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大人のための実写版『美女と野獣』レビュー “諸星大二郎”さえ感じさせる細部の面白さ

2017年05月12日 17:13  リアルサウンド

リアルサウンド

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 大人であることとは何なのか? まず考えさせられた。この実写映画は、子どもも喜ぶだろうが、それ以上に大人向けである。大人と子どもの目線の違いとは何か? それは「複眼的」であることだ。


 主人公・ベルを演じるエマ・ワトソンが出演していた人気映画『ハリー・ポッター』シリーズと、スチールだけでいいから比べてみよう。『美女と野獣』には、圧倒的な背景の書き込み、構成要素の多さがあることに気づかされる。


 「ディズニーかあ~」といいながら席について冒頭、王子(ダン・スティーブンス)が野獣化する魔法の発動が起こるプロローグに目を奪われた。中世フランスの豪華な夜会だ。ビジュアルの作り込みがとにかく凄い。「こんな化粧ありか」「このドレスはいったい?」と、ゴス好みの少女なら卒倒しそうな豪華さ。トンがったメイクと衣装の洪水である。


 マリリン・マンソン、(その先祖の)アリス・クーパー、ナイン・インチ・ネイルズ、レディー・ガガ、(その先祖の)ニナ・ハーゲン……およそ、ロックのゲテ物系、ビジュアル系、ゴス系といった分野のスター達の要素をチョイ取りしていったようなエグいメイク、ヘア・スタイル、スタイリングの横溢だ。もともと、ゴシック・ロリータは中世衣装などのデフォルメ・拡大解釈で作られてる現代ファッションだが、そういった現代の大げさなレトロファッションを、中世シーンに逆注入したわけだ。もちろん、中世にあんな洋服を着ていたわけがない。史実の映画化ではなく、オトギ話なんだからいいだろう?というわけだ。スタイリスト、ヘアメイク・アーティストのやり放題である。おとぎ話のそういう利用法もあるのである。


 冒頭10数分の野獣変身に至る夜会シーンは、大画面一杯に散りばめられた、現代アートシーンの成果、ビジュアルがてんこ盛り、それは子どもにはちょっともったいない。ガキの目線は、常にどこか1点。「わ~お姫様だ~、キレイ~」「キャー、ケモノに変身した~コワイ~」と広い画面のどこかに集中する。


 大人は、画面のハジッコにエロい化粧のお姉さんが現れたらそちらに目が、それと同時に正面の主人公は「デッド・オア・アライブか? それともヴィサージュか?」等々分析しなくてはならない。大変だが楽しい。


 『美女と野獣』の冒頭イメージの横溢ぶりは『SING/シング』とも共通している。実写のCG処理が発達した結果、画面全体を使って見せ物にすることが流行になってきている。もちろん、そんな金をかけられるのは一部の映画。冒頭で「どのイメージがお気に入り?ハシからハシまで持ってけドロボー」と、笑点の最初の大喜利のように見せる。予算がないとできない。勝負は最初の10分、『SING』しかり『ラ・ラ・ランド』(車上のダンス)しかりである。


 そんな人工的ともいえるイントロダクションが終わると、画面は一気に18世紀頃のフランスの村に転換する。俗悪さが漂った夜会から、素朴さを味わう、空気が良く食べ物が美味しそうな田舎の風景へ。ここにおいても大人は徹底的に楽しまされる。


 ここで苦言をいうと、現代の日本の歴史物ドラマの画面はツッコミどころ満載だ。調度品のピカピカ具合から始まって、ヘアメイクのギラギラ過ぎまで。江戸時代とかにそんな風景があるわけがない。キラめき過ぎ。それで醒める。


 今のハリウッドは違う。『美女と野獣』みたいにお金のかかった映画だと“汚れ”を演出している。もちろんCGだ。日本で対抗できる作品はアニメの『この世界の片隅に』ぐらいだろうか。それも「キチっと大変だった第二次世界大戦中の様子を描こう」という意志があるからだ。


 『美女と野獣』の村のシーンは、まるで時代をワープして観光旅行しているような気持ちになる。とはいえあくまで観光旅行風だが。なぜなら、本物の18世紀のフランスはメチャクチャきったないから。ウンチとか平気で転がる臭気漂う世界だったらしいから。もしそれを実写したら大変なことになる。


 ほどよく素朴な村の雰囲気や18世紀の調度品の数々に目を奪われながら、大人の男なら首ねっこを捕まれるのが、前述したように、ハリー・ポッターで有名、今や世界有数のスターともなっているエマ・ワトソンだ。この英国女性が演じる少女は、フランス人という設定がなされている。だからフレンチ音楽を歌う僕にとってはツボであった。この映画でのエマは、ずばりセルジュ・ゲンスブールの愛する「ロリータ」系である。ソフィー・マルソー、シャルロット・ゲンスブール、英国だけどトレーシー・ハイド(『小さな恋のメロディ』)。いたいけさが残る清潔感と、ちょい知的な雰囲気の少女。彼女の表情は、村の青年ガストン(ルーク・エヴァンス)のエゲつない求愛でますます生きる。そして野獣との切ない愛で絶好調になっていく。


 「多次元的」な画面を支えるのは「脇役にも手を抜かない」という方針。野獣の城の給仕頭、呪いで 「燭台」 に変えられてしまったルミエールには『トレイン・スポッティング』で有名なユアン・マクレガー。時計、ポットと息子のカップ、モップ、などの物系の配役(大半は声のみ)で有名俳優を起用しているのがこの映画の底力を演出している。


 その中で、1991年のアニメ版でも人気が高かったキャラクターのポット婦人(エマ・トンプソン)と息子のカップのチップ(ネイサン・マック)に注目だ。ポット、カップに描かれている顔のアニメ絵が面白い。アニメ版のポット、カップは、ダンボにも通じるような愛くるしい、子ども受けする象さん的キャラであった。ここでは、何とも言えないファジーな表情をしている。


 特にチップだ。映画を見てない人は「美女と野獣 実写 チップ」と画像検索してほしい。「こんにちわ」と日本語キャプションした写真が出てくるだろう。この顔は欧米アニメではトンとお目にかからない絵柄である。ウ~ン何かに似ているんだが……。


「諸星大二郎」だ! この目のウツロな表情は、日本を代表する怪奇漫画家、諸星大二郎の書く、現実を幻想的な視線で見つめる少年や女性の顔にソックリなのだ。「諸星大二郎 アダムの肋骨」で検索してみて下さい。絵柄のパターンが極まっている欧米アニメに新風を吹き込めるのは、膨大なパターンのキャラクターを持つ日本漫画の世界である。本作の作り手たちも、もしかしたら参考にしていたのかもしれない。


 春を謳歌している村から離れ森に入ると、魔法で獣や調度品に変身させられた人々が幽閉される城がある。その周辺は冬のようである。野獣に囚われた父親を助けに行った読書好きな少女ベルは、教養ある野獣にじょじょに惹かれていく。心が決定的に近づく幻想的な「青い森と庭園」のシーンには感心させられた。通常の映画でロマンスが極まるシーンは、太陽や月や花火や海辺といった、誰もが心躍らざるを得ないような定番の場所が選ばれる。ところがこの物語の白眉のロマンス現場は、凍えるような温度感の森と気味の悪い屋敷。演出が難しかったのではないだろうか? 心を高揚させることが難しいはずの寒々しい「蒼い景色」。しかし何故か客の心は高鳴っていく。二人と一つになり、恋する気持ちになっていく。一度しか見てないので詳しくは解明できないが、やはりCG処理により、ハートマークになるように丹念に美しく処理されている風景だった。


 『美女と野獣』の原作は、フランスで書かれた「異類婚姻譚」。それがおとぎ話化されてきた。原作は「3人の娘と3人の息子を持つ商人が、町からの帰り道にある屋敷に迷い込み、もてなしを受ける」という話。大幅に変えられている。本作は、オバマ時代に作られ、トランプ施政期に公開された。


 アメリカ映画であるこの作品を見て、日本人は強く何かを感じるかもしれない。それは権力をふりかざす、卑劣な男ガストンの末路についてだ。


 「強ければイイ女をゲットして当然」とばかりに強引に結婚を迫るガストン。ふり向かない美女ベルに、よけいに惹かれてしまうのは一般的な男の性だ。しかしベルの読書が大好きという設定が、実写映画のここではジンとくる。金や権力より、本と知性。そんな女性は、乱暴な権力志向の男に惹かれない。その骨子は、どうも拝金主義が受けいられがちなこの日本で心に響く。金と名声指向の固まりなはずの米国人に諭されるなんて……。


 自分の欲しいもののためには、ずっとよりそってきた友さえも裏切る! そんな乱暴者の末路は、転落だ! とこのアメリカ映画は教える。


 しかし現実は、そうした腹黒いジャイアンが勝って、人々もろとも、暗闇の国で不自由に永遠に幽閉される未来が待っていないとも限らないのだ。(サエキけんぞう)