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速水健朗の『ワイルド・スピード ICE BREAK』評:シリーズの核心は“バーベキュー”にある

2017年05月19日 15:52  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Universal Pictures

 世の中には、バーベキュー・ピープルと呼ぶべき人々が存在する。


参考:車があれば何でもできる! 『ワイルド・スピード ICE BREAK』は映画というより“プロレス”だ


 一応、ネットの世界ではバーベキューに過剰に反応する連中がいるので釘を刺しておくが、僕はバーベキューが苦手な1人だ。人生において、3度しか参加したことはない。


 それはさておき、バーベキューというのはけっこう大変なものだ。参加する友人たちの時間を調整し、誰のクルマに分乗するか交通手段を差配し、さらに予算を徴収した上で、役割を分担し、買い出しを行い、肉や野菜を調達する。


 調整差配徴収分担調達分配。行政の教科書に出てくる言葉のオンパレードだ。バーベキューを仕切るやつの能力は、相当に高い。だからといって学生時代、生徒会長をやってたような奴が向いているかというと、それも違う。「肉はすぐにひっくり返すな」とか細かいところまで指示を出すような小役人的な人物とバーベキューを楽しみたい人間なんてどこにもいやしない。


 細かい気配りもできて行動はあくまでおおらかで人望がある。そんな奴じゃないとバーベキューの差配者にはなれやしない。僕の知る限り、最強のバーベキュー主催者は、ワイスピシリーズの主人公・ドミニク(ドム)だ。


 さて最新作『ワイルド・スピード ICE BREAK』。当初は、単なる改造車の草レースを楽しんでいたギャングの集団でしかなかったドムたちは、危機に立たされた世界を救うような存在に変化してしまっている。


 世界で一番観客動員できる映画のシリーズになってしまった以上、変化は仕方がない。でも変わっていない部分もある。それはドムのキャラである(もちろん、ドムが登場しない3作目は除いて)。犯罪者の側にいたり、世界を救ったりもするけど、家族と仲間を大事にする彼の行動原理に実はぶれはない。そんな彼の信念がクリアに示されるのが、シリーズを通して必ず登場するバーベキューの場面ではないだろうか。そう、ワイスピシリーズの核心は、バーベキューにあるのだ。この映画の本質を理解するために必要なのは、クルマの知識やそれへの興味ではない。むしろ、バーベキューだ。


 最新作の中身に触れていこう。冒頭はキューバだ。旧車のアメ車天国。アメリカとの国交が断絶していた時代に、正規の部品も入ってこなかったキューバでは、船のエンジンをクルマに積んでしまうような独自の改造車文化が生まれている。とりあえず、何にも巻き込まれずにいるドムは、この国でクルマと自由な空気に包まれ、満足げに暮らしている。おそらくは日常的にバーベキューをやってビールを飲みながら静かに暮らしているのだろう。


 『ワイルド・スピード』シリーズでは、冒頭、ラテンアメリカ世界から始まることが多い。パーティーでかかっている音楽も、ラテンアメリカの影響が強いレゲエ、レゲトン、マイアミベースなどといったジャンルで、それも彼らがバーベキュー・ピープルであることと結びついている。バーベキューの語源、バルバッコアはスペイン語であり、肉をじっくりいぶしたり焼いたりする料理も中南米ラテンアメリカ由来のもの。ちなみに、シリーズを通してドミニクが愛しているビールの銘柄は、メキシコのコロナだ。


 経済学者タイラー・コーエンの著書『エコノミストの昼ごはん』には、アメリカのおいしい食は、移民文化の受け入れと密接な関係にあるとして、その例としてバーベキューが多く触れられる。南部のアメリカには、たっぷり時間のかかるバーベキューを食べさせる店が昼間っから賑わっているのだという。


 移民文化、ラテンアメリカと結びつく南部のアメリカ。ワイスピが生まれる文化的背景と、バーベキューはつながりが深い。


 冒頭のパーティから草レースへという展開もおなじみのものだ。ちなみに、このキューバを舞台とした導入部は、ドミニクのキャラクター紹介するために存在する。大人気シリーズとは言え、未見のお客さんのためにも必要になっている。


 主人公のドムは、クルマの改造の知識があり、運転がうまく、度胸があり、機転が利いて公平な奴。そして、パーティで誰にも一目置かれ、仲間思いで、もめ事を解決し、悪い奴にだって寛容である。そして彼の精神性が台詞としても示される。「大事なのは、マシン(クルマ)の性能ではない。誰が乗るかだ」と。


 今回のドムたちの敵は、シャーリーズ・セロン演じる"サイファー"である。彼女は、ハッカーというかサイバーテロリストである。サイファーは、電子器機を無効化する大量破壊兵器「電磁パルス砲」の強奪する。随分と大味な設定である。予告編で潜水艦とクルマがレースしているのを観て、大味さについてはだいたい想像は付いていたとはいえ……。


 いや待て、設定が派手で大味になっているからといって、駄作になっているわけではない。今作の敵は、むしろこれまでとは違った新しい敵だ。単に強敵とか、邪悪だとかそういった存在ではなく、イデオロギーとしてドムたちと対極にあるものなのだ。


 サイファーは、街中のネット接続された自動運転機能の付いたクルマをすべて起動させ、遠隔で操作できる。ボスキャラとして登場する潜水艦だって遠隔操作だ。ようやく、ここで「大事なのは、マシン(クルマ)の性能ではない。誰が乗るかだ」という冒頭でのドミニクの言葉が、今作の敵を示す手がかりだったことがわかるのだ。この自動操縦車とのバトルというアクションシーン。ここは、対潜水艦バトルよりも観るべき、重要なシーンだ。


 アクション自体もそうだが、観るべきものは戦いの構図。つまり、


運転車(ドライバー)VS操縦車(コントローラー)


 なのだ。これは、敵味方の対立というだけではなく、現代の自動車産業がどちらに進むかのかという指針と重なるものでもある。


 対立の構図は、これだけではない。サイファーはドムが何よりも友だちを大事にする性質を逆手にとる。ここで強調されるのは、サイファー自身は、家族や仲間を持たない個人主義者である部分だ。ドムが、運転の腕と度胸で渡り歩いてきたとするなら、サイファーは、冷徹な知能と用心深さで渡り歩いてきたのだろう。つまり、


家族仲間主義者VS個人主義者


 という構図になる。


 きっとサイファーは、バーベキューになんか呼ばれたことはないだろう。だから次の対立軸も加えておこう。


バーベキュー・ピープルVS非バーベキュー・ピープル


 国もにしばられず、誰の支配下にも置かれることを拒むドムは、自由主義者だがファミリーや仲間を大事にする性質を持つ。おそらく、選挙に行ってもヒラリー・クリントンには票を投じないだろう。WASPではないし、都市リベラル層とは折り合いが悪そうだ。トランプは支持する? ちょっとわからない。


 ただ、ドムを政治思想で区分するならコミュニタリアン(共同体主義者)ということになるはずだ。人種、宗教、文化などの違いを超えて一個の独立した個人を目指すリベラリズムに対して、いや人は1人では生きられないんだから、周りの仲間や家族といった共同体の価値をもっと重んじるべきだというのがコミュニタリアニズム。


 ちなみに、彼が属する共同体とは何か。人種でも地域でもない。宗教は大きい。今作で十字架のネックレスが重要な意味を持つが、ドムは信心深い。お祈りを欠かさない。だが彼の属する共同体は、自分とその仲間だ。彼は、仲間をファミリーと呼ぶ。


 そのファミリーの範囲はどこまでか? ドムのバーベキューに呼ばれる奴がファミリーだ。こうした意味において、この映画にとってバーベキューは重要なのだ。何もドムがチャッカマンで炭に火をつけたり、肉奉行として肉をひっくり返して配ったりするわけではない。ファミリーの儀式として執り行われているバーベキューを差配しているのだ。文化人類学が共同体を研究する際に使われる「再配分」という概念があるが、バーベキューはまさにこれだ。


 集められたメンバーたちは分業によってバーベキューに寄与し、成果として"焼けた肉"が分配される。分配の中心には権力が存在し、そこには義務的な支払いと払い戻しなどの交換が生まれる。


 バーベキューとは権力の構図がそのまま浮かび上がる場所なのだ。だからある種の人々(非バーベキュー・ピープル)には苦手という意識が生まれやすいのだろう。冒頭で触れたように僕もその1人。「あー、速水君、まだそれ焼くの早すぎるから」とか言われがちな、バーベキューに向かない非バーベキュー・ピープルである。


 さて、サイファーの側。ハッカーという存在は、政治思想的にリバタリアンである。リバタリアニズム(自由史上主義)は、小さい政府主義志向であり、再分配よりも競争原理の方が社会をよくすると信じる思想だ。経済格差はむしろ善である、時には利他主義はむしろ社会を悪くする、なんて主張は極めてリバタリアン的な物言いだ。


 ハッカーも基本的には、リバタリアンとしての行動原理を持つ存在だが、もっと先進的でもある。ハッカーには、すべての情報は自由になるべきという倫理感が存在する。


 映画には、サイファーの思想背景は描かれないが、彼女は、人類を支配しようとして「電磁パルス砲」を手に入れたのではなく、テクノロジー兵器を独占する国家に対抗していたりするのだろう。そう考えると、特に彼女が人道にもとるヤバい奴とは思えなくなるかもしれない(映画での描写だけだとヤバい奴だ)。


 『ワイルド・スピード ICE BREAK』を政治思想的に観ると、コミュニタリアンとリバタリアンの対決であり、これを食の傾向で見るなら、バーベキュー・ピープルVSピザとコーラ・ピープルでもある。


 捕捉しておくが、単にドムが仲間を大事にするからコミュニタリアンだといっているわけではない。自分を殺そうとしたギャングでも、改造車を愛する同胞と感じるキューバ人には情けをかける一方、ハッカーの側の部下の男(ハリウッド映画での文法では、殺しまではしないだろうくらいのキャラ)="他者"は冷淡に殺す。この辺の敵味方の分け方、その対処方がくっきり別れる辺りが、これまでの主人公とは違う部分なのだ。


 そして、シリーズの醍醐味は、世界に平和がもたらされることによって生じる大団円にあるわけではない。ドムとその仲間たちという"ファミリー""共同体"に平和なときが訪れることでもたらされる瞬間に至福が訪れる。最新作でも、どこのタイミングかは秘密だが、バーベキューシーンはもちろん存在する。僕自身は、バーベキューが苦手だが、この映画のバーベキューシーンは本当に好きだ。仲間であることを再確認し、祈りを捧げ、食欲を満たす。ビールも美味そうだ。シリーズを通して、何度も何度も描かれてきた。僕にとって、このシリーズは、その場面を確認する作業にもなってきている。


 東浩紀の新刊『ゲンロン0 観光客の哲学』では、他者への寛容を旨とするリベラリズムが影響力を失った現代において「リバタリアニズムとコミュニタリアニズムだけが残されている」のだと指摘されていた。『ワイルド・スピード ICE BREAK』的な敵対構図は、現代社会の構図とも重なるのだ。


「リベラルは普遍的な正義を信じる。コミュニタリアンはそんな正義は信じない。それだけである」、上記の本から引用したこの一節は、ワイスピシリーズを通して語られるドムの行動原理とこれまでの勧善懲悪的なヒーローの違いを示しているかのようだ。
 
 このワイスピのシリーズが世界的にヒットしている理由のひとつに、主人公ドムのコミュニタリアニズム的なヒーロー像という側面があるのではないか。ワイスピには、アメリカ映画にたくさん登場してきたアメリカンヒーローが代表してきたような正義も、星条旗、自由のような理念(ここでは「リベラリズム」の意味で)も見当たらない。


 やもすると地元密着型のマイルドヤンキーのような存在になりがちなコミュニタリアニズム的な人物が世界を股にかけて自由に暴れる。そして彼らは、今作から白人抜きのグループになった。日本車もたくさん登場している。これらの設定は、どれもかつてない斬新なものではないか。


 この映画のファンは、もはやクルマ好きにとどまっていない。いってみれば、彼らはドムが主催するバーベキューに誘われてみたい、そんな人々である。バーベキューが体現する世界のすべてが詰まっている映画。そういってしまうと、バーベキュー嫌いな日本のネット・ピープルとは相性が悪そうな気がする。だけど、僕のようなバーベキューの良さがわかっていない人間こそ持つ、遠くからの憧れということもあるだろう。誘われたら行くし誘って欲しい、ドムになら。助手席に乗るのは勘弁だけど。(速水健朗)