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『帝一の國』成功の理由は“シナリオ”にあり 学園モノ映画化のポイントを探る

2017年05月28日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 若手の脚本家・演出家として活躍する登米裕一が、気になる俳優やドラマ・映画について日常的な視点から考察する連載企画。第19回は、映画『帝一の國』のシナリオについて。(編集部)


参考:『帝一の國』の実写化はなぜ成功したのか? 菅田将暉らが息づかせたキャラクターのリアルさ


 映画『帝一の國』が、公開4週目を迎えてなお大ヒット中だ。今をときめく人気俳優が勢ぞろいしていることはもちろんだが、古屋兎丸による原作のファンが納得するほどの優れた仕上がりであり、その評判の良さから原作ファン以外も劇場に足を運んでいる状況だという。いったいなぜ、『帝一の國』は成功したのか。今回は脚本家の立場から、その理由を考察したい。


 多くの漫画が映像化されている昨今、すべての作品が原作ファンを納得させられている訳ではない。原作のイメージを再現できるほどのCG予算が確保できなかったり、原作キャラクターのイメージに合ったキャストが揃えられなかったり、その理由は様々だ。その中でも特に批判が目立つのは、原作をシナリオ化することに失敗するケースではないだろうか。


 当然のことだが、どんな漫画作品だって、すべてのシーンを完全に映像化するのは、ほとんど不可能である。尺や予算の都合もあるが、そもそも漫画と映画は異なる表現だからだ。だからこそ、シナリオ化するに当たって、原作のどのシーンを使うか、あるいは使わないかを決めるのは極めて重要である。引き算の作業は、どうしても発生するのだ。


 脚本家の間では一般的に、漫画原作を2時間程度の映画にする際は、全5巻前後の作品が適していて、すべてのエピソードを無理なく反映出来るとされている。それ以上の巻数になる場合は、映像化する際にどうしても削らなければいけないエピソードが発生する。『帝一の國』は基本的にCGが必要なシーンがあまりなく、比較的低予算で製作することができる学園モノであるため、その意味で映像化に向いている作品だが、一方で全14巻の原作のため情報量は多い。つまり、どうシナリオ化するのが大きな鍵となる作品である。


 長尺の原作を映像化して成功した例としては、ひとつは『るろうに剣心』シリーズ(2012年~2014年公開/全28巻)のように、三部作にして映画自体を長尺にするケースと、もうひとつは『アイアムアヒーロー』(2016年公開/劇場公開時に全20巻)のように、エピソードを丁寧に取捨選択してうまく成立させるケースがある。しかし、『帝一の國』の場合は、どちらのケースにも当てはまらない。主人公らが入学してから卒業するまでの3年間を描くことに意味がある作品は、物語を途中で分断することが難しく、かといって登場人物やエピソードを端折りすぎると、物語のダイナミズムが失われる可能性もある。


 『帝一の國』で大鷹弾を演じた竹内涼真が、主演を務めた『青空エール』(2015年公開/全19巻)の場合は、物語の真ん中である高校2年時のエピソードを丸ごと削るという荒技で、物語にドラマティックな変化を付けることに成功していた。一方、『帝一の國』では、それとはまた別のアプローチで3年間を描き切っている。原作の魅力的なエピソードを勇気を持って捨てているのは同じだが、物語の繋がりを描くために、主人公である赤場帝一(菅田将暉)の“回想”という手法を用いて解決しているのだ。


 実際、物語の冒頭は帝一の独白シーンから始まる。これまでのエピソードを回想にまとめることで、自然な形で時間を飛ばしているのだ。これによって、映画全体のスピード感が増しているのも注目するポイントだろう。この、回想によって時間を飛ばす手法は、同じく漫画原作映画だと『寄生獣』(2015年公開)でも用いられているが、『帝一の國』の場合は、その回想シーンが生徒会長立候補時の政見放送の収録現場であったことが物語が進むにつれて発覚しており、伏線としても用いられているのが巧みである。


 学園モノの漫画をシナリオ化するうえで、どのように時間を削り、繋げるかが最大の難所といっても過言ではないだろう。そしてそれは、脚本家が原作の魅力をどれだけ深く理解し、リスペクトを抱いているのかが問われる仕事であることはいうまでもない。そこに、原作のイメージを再現できる実力派俳優が集まれば、なにかと批判されがちな漫画原作映画にも、傑作と呼べる作品は生まれるのである。(登米裕一)