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石井隆監督×成田尚哉Pが語る、『天使のはらわた』誕生秘話 石井「男女の関係性が逆転する話を志していた」

2017年04月28日 19:22  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)日活株式会社

 1971年、日活倒産の危機を救うべく立ち上げられた「日活ロマンポルノ」。10分に一回の濡れ場を作る、上映時間70分程度といった一定のルールさえ守れば、比較的自由に作品を作れたことから、多くの若手監督・スタッフたちが新しい表現に挑戦した。


参考:カルーセル麻紀が語る、日活ロマンポルノの魅力「隠れているからこそ濃密なエロスが溢れている」


 助監督経験者が監督に、といった既存の撮影所システムがある中で、異例の抜擢で監督になったのが石井隆だ。劇画家として1970年にデビューをしたのち、『天使のはらわた』シリーズが大ヒット。「土屋名美」という名の女性と、「村木哲郎」という名の男が物語の核となる一連のシリーズは、彼らの素性や職業の設定が作品ごとに変化しながら、運命を狂わされてしまう男の悲哀と女の強さを描いている。


 『天使のはらわた』シリーズは、1978年の『女高生 天使のはらわた』を皮切りに5作品がロマンポルノ枠内で映画化された。石井隆は、シリーズ2作目1979年の『天使のはらわた 赤い教室』から脚本を務め、1988年の『天使のはらわた 赤い眩暈』で監督デビューを果たす。


 この度、リアルサウンド映画部では、Blu-ray特典のコメンタリー収録後の石井隆監督・成田尚哉プロデューサーにインタビューを行った。この夏、初Blu-ray化される『赤い眩暈』の魅力、当時の製作背景について、たっぷりと語ってもらった。


■石井隆にしか描けない男と女の物語


――今では“監督”として認識されている方がほとんどだと思いますが、石井監督は“劇画家”としてキャリアをスタートさせています。その経緯を改めてお話いただけますか。


石井隆(以下、石井):高校時代に読んだ『映画芸術』に大監督たちと互角に論争している学生たちがいて、それが早稲田の映研の連中だった。早稲田の映研に入れば映画に近づけるかもと、ただそのためだけに受験して。で、在学中、邦画が斜陽で潰れかけた大映と日活が共同配給したダイニチ映配の現場にアルバイトで潜り込んだものの、日活撮影所のスタジオの床が剥き出しの土の頃で、埃が凄くて持病の喘息で倒れてしまった上に、騒乱の時代でいろんな事が重なって監督の道を断念せざるを得なかった。その後、学生結婚をしましたので自立しなくてはならず、ヌードグラビアの撮影をしたり、広告論をやってたんでCFのコンテを描いたり、コピーを書いたり……。で、実話雑誌の雑文書きのアルバイトをしていた時に、病気で休んだ劇画家の穴埋めで描けと言われて描いた8ページの劇画に他誌から注文が舞い込んで、いつの間にか劇画家に。でも親分無しの子分無しですから、どう描き続けていいか分からない。それならと、ガキの頃から巨万と見て来た “女と男の映画”を夢想しながら描くうちに、名美と村木というキャラクターが生まれ、それに東映と成田さんからオファーが来たんです。成田さんがあまりにも熱心だったので、二度と足を踏み入れることはないと大きな挫折感で去った日活の門を原作者/脚本家として再び潜ることができました。感謝しています。


――成田さんがコメンタリー収録の際にお話されていましたが、初の脚本作『天使のはらわた 赤い教室』(1979年、監督:曽根中生)のプロットを依頼したら修正の必要のない“脚本”があがってきたそうで。


成田尚哉(以下、成田):わら半紙に台詞や人物の状況などが書き込まれたものが石井さんから上がってきました。もちろん、物語は漫劇画として書いている方なので、内容の面ではそんなに心配はしていなかったのですが、修正の必要が一切ないものがあがってきたことにびっくりで。原稿用紙のマス目を何字開けるとか、いわゆる形式的な脚本の形ではありませんでしたが、最初から映画のシナリオとして完成していました。


石井:学生の頃から『キネマ旬報』や『映画芸術』に掲載されていたシナリオを読んでいたのが大きかった。劇画を描くときも、わら半紙の下半分にト書きとセリフ(ネーム)を書いて、上に絵コンテを描いてから画用紙に描いていました。


成田:劇画家時代も映画の脚本を書き続けていたのと同じですよね。だから、最初からできあがるべき映画が見えていました。


――そもそもロマンポルノを石井監督はどのように捉えていたのですか。


石井:実は成田君から声がかかるまで、ロマンポルノは見たことがなかった。日活がロマンポルノに路線変更するとなったときに、そこに偏見を持つ多くの人が辞めていったと聞き、それが自分の描いている劇画と重なったものですから、プライドとしてロマンポルノは見ないぞと決めていました。でも実際には堂々と傑作を撮られた監督たちが何人もいたわけですから、僕の「見ない」は後から考えれば間違ってましたね。担当編集者が映画好きな人で、日活の試写にもよく足を運んでいたのですが、「石井さんが描いたシーンと酷似している描写がよくあるんだよね」って。後日、僕の劇画を読んでくれていた成田君の仕業だと分かりました(笑)。


成田:シナリオライターとの打ち合わせのときに、こういうシーンはどうですかと石井さんの劇画を参考として見せたことがあった気はします。石井さんの劇画は、描写が非常に秀逸で思わず興奮してしまうものでしたから。


石井:本当? 男性読者諸君は、“ティッシュ”を用意して読み始めるんだけど、最後は涙を拭くために使うと評判でしたけど(笑)。


成田:石井さんの劇画は、男がだらしなく情けない一方で、女のひたむきなさ強さを描いている。男にとって決して気持ちのいい劇画ではなかったかもしれないですけど、石井さんにしか描けない画の魅力と物語がありました。


石井:AVをはじめとしたポルノ作品の多くは、男性優位で、女性がそれに隷属するようなものが多い。過剰な女性崇拝者ではありませんがそういった男尊女卑の図式が嫌いだったので、強い女性の在り方、男女の関係性が逆転するような話を実感として志していました。それはロマンポルノで脚本を書かせてもらえるようになってからも、変わっていません。


■挫折を乗り越え劇画家から映画監督に


――そして、『赤い眩暈』で監督デビューを果たします。成田さんは石井監督がヌード写真の撮影を手がけている現場を見て、監督も任せられると考えたそうですね。


成田:週刊誌のグラビアだったと思うのですが、劇画家でありながら写真も撮れるなら、それはもう演出もできるなと。そこから社内の上の人間を説得するのに大分時間がかかってしまいましたけど。


石井:シナリオの依頼はあったものの、日活では撮らせないと聞いたことがあったし、理由も知っていましたから監督になれるだろうとは全く想像していませんでした。それが突然任せると言われて、子供の頃からの夢ですからね、嬉しかった。結局劇画は、僕にとって映画の代償行為だったんでしょうね。それに劇画の世界も描写がどんどんストレートになっていった頃で、女と男の関係性を描いていた僕の劇画からは読者が離れていきつつある時期と重なっていたこともあり、成功するとかしないとか考えないですぐに劇画はやめてしまいました。


成田:当時はまだ撮影所システムが生きていて、助監督を何年か経験した人たちが監督に繰り上がるのが基本でした。今でこそ、お笑い芸人や写真家が監督を務めて“異業種監督”と呼ばれたりしますけど、当時はそんな言葉もない。劇画家である石井さんが監督を務めることに、否定的な人が多かったのも事実です。


石井:だから、いざ現場に入っても、スタッフの中には僕を快く思っていない人もいたと思います。多くの監督が10年以上助監督をやってようやく監督になっているのに、なんでこんなぽっと出のやつに監督をやらせるんだと思われても仕方ないですし。

成田:そして、石井さんは全く寝ないで撮影を続ける人だったので、スタッフが次々と倒れてね(笑)。でも、嫌われていたと言っていますけど、現場では楽しくやっていたと思いますよ。映画はいい作品ができればすべてが報われると言いますが、結果的に初監督作でありながら後世に残る作品になりましたから。


——今回、『天使のはらわた』シリーズが初Blu-ray化ということで、石井監督描き下ろしの原画にも注目が集まっています。


石井:当初は各作品の女優さんの顔やヌードを描こうと思ったのですが、僕が監督した一本を除いては、各作品の監督やスタッフや女優さんが描いた“名美”ですから、本当の意味でただの“似顔絵”になってしまう。でも、劇画の「名美」なら今でも熱い想いで描けると担当者に話したら、ゴーサインが出まして。初めて書いた映画のシナリオ、そして監督も務めたシリーズなので、Blu-ray化で多くの方に届いてほしいです。(取材・構成=石井達也)