トップへ

『ワイルド・スピード』なぜ人気シリーズに? 新作から紐解く“ファミリー最高!”の価値観

2017年05月05日 10:03  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Universal Pictures

 『ワイルド・スピード』も、第1作から16年、今回で8作目を数える長寿シリーズとなった。興行的な規模は飛躍的に拡大していき、前作『ワイルド・スピード SKY MISSION』は、全世界で15億ドル以上を稼ぎ出し、すべての映画の世界興行収入で現在6位という、化け物級の超ヒット作品となっている。本作『ワイルド・スピード ICE BREAK』も、現在10億ドルを突破、映画館数が増加し続けている中国市場では、現在「中国で最も稼いだ映画作品」の称号を手にしている。なぜ『ワイルド・スピード』シリーズは、世界的な支持を受け、ここまでのドル箱映画となったのか。ここでは、いままでのシリーズ作品と、本作『ワイルド・スピード ICE BREAK』を振り返りながら、その人気の理由を、できるだけ深く考えていきたい。


参考:前作から興収比16%のスピードアップ! 遂に日本でも定着した『ワイルド・スピード』人気


 潜入捜査官が、逮捕するべき犯罪者集団のボスのカリスマに惹かれていく『ハートブルー』(1991)という映画があったが、本シリーズは、そのカー・アクション版と呼べる作品としてスタートしている。1作目は、酒のディスカウントショップ、ファストフードの店、ドラッグストア、それから改造車の修理工場ばかりが並んでいるような、ロサンゼルスのダウンタウンにおける、享楽的なストリート・カルチャーが描かれている。2作目以降、マイアミ、東京、ブラジル、キューバなど、その土地ごとに共通のスピリットを見出して、そこに訪れた仲間たちが、より大きな組織に立ち向かうというのが、シリーズに共通した内容である。


 また本シリーズでは、ヴィン・ディーゼルが演じる走り屋のカリスマ、“ドム”が中心となって、ファミリーと呼ばれる仲間たちが、彼の自宅の庭で食卓を囲み、バーベキューをするシーンが印象的だ。『ワイルド・スピード MEGA MAX』では、その習慣が、ドムの父親への思い出からきていることが明かされるが、ここで大事なのは、この小規模の「ファミリー」というのは、マフィアなどの組織的犯罪集団でなく、暴走族の連合などでもなく、あくまで個人における地元の友人の規模に収まっているという点である。そんな集団が国家規模の犯罪に関わっているという設定は荒唐無稽といえるが、彼らがそのような等身大の部分を手放さずに、仲間を切らずに、それでいて世界に通用してしまうというところに、「俺らの地元最強!」という一種のカタルシスが存在するところがポイントであろう。


 登場人物たちがそのような大きい存在に成長していけば、普通は価値観や趣味もハイクラスになっていくのだろうが、ここでは筋肉やドライビング・テクニック、男としての格など、マッチョイズムが依然として賞賛され、イイ女やイイ男と出会い、ビールを飲みバーベキューをすること、かっこいい改造車を所有することという、きわめて大衆的な三大欲求が、全く変質することなく、スケールだけが大きく膨らんでゆくのだ。それもそのはずで、観客自体はドムたちのようなスケールアップを果たしていないので、そこに留まっていてくれないと困るのである。内面が成長しないまま、精神をストリートに残しつつ絶大な力を手にしていくということに意味があるのだ。そして、その世界観における最も崇高な価値観というのが、仲間であり、家族の絆ということになる。本作でも、もちろんファミリーとの食事のシーンによってそれが強く印象づけられ、いまではドムの信頼できる仲間となった、ドウェイン・ジョンソン演じるホブス捜査官も、緊急事態による政府の要請よりも、娘のクラブ活動を応援しようとする子煩悩ぶりを披露している。それはある種、ドメスティックな保守性と結びついているといえる部分である。大衆に寄り添う娯楽映画が、そういう方向に流れていくというのは、世の中の実相を反映した結果だといえそうだ。


 作り手が、このような、もともとの作品のなかに存在していた性質と、大衆のニーズに結びつくポテンシャルに自覚的になってきたのが、4作目の『ワイルド・スピード MAX』あたりからだろう。ここから作品は、「葛藤を乗り越えて成長する」というテーマを切り離し、ほとんど仲間や家族の結びつきや、享楽的な価値観を再確認するという内容に集中するようになった。自分が変わることではなく、自分がいかに変わらないかというテーマにシフトしたのである。本作では、ファミリーの支柱であるドムが仲間を裏切るという展開が用意されているが、それすらも「ファミリー最高!」の価値観を逆に盤石にするような、きわめて自覚的な葛藤として設定されている。


 また、本シリーズに説得力と安心感を与えているのは、やはりドムを演じるヴィン・ディーゼルのスター性と、懐の深さにあることは間違いない。カート・ラッセル、ドウェイン・ジョンソン、ジェイソン・ステイサム、ミシェル・ロドリゲス、そしてヘレン・ミレンと、名だたる豪傑俳優たちを従えても様(さま)になる俳優というのは、ヴィン・ディーゼルの同世代以降のなかでは、ハリウッドでも皆無といっていはずである。ドムのカリスマと親分肌に惚れて、過去の敵が次々と仲間になってゆく様子は、清水の次郎長を慕って精鋭が集まってくるような、勧善懲悪的な古い任侠の世界の表現に酷似し、日本の『悪名』シリーズにおける勝新太郎の存在なども思い起こさせる。このような日本における「任侠」のルーツは、中国の春秋戦国時代にまでさかのぼる。つまり、『ワイルド・スピード』の価値観というのは、アジア圏でもよく理解されやすい、きわめて古い感覚に立ち戻って作られているのだ。そう考えると、ファミリーの仲を裂こうとする本作の敵が、テクノロジーとインテリジェンスを後ろ盾にしたサイバーテロリストであるというのも自然な流れである。そして、ここに至る流れを作ったのが、3作から6作までを監督した、台湾系アメリカ人であるジャスティン・リンだったというのは、無視できないだろう。


 興行面で大幅に飛躍した7作目のお膳立てをしたのが、その前作となる、傑作『ワイルド・スピード EURO MISSION』だ。ジャスティン・リン監督がここで到達したのは、アメリカのアクション映画の原点である、ジョン・フォード監督『駅馬車』の活劇の精神に他ならない。アメリカの荒野を行く馬車がアパッチ族の襲撃に遭い、戦闘を繰り広げながら延々とノンストップで走り抜けていくという、荒唐無稽なまでの、ここでの刺激的な興奮の持続表現というのは、数々の後進のアクション作品に受け継がれており、『スター・ウォーズ』におけるデス・スター攻撃までの長い道のりは、その代表例といえる。『ワイルド・スピード EURO MISSION』クライマックスの、飛行機と車の長い長いチェイスシーンでの「いつまでも終わらない滑走路」というのは、明らかに自覚的に、その精神を継承しようとする試みである。巨額の製作費をつぎ込み、この興奮を最新の技術とスタントによって更新した『ワイルド・スピード』というシリーズは、この瞬間、『駅馬車』や『スター・ウォーズ』同様、アメリカを代表する大衆的アクション映画になったのだといえる。そして、その興奮は、本作のロシアでの潜水艦と車の豪快なチェイスにおける、「いつまでも渡り切らない氷河」というかたちで再現される。このあたり、本作の作り手は、シリーズが人気となった理由を的確に分析できているといえるだろう。(小野寺系)