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『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は本当に“サイコー!”なのか?

2017年05月21日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Marvel Studios 2017

 興行成績が好調な近年のマーベル映画のなかでも、とくに大きな支持を得ているひとつが、コメディー色の強い異色ヒーロー作品『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』である。その続編『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』は、アメリカ国内に限っては、先駆けて公開されたドル箱シリーズの『ワイルド・スピード ICE BREAK』の興行収入を追い抜くなど、今回さらなる快挙を達成している。人気の理由は、銀河を救う英雄たちのとぼけた個性と、次々に挿入されるギャグ、往年のポップ・ソングをBGMにしたグルーヴ感にあるだろう。また、『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』などに比べて、「いかにもヒーロー」といったヴィジュアルではないというところも、今までにないファン層を掘り起こすことに繋がっているといえる。前作は熱狂的な反応が多く、「サイコー!」との声があがったが、本作も「前作以上にサイコー!」との声が聞かれる。


参考:意外に苦戦中!? ファン絶賛『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』の興行を分析


 しかし、この『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(以下『GotG』)のシリーズは、本当に「サイコー!」なのだろうか。たしかに上記のような点が評価されるのは分かるとしても、それ以上に様々な問題も多いと思えるのだ。絶賛の声があがればあがるほど、そんな内容への不満が膨れ上がっていき、その合唱に加わる気になれなくなってしまう。この記事は、同じように、しっくりとこない思いを抱いた人向けに、そういう観客が、なぜ本作にノレないのか、なぜあまり面白いと思えないのか、というところを考察していきたい。そして同時に、現在のハリウッド映画が抱えている問題を掘り起こしていければと思っている。


■CGアニメーションとジェームズ・ガン


 近年、ハリウッドの大作映画は、CGによる視覚効果を多用する傾向にある。『GotG』シリーズは、そのようなポストプロダクション(撮影後の作業)に巨費を投じるマーベル映画のなかでも、とくにその傾向が強く、実写映画というよりは、実質的には「実写を利用したCGアニメーション作品」といえるくらい、全編がCGで彩られている。


 このような映画づくりに先鞭をつけたのが、新しい技術であるCGと、従来のアニマトロニクスなどの視覚効果を見事に組み合わせ完成度の高い傑作に仕上げた、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジュラシック・パーク』であり、またその後、CGの研究を重ね製作体制を作り上げ、映像の可能性を飛躍的に押し広げた、ジョージ・ルーカスによる『スター・ウォーズ』新三部作であった。これらの作品が偉大なのは、CGを利用しながら、それまで誰も見たことのない世界を表現し、映画はもちろん、映像分野全体に革命的な変化をもたらしたところにある。


 たしかに、『GotG』シリーズには信じ難い数の一流スタッフが動員され、膨大な量のCGアニメーションが潤沢に使用されている。しかし、『ジュラシック・パーク』や『スター・ウォーズ』新三部作の影響がベースにありながら、それでもこれらの映像世界にあったような、新しさや興奮というものを感じにくいというのは、既存の映像表現を革新しようとするような、監督の強い意志や興味が欠けているのではないかと思えるからである。例えば本作『GotG:リミックス』の見どころとなっている、冒頭の「長回し」アクションは、既にスピルバーグ監督の『タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密』などの先行作品において、もっと過激に表現されてしまっているのだ。優れたアニメーションを作るには、監督自身もアニメーション表現への強い想いと、確固とした映像のイメージやフェティッシュが必要なのである。これは、アニメ出身の天才監督、ブラッド・バードが、監督としてすべてをコントロールした実写作品の絵作りと比較すると分かりやすいはずだ。もちろん、そのようなアニメーション作家としての素養の欠如というのは『GoG』シリーズのみに限った話ではない。実写映画がアニメーションに近づいたことで、そのようなヴィジョンが、映画監督にも否応なしに求められるようになってきたのである。


■「新しいものなどない」既存の表現で勝負する世代


 それでは、ジェームズ・ガンは良くない監督かというと、そんなことは決してない。たしかに彼は本来、新しい映像表現に挑戦するというよりは、既存の作品のパロディーを描くことで面白さを追求するオタク作家だった。このような作家性というのは、「新しい表現なんてどこを探してもない、重要なことはもうほとんど表現され尽くしてしまっている」という、世代に共通する一種の諦念から始まっている。


 芸術家マルセル・デュシャンが、向きを変えた男性用小便器に、そのまま「泉」というタイトルをつけて美術品にしてしまうという、既存のものに別の意味を与えることで、「レディ・メイド」というアート製作の革命的なアプローチを確立したように、既存の楽曲や映画作品をパロディー化し、それを一種のアートの位置にまで高めた、クエンティン・タランティーノ監督の出現というのは、90年代の映画界における大きな事件だった。ジェームズ・ガン監督は、そのようなムーヴメントのなかで、やはり既存のものを組み替えることで個性を獲得しようとしてきた作家なのである。そのような作風は『GotG』シリーズに登場する、往年のポップソングを寄せ集めたカセットテープ「最強MIX」と、それをSF世界のなかで使用するという姿勢にも表れている。


 ジェームズ・ガン監督の映画界でのキャリアは、超低予算映画を製作するトロマ・エンターテインメントから始まる。そこで初めて脚本と監督を手掛けた、シェイクスピア劇『ロミオとジュリエット』の物語を『悪魔の毒々モンスター』風に作り変えた、お下劣な映画『トロメオ&ジュリエット』、そして、妻がドラッグ・ディーラーと浮気をしたことから、復讐のためにレンチを手に持ってドラッグを売っている人間を殴りつける自警活動にはまっていくという、ヒーロー(?)を題材にした『スーパー!』などの作品では、登場人物の陰茎がモンスター化したり、日本の“HENTAI”アニメを参考にした、少女を襲う触手を表現したりなど、ここでの特殊効果を利用したファンタジックなシーンは、『GotG』に比べればはるかに稚拙ながら、より過激でインパクトを感じるものだったことは間違いない。


■過激な作風からファミリー映画へ


 そのように過激な作風から、今までより低年齢層をも対象にしたメジャー映画にシフトする過程で、ガン監督は今までの持ち味を、かなりの部分で封印しなければならなかったはずである。『GotG』シリーズで、シリアスだったり感動的な展開が始まると、必ずギャグを挿入して水を差すというのは、作品の描こうとするヒーロー賛歌に対する、そんな監督自身の照れ隠しであると解釈できる。それが、従来のヒーロー映画のノリとは異なるということで、観客に好意的に受け取られてきた面があるのは事実だろう。しかし、同様にギャグ満載のヒーロー映画『デッドプール』が、「ヒーローとは何か」という批評的視点をベースにした、ストーリー自体と絡み合ったギャグを練り上げているのと比較すると、『GotG』はユーモアがそれぞれ単発的な、照れ隠しの繰り返しに終始し、ワンパターンに感じてしまうのだ。それは、シリーズ作品になったことでより明確になった問題点である。だから本作『GotG:リミックス』のように、感動的な描写があったとしても、同時にギャグがその感動を相殺してしまうような、一種のアンバランスさが生まれる原因になっている。


 また、ガーディアンズは、「負け犬たち」、「はぐれ者たち」の集まりであることが強調されているが、本作で、ガーディアンズの敵が面白いように仕掛けた罠にかかったり、バタバタと死んでいくシーンや、かわいいベビー・グルートでさえ、大の男を追い詰めて退治してしまう描写があるのを見れば分かる通り、ガーディアンズのような特定の選ばれたキャラクターと、名もなき敵との扱いは、天と地ほどに違う。それは、「負け犬でも、やればできるんだ!」という価値観とは真逆の、エリート主義的な爽快感を描いているように感じてしまうのである。そしてそれは、本当の意味での負け犬の奮闘を描き、現実の厳しさや痛みを味わいながら、それでも前に進んでいこうとする『スーパー!』の精神に感動させられた者からすると、やはり納得しづらい部分である。


 ハリウッド大作映画の多くは、大手スタジオのシステムに管理され、映画会社やプロデューサーの意向に従わざるを得ない場合も多く、監督の存在はどうしても小さなものになりがちだ。マーベル・スタジオは、その中にあって監督の資質を活かすように努めていると標榜するスタジオのひとつであり、ガン監督もそのことを強調している。しかし、それでも映画監督自身が、何らかの確固たる信念を持って作品に挑まなければ、多くの観客に受け入れられるような、保守的な作品づくりに終始してしまう。そういった状況下において、充実した作品を作ろうとするなら、方法は大きく分けて二つあるはずだ。ひとつは、スピルバーグやルーカスのように、映像世界を開拓する眼をもって、新しい表現を目指すことである。そしてもうひとつは、ジャンル自体をぶち壊していくような、破壊的な試みに身を投じることに他ならない。


 私が最も好きな近年のマーベル映画『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』は後者である。ここで試みられた、『大統領の陰謀』のような巨大な政治腐敗を暴くサスペンス演出は、従来のヒーロー作品とは一線を画す違和感あるものとなっている。その無謀とも思える演出自体は、多くの観客の支持を受けることには繋がりづらいかもしれない。しかし、この作品は確実にヒーロー映画の概念を刷新し、ひとつの革命を起こしたといえる。私がマーベル映画に、そしてこれからのジェームズ・ガンに期待しているのは、まさにこのように、ヒーロー映画の価値観や概念を揺るがすほどに、監督自身の持ち味を十二分に発揮してもらうことである。そして彼だけの描き方で、まだ誰も見たことのない風景を見せてほしいのだ。(小野寺系)