーヴァーが書いた、小市民による社会への破壊的な怒り、また、80~90年代にニューヨークの風景や人間の実感を切り取ったポール・オースター、『レス・ザン・ゼロ』や『アメリカン・サイコ』などで時代の寵児となったブレット・イーストン・エリスのような、社会から逃げる、社会に抵抗をするという、一種のロック・ミュージックとも接続されるアナーキーな精神である。


 本作の主人公たちは、社会のマイノリティであったり、何らかの傷を抱えている異端的存在である。しかし実際は、社会の誰もが、何らかの意味で多かれ少なかれマイノリティである部分を持っているはずである。本作は、そのようなキャラクターの心の叫びを描く。本作における謎のカタルシスの正体とは、社会に立ち向かい、ときに敗れ去り消え去ってゆく、純粋さを秘めたマイノリティたちの生き様そのものである。それこそが本作をただの過激ギャグから、より奥に踏み込んだ領域に進ませている。本作『アニマルズ』は、純粋な魂を持ったマイノリティへの応援歌であり、多様性を尊重する姿勢への賛歌でもあるのだ。(小野寺系)