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『3月のライオン』は漫画実写化の成功例だーー大友啓史監督が駆使した映像ならではの表現

2017年05月02日 11:53  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2017 映画「3月のライオン」製作委員会

 漫画やアニメ原作の実写化は嫌われている。


参考:有村架純『3月のライオン』義姉役はなぜ“色っぽい”のか? 神木隆之介との関係から考察


 気持ちはとてもよくわかる。今まで多くの失敗の歴史があり、その度にファンが悲しい思いをしてきた。自分の愛するモノのイメージが壊されるのは誰だって悲しい。実写映画のファンでも、シリーズを重ねるにつれ、当初のイメージとずれていって悲しくなった経験を持っている人はいるだろう。


 そんなイメージを壊され続けた結果、一部の日本人には実写化アレルギーのようなものが発生しているようだ。中には原作ファンだから、実写には失敗してほしいと願う人すらいる。なんだかパチスロ化よりも嫌われているんじゃないかという気さえしてくる。


 しかし、昨年ごろから原作の魅力を十分に取り入れた質の高い実写化映画が増えてきている。広瀬すず主演の『ちはやふる』、大泉洋主演の『アイアムアヒーロー』、野村周平主演の『ライチ☆光クラブ』、今年に入っても『咲-Saki-』に『ReLIFE リライフ』などファンにも賞賛される実写作品が増えている。原作のコアエッセンスをきっちりと深く読み込んだ上で、実写映像という全く違う表現手段でそれを再現することに成功している。


 大友啓史監督作品『3月のライオン』も原作の魅力を咀嚼した上で見事に3次元の世界でそれを描くことに成功している。ここまで重厚なドラマになっているとは良い方向に裏切られた。大友監督は『るろうに剣心』という実写化の大成功例を持っているが、今作も同監督の代表作となるのではないか。


 とりわけ後編は、原作とは異なるエピソードを多く配し、『3月のライオン』の世界にあり得たかもしれない「if」の物語を紡ぐことができている。それは原作の魅力を無視したものではなく、むしろ深く読み込んでいるからこそ出てくる「拡張」であり、原作者とは異なる、映画製作者たちの視点によって見つめられた人間模様だ。


■主人公の成長過程を見事に整理した映画版の脚本


 『3月のライオン』は、高校生プロ棋士の桐山零が、シビアな勝負の世界でぶつかり合う様子と、川本家をはじめとした様々な人との関わりの中で成長していく様を描いた物語だ。『ハチミツとクローバー』の羽海野チカ作で、シャフトによってアニメ化もされている。


 天才プロ棋士であるが、その実肉親と死に別れ将棋をやることでしか生きていくことができなかった孤独な少年である桐山の人としての成長が本作の物語の中心であり、そこに絡む多くの人々のエピソードが群像劇のように展開されていく。長期連載作品なので、ひとりの人間の葛藤だけでは一本調子になりがちでもあるという事情もあるが、どの登場人物も魅力的で、読んでいてどの人物も徹底的に掘り下げてほしいという気持ちにさせる秀逸な漫画だ。


 映画版は群像劇的な要素は抑えめに、主人公の桐山零の成長にスポットを当てている。これは時間の制約からくる取捨選択なのだろう。前編では、棋士としての桐山の成長を中心に据えたが、後編では等身大の孤独な高校生桐山の人としての成長を描き、その成長が将棋にも活きてくる様を描いている。


 後編では、原作における川本家の2大事件、ひなたの学校のいじめ問題と父親の帰還問題も、桐山の失敗と挫折のエピソードとして機能させることによって、前編で新人王を獲得した桐山に降りかかるより大きな試練として描かれている。父親問題の決着も、原作よりもより能動的に川本3姉妹が行動するように描かれている。


 ちなみに原作では新人王に向けたトーナメントとひなたのいじめのエピソードは同時進行だったが、映画では順番が整理されている。いじめのエピソードは、新人王を獲得して桐山自身が成長に手応えを感じていた矢先に配置され、棋士としてではない、等身大の高校生である桐山零に降りかかる、「より大きな試練」として扱われている。ここで彼が感じる無念さが、後の川本家の父親の帰還のエピソードでの桐山の行動につながる。とてもよく整理された脚本だ。


■原作が描いていない重要なif


 「桐山の成長」という軸を描く上で避けて通れないのが、義理の家族である幸田、香子、歩との関係の進展だ。主人公の桐山零という少年が形成される上で大きな影響を与えているはずの3人は、川本家などとと比較すると、実はそれほど克明に描写されていない。(原作の連載は続いているのでこれから出てくるかもしれないが)


 だが映画では彼らのエピソードを大幅に追加している。原作とは異なる展開だが、『3月のライオン』という作品が桐山零の成長物語だと解釈するのなら、たしかに彼らのエピソードは必須だ。筆者は個人的にも漫画作品のファンだが、幸田家と桐山の関係の進展はとても気になっていた。映画版は原作が今のところ描いていない重要な「if」を非常に説得力を持って描いていた。


 そして、ラストシーンでの桐山の(あの衣装を着た)姿はこの作品のファンならいつか見たいと思っていた姿ではなかったか。あの姿をこの上なく格好良く、美しい景色の中で見せてくれたことに、いち原作ファンとして感無量だ。


■映画とは省略と時間の表現である


 原作のある作品やリメイクものを観る時に、筆者が個人的に気をつけているのは、「減点方式」で作品を鑑賞しないようにすることだ。オリジナルが100点満点の回答で、答え合わせをするかのように観てしまえば、どれだけ優れた映像化であっても、100点がありえず不満が残る。


 漫画と実写映像はそもそも手段の異なる表現だ。同じになるはずがない。むしろ原作が持っているエッセンスをどのように作り手が解釈し、どう再現しようとしているかの違いを積極的に楽しむようにしている。


 今回、その点では大友監督は映像ならではの表現をいくつも駆使していて心を奪われた。映像ならではの演出として2つ例を上げておく。


 ひとつはロケーションの魅力を存分に活かしたこと。後編のラストシーンはその最たるものだが、対局シーンに印象的なロケーションを積極的に活用して画面に華を作り出すことに成功している。


 そしてもうひとつは、間だ。セリフの多い作品だと思うが、観客に最も印象に残るのはむしろセリフも動きも一切ない「間」ではなかったか。主には対局シーンの熟考の場面で見事な「タメ」によって、緊迫感を作り上げている。


 映画は時間を用いた芸術だ。読む速度を読者に委ねる漫画や小説には、こうした時間による演出は不可能だ。時間というのは言い換えるとタイミングだが、例えばセリフをかぶせ気味に言わせるのか、続くセリフに少し間を開けるのか、それだけでも人物の感情には大きな違いが出る。実際の経過時間では数秒、あるいはコンマ秒以下の違いだが、そこに豊かな感情の動きがある。そうした映像ならではの演出を、大友監督は『3月のライオン』という作品でたっぷりと使ってみせてくれる。


 違う手段による表現だからこそ、原作の届いていない部分にも手を伸ばすこともできる。そのように観ることができれば、オリジナルにはないエピソードがなぜ必要なのかも理解できるし、細かい違いも減点対象ではなくなるし、今までにない視点で作品世界をより広げてくれるだろう。


 優れた作品が描き出す世界にはいくつもの入り口があるものだと筆者は思う。漫画という入り口、アニメという入り口、実写映像という入り口、舞台という入り口だってあるだろう。どの入り口から観ても『3月のライオン』はひとつの世界を共有しているし、入り口ごとに新鮮な視点を提供してくれる。本作で筆者はますます『3月のライオン』を好きになった。(杉本穂高)