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荻野洋一の『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』評 絶望の浄化の先にあるもの

2017年05月13日 13:03  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2017「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」製作委員会

“きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さないあいだ、きみはきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない”


“水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる”


“会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、”


“きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている”


 女性のモノローグが、地下水のように濁流となって、とめどなく流れ出てくる。他者の無意識を呪い、おのれの自意識を呪う。今ここに立つ東京という街を呪い、捨て去った故郷の暗い過去を呪う。つまり、世界を呪う。この女性主人公・美香(石橋静河)は東京で看護師として勤めながら、夜はガールズバーでアルバイトしている。看護師の給料だけでは実家への送金がままならないためである。病院では、自分が看護していた患者が死ぬたびに、遺族から「どうもお世話になりました」と涙ながらに頭を下げられる。「どうもお世話になりました」この言葉が頭から離れなくなる。「大丈夫。すぐに忘れるから」と美香は独りごちするしかない。


 もうひとりの主人公・慎二(池松壮亮)。工事現場ではたらく非正規雇用者。生まれつき片目が見えない。世界を半分だけ見る男。現場での労働環境はよくない。慎二にせよ美香にせよ、いわゆるプレカリアートであって、これは現代風にいえば「下流社会」についての映画だということなる。そういう意味では『苦役列車』(2012)に近いけれども、あくまでも関係構築の不可能性にこだわり、その果てに何があるかを見ようとした『苦役列車』とちがって、美香と慎二の物語——名づけて『夜空はいつでも最高密度の青色だ』は、苦節、暗闇、不運…そういうものの連鎖からの飛翔、つまり絶望の浄化を見ていこうとしている。


 だから、この作品は昔の青春映画のように青臭く、泥から這い上がる。濁流のようにとめどなく流れ出た美香のモノローグが、だんだん少なくなっていくのは偶然ではない。彼女の呪詛と迷いが、どこかで滞留することをやめ、ご破算となるようになったためだろう。「田舎の母親の死因が自殺なのかと疑って、ヘソを曲げているだけじゃないか」と、観客の何割はいぶかしく思うかもしれない。「もっと逞しく生きろよ」と。でも、彼女が立ち直れないのには、それなりの理由がある。慎二との出逢いが、彼女にとってひとつの寛解となるなら、願ってもない。


 筆者は2017年3月、慎二役を演じた池松壮亮に、東京・西麻布の画廊でテレビ番組用のインタビューをおこなった。「どこかで誰が死んでいて、でもきょうも、どこかで誰かが笑っている。生きている。それに目を逸らさないこと」と池松は述べた。慎二と美香が盛り上がらないデートをした日、最後に撫でた道ばたの子犬。その子犬が数シーンの後にはアニメーションとなって保健所で殺され、火葬される。火葬場の煙突から白い灰が飛び散って、東京の街に桜のように降る。慎二たちが働く工事現場にも降る。


 慎二は、アパートの隣の部屋に住む老人(大西力)と、文庫本を貸してもらったりして交流している。「冷房を買うお金もない」と言うこの老人の職業は何だったのだろうか? ちらっと写る老人宅の本棚に、有吉佐和子の『恍惚の人』やダンテの『神曲』に混じって、野口廣の『トポロジー』、日本文学大系の『村山知義、久保栄、真船豊、三好十郎集』なんてものも見えた。それなりのインテリだったのだろう。でも「冷房を買うお金もない」まま熱中症で命を落とす。


 「異臭がする」というアパート住人の声を聞いて、あわてて慎二が老人の部屋に踏みこんだ時には、もう老人の口元に蠅が飛んでいる。筆者はこの遺体発見シーンに強い印象を受けた。池松はインタビューで述べる。「遺体を見つけて “やっぱり” という台詞を言うんですよ。あらゆる予感と、どうにもならない感じをもって。石井さんならではのきわどい表現だったなと思います」。しかし私は、“やっぱり”と言う際の慎二のわずかな微笑みを見て、あ、これはひょっとすると、老人への祝福なのではないかと思ったのである。“人生、ご苦労様でした。最後は僕がこうしてちゃんと看取ってあげたよ”という。池松はそういうイメージは持っていなかったとしたが、「祝福と今言われて、すごく面白いなと思いました」と返答してくれた。


 「石井さんの映画というのは、どんなことをしていても、どんなものを撮っていても、人間讃歌」なのだと池松は言う。「だから、祝福という表現は面白いと思ったんです」。慎二の口癖は「嫌な予感がする」である。そしてその口癖は、この映画では的中していってしまうのだけれど(ストーリー上の詳述は控えたい)、その嫌な予感が的中していく中で、一点突破のように絶望の雲間に少しずつ光が差していくように見える。慎二と美香が初めて会話したあの朧月の晩、慎二が「嫌な予感がする」と言ったとき、月が晴れ渡り、幻想的な青い光線が、あたりの闇を照らしはじめる。「嫌な予感」は確かにあるにあるけれども、澄み切っていく予感もそこに見出すことはできないだろうか? 石井裕也監督は、『舟を編む』(2013)の中でも、松田龍平と宮崎あおいの出逢いを、幻想的な月夜のもとで演じさせていた。


「いやな予感」が的中し、世界がいよいよ悪化の一途を辿るなか、慎二と美香は毒を吐き切ったかのごとく、清新なカップルとして誕生し直していく。彼らは最初、掃きだめのようなチェーンの居酒屋で出逢い、次にガールズバーで店員と客として再会し、さらに同じ夜に渋谷の路上でみたび出逢い、前述の青い月夜のシーンとなる。つまり、彼らは泥から這い上がった魚のように出逢い、回を重ねるごとに清新さを帯びていくのだ。


 この映画がいいなと思わせるのは、これが単にカップルが愛を深めて、絶望から立ち直るプロセスを描くのに終始していない点である。ふたりは最初に夜の渋谷で偶然再会し、いっしょに歩く。彼らはたがいに語ったり、押し黙ったりしつつ、こんどは真昼の新宿を徘徊する。さらにはいったん、彼女の田舎に遠征して、闇夜のなかを自転車で往来する。


慎二「それにしても暗いなあ」
美香「東京には黒がないからね」
慎二「黒?」
美香「色の黒」


 本当の黒とやらを体験したふたりは、ふたたび新宿に帰り着く。バスタ新宿。カメラがふたりから素早くズームバックすると、甲州街道の歩道に立ち尽くす男女のちっぽけな点々があるのみ。彼らはみずからを相対化するすべを身につけたのか。と同時に、ふたりが渋谷と新宿を交互に徘徊することによって、あたかも東京の街じたいもまた、浄化されていくかのようだ。映画の序盤では、美香のモノローグで東京はさんざんこき下ろされる。


“都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない”


“私はヤレるか、ヤレないかでしかない。そりゃそうだ。ここは東京だ”


 いさかか首をかしげたくなる。男性が女性を「ヤレるか、ヤレないか」で品定めする下品さは、なにも東京の専売特許でもあるまい。無用な東京批判という気もする。しかし美香自身、田舎でノビノビと暮らせるわけでもないと自覚している。田舎vs.東京のありきたりな対立図式はどうでもいい。ようするに、泥をかぶって、それでも元気でいられるか。慎二と美香は、嫌な予感、死の予感、地震か放射能か爆発の予感のなかで息をしながら、ふたりでいることにどんどん機嫌がよくなっていく。そして東京の街じたいをふたりの歩きが浄化する。


 「東京」とは、つまり新宿と渋谷のことである。石井裕也はそう宣言しているように受け取れる。絢爛たる銀座も、整然たる丸の内も、粋な日本橋も、瀟洒な代官山も、雑踏の池袋も、空虚の皇居もみな「東京」ではない。もはや捨象された「東京」とは、渋谷と新宿の泥水であり、ガスであり、熱であり、非日常感である。ちょうどゴダールが「ヨーロッパとはフランスとドイツのことである」と、いけしゃあしゃあと放言したのと同じように、石井裕也は「東京は、渋谷と新宿のあいだを往来し、渋谷と新宿を徘徊することで起ち上がってくるものだ」と宣言している。あたかもあの美しすぎる小説、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』のなかでナジャと「私」がパリの街をひたすら徘徊することで、パリが初めて起ち上がってきたように。


 映画は最後まで語りきるのは時期尚早だと言っている。つまり、終わりを描く必要がないのだ。それは観客がその続編を演じていけばいいということだろう。だから、原作となった最果タヒの詩集で最も美しい次の一節が、この映画では引用されていない。——“永遠は、喪失でしか表現できない。さよならぼくがいたことを、見失うきみの瞳は美しいまま。”(荻野洋一)