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実写版『美女と野獣』が描く“愛の試練” 現代に問いかけるメッセージとは

2017年04月29日 06:03  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2017 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.

 「ヒゲを生やしてみたら?」。実写版『美女と野獣』では、エマ・ワトソン扮するベルが、美しい王子の姿に戻った野獣にこんなセリフを放つ。


参考:『美女と野獣』、“ゲイ・モーメント”騒動で上映拒否も 監督・出演者の発言と各国の反応


『美女と野獣』には“人を見た目で判断するな”というメッセージが込められているというが、筆者はずっと疑問だった。“じゃあ、野獣のままでよかったんじゃないの?”と。 だが、本作で加えられたこのセリフで、これも愛の試練なのかもしれないと思った。なぜなら、ベルは野獣の容姿の王子を愛したのだから。“イケメンになったら、なんか違う……”では、それこそ“見た目”にとらわれているということ。ヒゲを生やす提案は、野獣の変化に愛を持って順応しようというベルの小さなもがき。おそらくこの先、年を重ねていくうちにふたりの容姿も変化するだろう。どちらかが、先に天に召されて姿そのものがなくなるかもしれない。どうしようもない変化(運命)をも受け入れ、他者を愛する努力ができるか。“美しい王子様と幸せになりました、めでたしめでたし”で終わらない。そこに、現代に蘇った『美女と野獣』のテーマが込められているように思える。


 この物語が示す“人を見た目で判断するな”とは、“表面的な情報にとらわれるな”ということではないか。他者と生きていくことは、異なる考えや変化を受け入れる作業の連続だ。それは男女間ではもちろん、親子でも友人でもそうだ。“醜さ”とは、“未知なるものへの恐れ”を象徴しているように思う。古い物語が語られるタイミングには、理由がある。今こそ『美女と野獣』を観たほうがいい理由を、原作、アニメ版、実写版の違いから紐解きたい。


■その時代の先進的な存在として描かれるベル
 『美女と野獣(ラ・ベルとラ・ベート)』が生まれたのは、1740年。厳冬による大飢饉、パンの価格高騰による食糧暴動……封建制度が批判され、人間性解放が謳われる、フランス革命に向かっていく社会のなかで、この物語が誕生した。もちろん女性の権利や自由が制限されている時代。ベルは、物怖じせず野獣に「心にもないことは申せません」と意見を述べる自分に正直な女性として描かれた。


 1991年に公開されたディズニーアニメ『美女と野獣』では、自分で生きる道を切り拓く聡明な女性となった。「私は過去のものではなく、90年代の女性を描きたかった」と脚本家のリンダ・ウールヴァートンも語っている。世の中は、女性の社会進出が進み、男女平等の意識が着実に浸透していったタイミングだ。(参照:ディズニーのアニメ映画『美女と野獣』のトリビア12)


 そして、2017年。エマ・ワトソンが演じるベルは、毎日同じ繰り返しの小さな村を、退屈だけど安全な場所と認識し、野獣の背景を配慮しなかった自分を「無垢で無知だった」と省みた。自分の考えは、広い世界にたくさんある価値観のなかのひとつでしかないこと。生き方の多様性、マイノリティの存在を認めていく、今の世の中で“未知のもの=醜いもの”を恐れない、そんな勇敢な女性に描かれている。『美女と野獣』の物語は、社会の変化を受け入れるタイミングで読み返されているものなのかもしれない。


■母親に投影される、逃れられない運命


 本作では、原作にもアニメ版でも語られなかった、ベルと野獣の母親の存在がクローズアップされている。ふたりのルーツを知ることで、より人間味を帯びるのと同時に、自分ではどうしようもない運命的なものがあることを、強調しているように思える。


 ベルも野獣も幼いころに母を亡くした。寿命も、環境も、人は操作できないのだ。ベルは、父・モーリスに連れられ、パリの疫病から逃れるように小さな村へ。野獣も、父親によって城の中でワガママ放題に育てられた。「あんな風に育てられてしまったのを、私たちは見ているだけで何もできなかった」とポット夫人が語るのも本作のオリジナル。人の心を持たない王子は獣へ、何も言えない家臣はモノへ……魔法によって変えられた姿は、魔女の皮肉だったのか。


 魔女・アガットの活躍もアニメ版にはない演出だ。魔法をかけて終わりなアニメ版に比べて、村に身をひそめて顛末を見守る。小さなコミュニティは窮屈だが安全だ。だが、ベルも野獣もいずれ小さな世界から一歩を踏み出し、他者との関係性を築いていかなくてはならない。それを学ぶべきだと、愛の試練を与えた魔女・アガットは、亡くなった母たちの象徴だったのかもしれない。ラストの舞踏会シーンで、モーリスと目配せをしたのも、次世代へ愛のバトンを渡せた合図だったのではないだろうか。それは、ベルと野獣はもちろん、観ている私たちにも……。


■愛のきっかけは、共有から共感へ


 原作では、夕食を共にするうちに愛が芽生えるベルと野獣。食べることに不自由をしていた時代にとっては、満たされるべき最初のものだったように思う。そしてアニメ版では、オオカミに襲われたベルを野獣が身をていして救ってくれたことをきっかけに距離が縮まる。外に飛び出すベルと、共に戦うパートナーという安心感が魅力に加わった。さらに食事シーンもより詳細に描かれた。ベルに合わせてスプーンを使おうと努力する野獣。その姿を見て、今度はベルが皿を持ち上げてスープをすする。それぞれルールを踏まえて、ふたりなりの新たなルールを見出していく。


 もちろん実写版でも、オオカミや食事のシーンはある。だが、それ以上に本好きという知的好奇心をきっかけにして、惹かれ合っていくさまが丁寧に描かれたのが印象的だった。ベルの口をついて出たシェイクスピアの一節に、野獣が返答する。「愛は目ではなく心で見るもの」「だから絵のキューピッドには目が描かれていない」。恋は思いもよらない相手と落ちるもの。この言葉の持つ意味と、ふたりの行く末が見事にリンクする。


 そして「『ロミオとジュリエット』が好き」と話すベルに、「驚きはしないね」と答える野獣。今まで本の話をしても「退屈そうだ」と村の人に言われてきたベルにとって、内容を理解した上で“キミが好きそうな話だ”と返してくれる野獣に惹かれないはずがない。天井まで埋め尽くす膨大な本を「気に入ったのならあげるよ」といったのは、野獣からベルへの敬意。ベルが本を読み上げながら歩く庭を眺め、野獣は「風景が違って見える」とつぶやく。これは野獣が初めて感じた、相手を理解したいという共感的好奇心の表れだろう。


■正義と悪、愛と孤独は、表裏一体


 野獣が愛を知ったことで、一度ベルを解放する、自己犠牲的な愛は、この物語のクライマックス。アニメ版では描かれなかった、野獣が襲われた圧倒的な孤独を新挿入歌「Evermore(ひそかな夢)」で表現されている。たとえ、戻ってきてくれなかったとしても、自分が野獣のまま孤独に死んでいくとしても、ベルを愛せたこと、その一瞬の輝きは永遠に自分を勇気づけてくれると信じて。愛することは、相手の人生を応援すること。出会ったからには、刹那の別れも、永遠の別れも、きっと訪れる。どんなに相手を愛しく想っても、何も思い通りにならない。まさに愛の試練だ。


 一方、村に戻ったベルを迎えるのは、原作では意地悪な姉たち、アニメ版と本作ではガストンだ。いずれもベルと野獣の間を裂こうとするが、果たして彼らは真の悪人なのだろうか。豊かに暮らしているベルに嫉妬する姉たちも、ベルと結婚したいガストンも、自分の幸せを勝ち取ろうと純粋な気持ちは、むしろ正義だ。だが、自分の思い通りにしようとするのは愛ではない。それに気づけるかどうか、ただそれだけで正義は悪に裏返る。未知なる野獣を敵としたガストンに同調し、立ち上がる村人たち。野獣をかばおうとするベルを、洗脳された者に仕立てあげるのは、まさに情報操作だ。


 さて、今の私たちはどうだろうか。18世紀のフランスに比べて、魔法の道具のような技術も手にした。だが表面的な情報に踊らされていないだろうか。わかりやすさに踊らされる過ちは、誰にでもある。だが、それに気付けば世界を変えることができる。そんなメッセージを、エンドロールで流れてきた「Evermore」から感じた。


 美しいから愛しいのではなく、愛しい気持ちが美しく思わせるのだ。他の人とは違う風変わりなところも、見た目のコンプレックスも、きっと愛しく思ってくれる人がいる。その希望を失ってはいけない。自分が受け入れられたければ、相手を受け入れること。共通点という歩み寄るきっかけをつくること。そして、相手を尊重し、自由と幸せを願うこと。誰もが、そんなふうに、自分や他人を愛することができれば、世界はもっと美しくなるだろう。(佐藤結衣)