2017年05月03日 17:03 リアルサウンド
小路紘史監督による初長編映画『ケンとカズ』と、江本純子監督による初長編映画『過激派オペラ』が、ブルーレイ&DVDでキングレコードより5月3日に同時発売される。偶然にも同時期に公開された両作品は、前者は男同士のぶつかり合いを、後者は女同士のぶつかり合いを、ともに初監督作ならではの鋭利な感性で描き切っている。リアルサウンド映画部では、両作のブルーレイ&DVD化に寄せて連続レビューを掲載。前半では、映画評論家・小野寺系が『ケンとカズ』のリアルな疎外感を、現代社会の実情と照らし合わせながら考察する。(編集部)
参考:菊地成孔の『ケンとカズ』評:浦安のジュリアス・シーザー/『ケンとカズ』を律する、震えるようなリアルの質について
工場の敷地を仕切るさび付いたフェンス、色彩を失った殺風景な河川敷、塀に囲まれた無個性な住宅地。『ケンとカズ』の舞台となっている、首都圏のベッドタウンとして機能する千葉県市川市の、日本のいたるところで見られそうな、アスファルトを基調とする無機質な光景は、現代の日本人の多くにとって、かつての牧歌的な農村になり代わり、ある種の「原風景」になりつつある。新宿や渋谷の繁華街の裏通りなどではなく、そのような都会でも田舎でもない場所で、小さな自動車修理工場を隠れ蓑に、ヤクザを後ろ盾にして覚せい剤を密売し生計を立てているチンピラ青年たちが本作の主人公だ。その二枚目俳優とは異なる面構えもまた、このどこにでも広がっている逃げ場のない世界のリアリティを下支えするピースとなっている。
日常的な風景にハンマーやナイフが紛れ込み、生活の中にいつでも暴力が隣り合っている北野武映画のような一種の不穏さが、本作には絶えず底流している。重い一重まぶたがいかにもチンピラ風のカズがレンチを振り回して給料の交渉をするシーンは、漫画やコメディー映画ではありがちなシチュエーションだが、そのじゃれ合いの結果、止めに入った後輩の歯が折れてしまうユーモアというのも、軽やかな青春ドラマとは切り離された、本作の不格好なリアリティを象徴し、鋭角的な迫力を作品に与えている。このような荒々しく研ぎ澄まされた映画が作れるというのは、とくに現在ではインディペンデント作品ならではになってしまったといえるだろう。
本作は、東京国際映画祭において、日本のインディペンデント映画を応援し、日本から海外にしぶき(スプラッシュ)を上げて飛び出していく力のある作品に贈られる「日本映画スプラッシュ」部門作品賞を受賞している。(前身となる「日本映画・ある視点」部門では、過去に松江哲明監督や深田晃司監督が受賞している。)本作が初長編作品となった小路紘史(しょうじ ひろし)監督を含め、本作のキャスト、スタッフは全員新人であるという。同賞審査員からは、「運命に翻弄されるふたりをシェイクスピアの様に描いた作品」と評されるなど、前述したような作品世界を通し、重厚なドラマを作り上げているのが特徴である。
自動車工場での勤務と密売行為のセットで、月にもらえるのが「30万ちょっと」から「45万」という具体的な金額が示されるが、彼らはそのような違法行為を続け、逮捕、服役のリスクを引き受け、ときに商売敵をボコボコにするという、身体を張った危険な義務を負いながら、その程度の給料しかもらえていない。近年の日本経済の低迷による貧困化や階層化の波というのは、こういう部分にこそ直撃を与えているのかもしれない。しかし、高校の不良仲間からチンピラになって、真っ当な就職に縁のなかった彼らにとって、高校の先輩に誘われた「ヤバい」商売は、自らの暴力衝動と社会への反発が肯定される数少ない居場所のひとつであったのだろう。少なくとも、彼らが若かった時代までは。
藤原季節(ふじわら きせつ)が演じる若い後輩は、カトウシンスケ演じるケンと、毎熊克哉(まいぐま かつや)演じるカズの、年齢的な危機を示唆する存在となっている。若者と中年の狭間に差し掛かったふたりは、それぞれ恋人の妊娠や、母親の痴呆症など深刻な問題を抱えており、その焦燥感から、自分たちを庇護するヤクザを裏切って、隠れて独自に密売をするという危ない橋を渡ることで、絶望的な状況を立て直していこうとする。ただ後先考えず突っ走っていればよかった若い時期には考えもしなかった、年齢を重ねていくことで生じてしまった責任というのは、他人の不幸など全く気にもせず無責任に生きてきた彼らをすら、人生の岐路に立ち止まらせ、危険な道へと迷わせてしまうのだ。本作は全編にわたって、この選択に迫られ、右往左往するふたりの姿が描かれ続ける。クライマックスでは、それでも最後まで人生を選び取れなかった代償として、どちらにしても地獄のなかに身を投じざるを得ないような、究極の選択を迫られることになる。本作の苦悩がシェイクスピア演劇に例えられるのは、このような描写の存在によってだろう。
ジャンキーの青春を描いたイギリス映画『トレインスポッティング』の20年ぶりの続編で、もはや完全に駄目中年そのものになってしまった『T2 トレインスポッティング』における、ある種の諦念に対して、『ケンとカズ』には、まだ立ち直る猶予が残されているように見える。ここではその猶予があること自体が、逆に残酷にも感じてしまう。彼らがどの選択肢を選び取ったにせよ、たいした希望があるわけではないし、幸せな未来が待っているような気もしない。ケンやカズが振ろうとするサイコロは、「2」とか「3」みたいな、しょぼくれた目しか出ないようになっているのだ。それでも、彼らは避けがたい痛みを通過して、何かを選択しなければならない。現実の社会は、ある種の人間にとって、不公平さに満ちたゲームである。ヤバさにヤバさを重ねて、命まで賭けなければ、光明を見出すことすら困難なのである。そのような現行の固定化されたシステムの裏をかいて、仕組みを崩そうとする、カズの精一杯の試みは、ある意味では革命的な闘争と解釈することもできる。
かつて東映などのヤクザ映画に見られた、義理人情のために死地へと赴く仁義の渡世人というのは、作り手側の意図を超えて、社会のなかで虐げられた者たちの反抗の象徴として、なかでも高倉健は当時の学生運動の象徴になったという経緯がある。また、広島に落とされた原爆のきのこ雲の写真を映すことによって始まる深作欣二監督の『仁義なき戦い』は、リアル路線で利益のために使い捨てられる人間の境遇を描いたが、それは戦後日本の狂騒的な経済成長に従って先鋭化していく、社会全体の歪(ひず)みと、その犠牲となる底辺の人間をカリカチュアライズした表現でもあった。
だとすれば、同じように裏社会を描いた『ケンとカズ』もまた、社会の実相の反映であるだろう。『ケンとカズ』で描かれる覚せい剤密売の世界は一見、一般的な感覚からは遠い出来事のようにも思える。だが、その搾取の構造は、現代社会そのものの縮図となっているともいえる。突き詰めていえば、ケンとカズという存在は、社会の上部の養分となって、労働とリスクを払わされている、社会のピラミッドの大部分を形成している我々自身のことである。究極の選択を迫られることになるケンを突き動かすのは、友情や恋人への愛情、まだ見ぬ自分の子どもへの愛情など、きわめて一般的で小市民的な感情である。それら「普通の幸せ」を全うすることすらままならない厳しい状況は、まさにこの現在の社会状況そのものを映し出していると思えるのである。
インディペンデントの製作環境のなかで、しかも初長編作品で、ここまで完成された映画を撮りあげた小路監督の才能は疑うべくもないが、最もハングリーな無名時代に撮った本作の味わいというのは、やはり二度と出せないものなのではないだろうか。そのような一度きりのザラついた勢いと、ケンやカズに託した、世界へのリアルな疎外感を本作で堪能してほしい。(小野寺系(k.onodera))