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Mr.Childrenはなぜ今“普通のロックバンド”を謳歌? 25年のキャリアから考察

2017年05月28日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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■Mr.Childrenを通して振り返るJポップの歴史


 今年デビュー25周年を迎えたMr.Children(以下、ミスチル)が、5月10日にそれを記念したベストアルバム『Mr.Children 1992-2002 Thanksgiving 25』『Mr.Children 2003-2015 Thanksgiving 25』をリリースした。『Mr.Children 2001-2005 』『Mr.Children 2005-2010 』(2012年5月10日リリース)以来のベストアルバムとなる今作は、シングル曲を中心に2枚で計50曲を収録。配信のみの取り扱いで、1年間の限定発売となる。


 現時点でミスチルの音源はサブスクリプションサービスでは聴くことができず、また自身でも「I ♥ CD shops!」といったCDショップを支援するような取り組みを行うなど、彼らは今の音楽マーケットにおいては「フィジカルを重視する度合いが非常に強いアーティスト」と言える。そんなミスチルが配信のみでベストアルバムをリリースしたというのはなかなか興味深い事案である。『REFLECTION』(2015年6月リリース)では音質を落とさずにたくさんの楽曲を収録するためにUSBでのリリースを行ったり、『SENSE』(2010年12月リリース)では事前告知なしで作品を発売したりするなど、ミスチルは流通面においてもユニークなトライを継続して行っている。どういった手法が自分たちの肌に合うか、いろいろと模索している最中なのだろう。


 ここまで触れてきたとおり、今回のミスチルのベストアルバムには作品周辺においても語るべきポイントが多数含まれている。ただ、今作で特に注目したいのは、やはり25年分のシングル曲がずらりと並ぶ曲目である。「ミスチルのベスト盤」である以上、大半の楽曲がヒット曲であるというのは事前にわかっていたことでもある。しかしそれでも、今作を聴いてみると「ミスチルの楽曲は“単なるヒット曲”ではなくて、“リリースされた時代の空気が反映された音楽”だ」ということに改めて気づく。誰にでもあてはまる恋愛について歌うだけではなく、かと言ってその時々の社会問題を憂うだけでもない、個人のミクロな感情とマクロな社会の動きを密接に結び付けながら紡がれていく彼らの作品はいつの時代も多くの人の心を惹きつけてきた。


Mr.Children『GIFT』
 渋谷系的な文脈で語られることもあったデビュー当時の楽曲。タイアップの力を活用しながら支持を集め、Jポップの時代を呼び込んだ「CROSS ROAD」「innocent world」。自我のあり方や社会への不安・怒りをキャッチーなメロディに乗せて歌い上げることで大ヒットを連発し、「ミスチル現象」なる言葉も生み出した90年代半ばの数作。桜井和寿の小脳梗塞からの復帰を経てさらに国民的バンドとしての地位を盤石にしていく過程での2000年代前半の作品、およびそんな中で当時の世界情勢をタイムリーに楽曲に落とし込んだ「タガタメ」。NHK北京オリンピックの放送テーマ曲としてこの年を代表する楽曲となり、初出場となった紅白歌合戦でも歌われた「GIFT」。枚挙にいとまがないが、バンドとしてのキャリアの総括がそのまま時代の総括とリンクしているかのような今作は、90年代以降の日本のポップスの歴史を再体験できる作品と言っても過言ではない。こんなベストアルバムを作ることができるのは、あとにも先にもこの人たちだけではないだろうか? また、ボーカルが前面に出るように各楽器の音が配されるバランスや、バンドアレンジとストリングスの組み合わせの妙など、サウンド面における「Jポップらしさ」につながる要素が全編にわたって展開されているのも今作の聴きどころのひとつである。90年代のミスチルをリアルタイムで知っているオールドファンにとっても、そうでない若い層にとっても、今現在自分たちが愛しているJポップの根幹にあるものを知ることができるという点で非常に意義深い作品である。


■ベテランミュージシャンと固定化されるイメージ


 「90年代以降の日本のポップスの歴史を再体験できる」と先ほど書いたが、そういった意味では今作に収録されている2010年代の楽曲に「90年代のミスチルのような“大ヒットしたシングルCDの楽曲”」がないのも「日本のポップスの歴史」を正しく反映しているように感じられる。これについてはバンド単体の問題というよりも、音楽産業が変容する中でわかりやすいヒット曲が生まれづらくなっていたことの方が要因として大きいだろう。


 「ヒット曲が出づらい」という時代認識はここ数年においてJポップの状況を考えるうえでの前提になっていた感があったが、「恋」(星野源)や「前前前世」(RADWIMPS)を筆頭とする2016年に生まれたいくつかのヒット曲はそんな空気を変えてくれそうな予感を漂わせていたし、2017年に入ってもそのムードは継続していると言って良い。マスにいきわたる音楽の価値が再度認められたこのタイミングで、ミスチルは改めて「国民的な音楽」を届けてくれるのではないかと個人的には期待している。


 しかし、ここ最近のミスチルの動向を追っていると、そういった期待とは距離感のあるアクションに精力を注いでいるようにも見える。二人三脚でヒットを生み出してきた小林武史とのタッグ解消とセルフプロデュースへの移行、地方をくまなく回るホールツアーの実施、Zeppでのライブハウス対バンツアーやアーティスト主催フェスへの出演といったロックシーンへのコミット……一方ではドームツアーや朝ドラの主題歌などの「国民的バンド」としての責務を果たしながら、より「普通のロックバンド」としての活動を謳歌しているような印象を受ける。


 このような動きをどう解釈するかについてはファンの数だけ意見があると思う。ミスチルを原体験として音楽にのめり込み、彼らがまさに社会のあり方を変容させていく様を間近で見てきた自分としては、「今の時代に大衆と向き合うとはどういうことか?」を考えるのに全てのクリエイティビティを集中させてほしいとも身勝手ながら感じてしまう。ただ、急激なブレイクの中でいきなり時代の中心に放り込まれた彼らが改めてロックバンドとしての自分たちを再定義しようと志向するのも理解できる。


 「マスに向けたアクション」と「これまでとは異なる毛色のアクション」を並行させている今のミスチルからは、「既存のイメージ」と「新しいミスチル像」のバランスをどうとるか腐心しながら活動内容を検討している様子が伺える。ここで参照したいのが、昨年公開された清春のインタビューである(http://www.excite.co.jp/News/emusic/20160329/E1459239138636.html)。黒夢やsadsなどこれまでの活動の先入観で自分のことを語られるケースが多いという清春は、自らが置かれている状況についての苦悩をこう語っている。


「(筆者注:自分のことを)知らない人が(筆者注:自分の音楽を)聴くとしたら再生回数の多いものになる、そうすると必然的に昔のヒット曲になっちゃうんですよね。それを例えばTwitterとかに貼られると、それが現在っぽい形で見えちゃうんですよ。なので、何をやってもずっと昔のイメージが消えないというか。もちろんありがたいことでもあるんですけど、クリエイトするほうからすると、なぜ新譜を作るのかっていうのがたまにわからなくなる時があるんですよね。長く続ければ続けるほど、いつまでも状況が変わらないことがわかるから、もう(新譜を)出しても意味ないんじゃないかなって。」


 この発言からは、「活動が長くなればなるほど、そこまで培ってきたイメージが固まってくること」「さらに最近では、YouTubeやSNSなどによってそのイメージを再生産する構造がますます強固になっていること」「それによって、今までとは異なるイメージを持ってもらうことが新規ファンに対しても困難になっていること」がわかる。これまでの活動の蓄積が多くの人に認められる、という意味では清春も触れている通り、決して悪い話ではないのかもしれない。一方で、「新しいことをしても意味がないのでは」というベテランミュージシャンの閉塞感は、今後のポップミュージックのあり方に芳しくない影響を与える可能性もある。「若いミュージシャンが新しいことをやり、ベテランは過去にやったことを再生産すればよい。それでみんな十分満足する」というような構図ができあがってしまったら、間違いなくシーン全体でのアウトプットの幅は狭くなる。


■「更新」と「期待」の折り合いをどうつけるか


 アーティストとしての活動が長く続けば、その分ファンも年を重ねていく。そうなると、ファンからの「あの頃の曲を聴きたい」「あの頃のようなことをやってほしい」という声はどんどん強まっていく。もちろん、そういったファンを否定できる人は誰もいないはずである。若い頃に聴いた音楽にノスタルジーを感じるのは自然なことであり、それが染みついた音楽はどんな最新モードよりも美しく響くというのもまた事実である。


 この傾向は、特定のアーティストとファンの関係性のみならず、日本の音楽シーン全体に対してもあてはまる話である。日本全体の高齢化が進む中で音楽は必ずしも「ユースカルチャー」ではなくなりつつあるし、テレビの音楽番組で90年代の楽曲が日常的に演奏されているのにもこういった背景が関係していると思われる。また、過去に時代を彩ったヒット曲の魅力が今でも有効に機能するというのはその楽曲の普遍性の証明でもあり、その楽曲の印象がそれを歌っているアーティストのイメージにスライドするというのもある意味では当然の話である。


 とは言え、どれだけキャリアを積んでいても新たな価値観を提示して自らのイメージを刷新したいという気持ちを多くのミュージシャンが持っているはずである。前述したような「自然なこと」「当然の話」に寄りかかって同じことを繰り返すことで効率的に収益を上げられればいい、などと考える人たちはほとんどいないのではないだろうか。


 自分たちのイメージを更新するために新しい作品を出し続ける(もしくは新しい取り組みに挑戦し続ける)ことと、古くから自分たちを支えてきたファンの変わらぬ期待に応えること。長く活動を続けていくと、この両面にどう折り合いをつけていくのかという問題に必ずぶち当たる。そして、2000年代以降、つまりJポップという概念の誕生後しばらく経ってからデビューした面々も10周年、15周年といった節目を迎えるようになった状況を考えると、この問いに直面するアーティストは今後さらに増えていくはずである。


 おそらく、この問いに対する単一の答えはない。ミスチルのように様々な試行錯誤を繰り返すケースもあれば、前回の当連載(http://realsound.jp/2017/04/post-12102.html)の記事で触れたように音楽的なスキルをつけながら周囲の評価を覆していく中でポジショニングが変わっていくケースもある。また、スピッツやエレファントカシマシのように時代の流れに大きく左右されることなく淡々と自らの音楽を紡いでいくケースもある。そのミュージシャンのスタンスや目指したいことに応じてとるべき道は変わってくるはずだが、願わくばそれぞれのやり方が若いアーティストやこれから音楽の道を志す人たちにとっての道標になってほしい。「音楽を長く続ける」「その中でマンネリに陥らずにクリエイティブなサイクルを回していく」というイメージを誰しもが共有できるようになってこそ、日本のポップスは文化として定着していくのだと思う。(文=レジー)