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いま、アメリカとジャズの歴史をどう考える? 柳樂光隆 × 矢野利裕が徹底討論

2017年04月15日 17:02  リアルサウンド

リアルサウンド

『Jazz The New Chapter4』

 ジャズ評論家の柳樂光隆氏が監修する、ジャズの新潮流についてのガイドブック『Jazz The New Chapter』シリーズの4作目となる『Jazz The New Chapter4』が、3月8日に刊行された。「アメリカとジャズ」に焦点を当てた本書は、ゴスペルやネオソウル、ブラジル音楽といった他ジャンルとジャズの“越境”や、改めて鍵盤の持つ意味を振り返る特集、フィラデルフィアという街の持つ特異性など、様々な視点による分析が盛り込まれている。今回リアルサウンドでは、柳樂氏とレコードショップの元同僚という関係であり、ブラックミュージックやクラブミュージックにも見識のある批評家・矢野利裕氏による対談を行なった。前編では、改めて考える『Jazz The New Chapter』らしさや、同シリーズにおける「モダンジャズ」の位置付けなど、同著には収録されていない柳樂氏のスタンスが次々と浮かび上がった。(編集部)


・「コモンの4thアルバム『Like Water for Chocolate』をどう考えるか」(矢野)


ーー『Jazz The New Chapter4』は、様々な文脈が入り混じりつつも、基本的には「アメリカとジャズ」の歴史、そしてフィラデルフィアという街にフォーカスを当てた一冊になっています。


柳樂:今回に関しては、以前に矢野くんがブログに書いてくれた書評の話を回収するような一冊なんだよね。


矢野:たしかにそういう側面がありますね(笑)。一冊目の『Jazz The New Chapter』の時に思ったのは、やはりコモンの4thアルバム『Like Water for Chocolate』(2000年リリース)をどう考えるかというところで。当時、先行の12インチシングルはたしか、「ザ・シックスセンス feat.ビラル」で、そのB面は「ドゥーイン・イット」でした。どちらもDJプレミアがプロデュースしています。当時はまだまだ、サンプリングを主体とした90年代東海岸HIPHOPのモードが日本でも強く、この曲もそういう流れのなかで、ヒップホップ系のラジオやクラブでかなり盛り上がっていた記憶があります。コモンの名盤といえば、やはり「テイク・イット・EZ」を収録した1stアルバム『Can I Borrow a Dollar?』や2ndアルバム『Resurrection』が挙がることが多いですよね。日本ではとくにピアノの綺麗なトラックなどメロディアスなものを好まれる傾向があったから、とくに日本のヒップホップファンにとっては、この2枚がいわゆる「コモン像」になっていたと思います。ただ、4枚目のアルバムには一方で「The Light」という、ボビー・コールドウェルの「Open Your Eyes」をサンプリングした曲や「セロニアス」のようなゆらぎを強調した曲など、サウンド的には多彩です。『Jazz The New Chapter』を読んだとき、気づかないうちに、これらの楽曲が、ロバート・グラスパーなどその後のアメリカのミュージシャンの大きな影響元になっていたことがわかったんです。


ーー『Like Water for Chocolate』は、ビラルを含め、ジェイ・ディラやDJプレミア、ディアンジェロ、クエストラヴなどThe Soulquarians界隈が参加しているアルバムですね。


矢野:それまでNo I.D.が関わっていたのに対し、The Soulquariansが全面的に参加しました。そういう意味でも、この作品はすごく時代の変わり目になったものだったんだと、改めて感じさせられます。『Jazz The New Chapter4』では「フィリー」が一つのキーワードになっていて、ビラルの話やコモンの新作についても書かれています。つまり『Like Water for Chocolate』に対して、当時多くのヒップホップリスナーが見過ごしていた部分が展開されているのがこの本なんです。ネオソウルも、当時ヒップホッププロパーの中ですごく話題になっていて、そこではニューソウルの延長として語られていた印象が強いです。でも、サウンドについてはリアルタイムでなかなか捉えきれていなかったように思う。『Jazz The New Chapter4』では、ネオソウルがジャズと交流しながら育まれていることが、2000年から今までにかけて説明されている点もすごく面白かったですね。


ーーとくに面白かったのは第2章【ネオソウル再考:新世代ジャズとフィラデルフィア】内に収録されている柳樂さんと大和田俊之さんとの対談「フィラデルフィアから紐解くブラック・アメリカの“今”」でした。


矢野:その前の本間翔悟さんによる論考「2000年前後のネオソウル時代から現在までの流れを改めて再検証」も面白かったです。The Rootsがいて、ジェームス・ポイザーがキーマンで、フィリーソウルの生まれた街・フィラデルフィアを舞台にしていろんな音楽の流れができているのがわかる。これを読むと、「フィラデルフィアってどんな街なんだろう?」ということが気になってきます。それが直後の大和田さんとの対談で補足されるわけです。この対談に関しては、無くても音楽本としては成立するかもしれないけど、非常に大事。こういう対談が入ってると『Jazz The New Chapter』らしいなあと感じます。


ーー『Jazz The New Chapter』らしさとは?


矢野:ある音楽作品に対して単発的に打ち返していくという、通常の音楽レビューにとどまらず、場所や人の交流まで網羅したうえで文化論的な視座からも音楽を考察していることだと思います。『Jazz The New Chapter』シリーズっていつも、誰と誰が同じアートスクールとか、同じライブに出てたとか、そういう些細なエピソードを重要視していますよね(笑)。でも、そこが面白い。その延長線上に大和田さんと柳樂さんの対談もあるので、『Jazz The New Chapter』らしさを感じるんでしょうね。


ーー確かに、『Jazz The New Chapter』はロバート・グラスパーの『Black Radio』を起点として、その周辺のシーンを場所や人脈ベースにマッピングするところから始まったものでした。


柳樂:そこは一貫してますよね。なんで『Black Radio』ができたかをひたすら考えて3冊作ったら、ミュージシャンたちがみんな「フィラデルフィア」だというので、今回はフィラデルフィアを紹介した、という流れですし。


矢野:柳樂さんは今回の本を作ってみて、フィラデルフィアという土地をどんな場所だと思いましたか。


柳樂:まず、「ニューヨークから近いけどニューヨークじゃない」というのはすごく大きい要素だと思う。場所が近いからこそ、ニューヨークで活躍するミュージシャンを育てる場にはなっているけど、実験ができるぐらいの時間の流れの緩やかさはあって。ニューヨークみたいに淘汰もされないし、トレンドに影響されすぎない人たちもちゃんと出てきています。


ーー街としての文化的な蓄積と利便性、そして器の大きさが兼ね備わっているということですね。


矢野:フィラデルフィアについて語るミュージック・ソウルチャイルドのインタビューも面白かったです。彼のことはもちろん知っていましたが、ここまで現地のミュージシャンに大きな影響を与えているとは、恥ずかしながら想像だにしていませんでした。


柳樂:わかる。「売れてる人」って認識だったよね。俺もリアルタイムでそんなに関心はなかったもん。


矢野:さっきのコモンの話とも通じるのですが、例えば僕がミュージック・ソウルチャイルドを初めて知ったのは、『ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々』のサウンドトラックでした。このサントラは、1曲目がジャネット・ジャクソン「Doesn’t Really Matter」で、2曲目がJay-Zの「Hey Papi」、つまりすごくメジャーで“話題曲がいっぱい入ってるからお得”な一枚という感じ。そして、3曲目にミュージック・ソウルチャイルドの「Just Friends」が収録されている。だから、個人的には「すごくコーラスが綺麗な人」というイメージはあるものの、メインストリームに位置する多くのR&Bシンガーのひとりでしかなく、こんなにもジャズの文脈がある人だとは知る由もなかったです。


柳樂:このインタビューでも話は出てくるけど、フィラデルフィアのセッションシーンーーつまりクエストラヴによる『ブラック・リリー』やキング・ブリットが出ていた『シルク・シティ』って、当時も情報としてはあったわけで。この時期にこぞってフィラデルフィアで録音するミュージシャンが増えたけど、それがなぜかはわかってなかったし、「ただ有名なプロデューサーがいていいスタジオがあるんだろう」くらいに思っていました。だけど、ここまでみんなの口からフィラデルフィアの名前が挙がってくるなら、そこも踏まえてもう1回ちゃんと訊いてみようと。なんでこんなに女性シンガーがたくさん出てきたのかも、ジル・スコットに話を訊くとよく分かったりして。


矢野:ジル・スコットのインタビューで「ブラック・リリーは女性に声を与える場所でした」という発言がありましたよね。この発言はすごく大事だと思いました。この『Jazz The New Chapter』で見えてきたフィラデルフィアの特徴は、やっぱり“音楽教育と教会”の街ということですよね。大和田さんとの対談で、柳樂さんが「教育というのがある種の慣習や伝統から解放されるものとしてあったんじゃないか」と指摘していますが、アメリカ全体の歴史を考えると、やっぱり教育制度ができて“機会の平等”が訪れることはすごく大事です。ここでジル・スコットは「女性でもチャンスを与えられた人」として登場しています。


・『Jazz The New Chapter』は、モダンジャズの物語の限界が来たそのあとの風景(柳樂)


ーー「教会」については、数々のミュージシャンがこれまでの『Jazz The New Chapter』でも、今回の『Jazz The New Chapter4』でも言及していますね。


矢野:「教会」についてはアメリカの建国の成り立ちにも関わります。そもそもプロテスタントがやって来て布教するというところから国が始まっているわけで。アメリカにおけるゴスペルやR&Bの成立には、布教をするにあたって、説教だと誰も聴いてくれないから音楽にして広めたという経緯も関わっています。その意味で、アメリカのエンタメには、宗教学者の森本あんりさんが言ったような意味で「反知性主義」の流れがある。デリック・ホッジも「宗教的な側面とはまた別の話だけど、教会で人々の心を動かしたりメッセージを届けるためのフィーリングを身につける」という発言をしています。さらに、教会ではどんなリクエストにも応えなきゃいけないためプレイヤーとして即興性も育まれると。機会の平等が担保された音楽教育と教会が合わさったのがフィラデルフィアという場所で、そこからジル・スコットのような人が出てきているのは、すごく面白い。フィラデルフィアにはある種のアメリカ性が凝縮されている、とすら思いました。


柳樂:唐木元(元コミックナタリー編集長。現在はベーシストとしてバークリー音楽大学に在学中)さんが言ってたんだけど、教会のセッションには、音楽聴きに来てるだけじゃない一般の人も多くいるわけで、その人たちを無条件にアゲなきゃいけない瞬間がくるから、誰でも知ってるテレビドラマの主題歌のサビみたいなものを即興的に挿入しなければならなかったりする。だからこそ、大多数の「アメリカ人ってこういうもの」という価値観が身を持ってわかるというか。彼が言っていたのは「日本人でもしそれをやるとしたら、アメリカ人が子供の頃から見てるTV番組なんて分からないけど、スーパーマリオのフレーズを弾くとウケたりする」と。


矢野:だから彼らには、ライブで観客の期待に応えるような部分もあると。「フィリーソウル」の独特な存在感について時々考えます。例えば、ネルソン・ジョージは『リズム&ブルースの死』のなかで、黒人中心主義的な立場からフィリーソウルを批判しています。「ニューソウルまではよかったけど、フィリーあたりからダメになった。白人主導のディスコブームはさらにダメ」みたいな。でも、一方で大和田さんは「白と言われる音楽と、黒と呼ばれてるものの重なりから今のネオソウルに繋がる音楽が生まれている」という話をしていますよね。ニューヨークの下に位置するフィラデルフィアって、ニューヨークともまた異なる独特の文化的混淆があるんだなと思いました。


柳樂:フィリーソウルって非常に大衆的なソウルミュージックですもんね。ストリングスを入れてきらびやかにして、テレビ番組では分かりやすい黒人性を前面に出して白人に見せていたわけだから。


矢野:そうなんです。そして、その流れに関わっているのが、この本にも登場するジェームス・ポイザーだと。改めて彼はどういう人物なんでしょうか。


柳樂:「ローリン・ヒルのヒット曲を書いた人」や「The Rootsに途中から入ったキーボーディスト」というパブリックイメージだと思います。The Rootsに関しても、クエストラヴとブラック・ソートという2人のイメージが先行していて、あまり言及されることがない人物なのですが、2人がフィラデルフィアで活動してた時に「とりあえずこいつは仲間に入れておいた方がいいだろう」と思ったくらいの大きい存在みたいで。最初から彼にインタビューするつもりはなかったんですけど、フィラデルフィアの音楽シーンについて取材を進めていく中で、クエストラヴの話を振ってもあまり感触が良くないし、「それよりもジェームス・ポイザーだよ」と言われるし、コモンの新作にはジェームス・ポイザーがクレジットされていたりもする。「これは何かおかしい」と気になって、過去の作品を色々聴いたりキャリアを調べてみると、明らかにフィラデルフィアに根付いているものを体現してる人だった、というわけです。


矢野:しかも<フィラデルフィア・インターナショナル・レコード>で働いていて、ギャンブル&ハフとも交流があったと。表には出ないけど裏でキーマンになっている存在でもあるんですか。


柳樂:ジェームズ・ポイザーは父親が牧師で、教会での演奏をずっと続けているそうです。普通は売れたらやめるものらしいんですが、継続することでデリック・ホッジやビラルという新世代にも出会ったりする。音楽プラットフォームとしての「教会」における重要人物のひとりだと思います。


矢野:なるほど。デリック・ホッジにはなんとなくフィリーの香りやネオソウルの響きがあるような気がしていたので、今回のフィラデルフィア特集に登場してきて、納得のいった部分はあります。いちリスナーとしても、オールジャンルでDJをやっていた身としても、いわゆる「音楽の歴史」ではないところで「〇〇っぽい」と感じ取ることは多いのですが、こうやって紐解いて言語化すると実は繋がっていた、というのは面白いですね。


柳樂:矢野くんが『Jazz The New Chapter』を見て「フリーソウルっぽい」といってくれたのを思い出した。「フリーソウル」ってその「DJ的な感覚」をコンパイルしたような、ある種90年代的とも取れるコンピレーションCDだった。『Jazz The New Chapter』はその批評版みたいな位置付けになるのかもしれないですね。でも、批評を軸にすることで、同時代的なものをマッピングするだけではなく、歴史の事項を入れられるようになった。


矢野:新しいマップを作ることで新しい歴史も見えてくるということですよね。柄谷行人が『日本近代文学の起源』で広めた「認識的な布置」という言葉がありますが、『Jazz The New Chapter』もまた、それまでの「認識的な布置」を一新したところがある。その点は、本当に批評然としています。そこで一つ気になることがあります。『Jazz The New Chapter』における「モダンジャズ」の位置付けってどうなるんですか?


ーーあー、それはすごく訊いてみたいです。


矢野:『Jazz The New Chapter』の歴史観のなかでは、モダンジャズだけが周到に抜かれていますよね。マイルス・デイヴィスについては、『miles Remained』で再評価もおこなわれています。僕は基本的にはモダンジャズよりスウィングとかブギとかの方が好きで、『Jazz The New Chapter』で知った人で言えば、例えばジェイソン・モランなんかも好きです。彼もモダンジャズ以前のピアノを強く意識していますよね。


柳樂:まあ、それはもう「モダンジャズが終わった」ってことですよね。『Jazz The New Chapter』は、モダンジャズの物語の限界が来たそのあとの風景といえるかも。ビバップを中心に考えるっていうのがモダンジャズで、そこから現在まで発展していっているのがこれまでの音楽評論におけるジャズ史の認識なんですけど、実はそのビバップの時期っていうのがすごく特殊で、モダンジャズを中心に歴史を考えるのがそもそもおかしいんじゃないかと。


矢野:なんか、本当に『日本近代文学の起源』の議論に聞こてくる(笑)。


柳樂:今はそうやって、アートを中心にあらゆるジャンルで同じような考え方が起こっているタイミングなんだろうね。あともう一つ考えられるのがーーこの前ジュリアン・ラージがインタビューで言っていたことなんですけど、「アメリカンジャズっていうのは海岸沿いだけじゃないんだ」ということ。みんな西海岸、東海岸で考えちゃうじゃないですか。だからニューヨークとLAを起点に考えがちですけど、その真ん中にも文化があることが実は抜けていて。チャーリー・パーカーは中心部・カンザスの出身だったりするんですよ。海岸沿いでだけ物事を考えてるけど、実は真ん中の部分が大きくなっているというのは、なぜドナルド・トランプが大統領戦で勝ったのか、みたいな話と繋がりそうだよね。


矢野:そこは、大和田さんとの対談にも出てきたジャズ及びゴスペルとフォークの話も関わるかもしれませんね。白人労働者が住む中西部あたりをどう考えるか。シンガーソングライター的と言っていいかわからないけど、フォークやカントリーまで含むようなセンスを持つベッカ・スティーヴンズなどのようなミュージシャンにも繋がっていく。細かい影響関係などは僕は分かりませんが、いずれにせよ、ある種の白人性に対して問い直しを迫っている気はしますよね。『Jazz The New Chapter』シリーズの1に収録された「白人音楽のスピリチュアリティと新たなスタンダード」にも通じる問題意識だと思います。


柳樂:2はECMで、3はビッグバンドとインディクラシック。ラテンとかも基本的にはクラシックに近いものだから。多分僕の頭の中にあるのは割とそういう黒と白の綱引きみたいなものなんでしょうね。


矢野:カート・ローゼンウィンケルなんかもその線引きの上で、初めて見えてくるギタリストなのかもしれません。


【後編へ続く】


(中村拓海)