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ヴィクトル・エリセを発見せよーースクリーンでしか味わえない“不滅の映画”の奥行

2017年04月12日 15:12  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2005 Video Mercury Films S.A.

 世界のそこここで困ったリーダーが引き起こすいやなことばかりがとぐろを巻いているような2017年の春。花は咲いてもなんだかなあと沈みがちな気持ちをぱっと明るく励ましてくれたのが、”幻”と呼ばれて久しいエドワード・ヤン監督作『クーリンチェ少年殺人事件』の劇場再公開、予想を上回る大ヒットのニュースだった。


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 拡大公開と共にさらなる快進撃が続くヤン監督作に続き、やはり必見のデジタル・リマスター版がこの春、劇場再公開されている。ビクトル・エリセ監督作『ミツバチのささやき』と『エル・スール』だ。


 時代も国境も超えて不滅の命を生き続ける”特別の映画”を劇場がピックアップ、PCやスマートフォンやTVの小さな画面でなく、きちんと映画館の銀幕で見せてくれるという、うれしいプロジェクト<Theアートシアター>シリーズ。その第一弾として選ばれたのがスペイン映画が世界に放った俊英エリセの忘れ難い2本の長編だ。


 80年代東京のミニシアター旋風、はたまた同時代的に世界に吹いた”オルタナティブ(ハリウッドとはまた別の)”映画の風。エリセはその中心にいた注目すべき才人のひとりだった――と、過去形で書いてしまったが、あわてて付け加えておくとエリセはれっきとした現役監督だ。


 妥協せず心にかなう映画を撮ろうという美徳と引き換えに寡作の人(これまで3本の長編映画はいずれも”10年ぶりの新作”だった)とならざるを得なかった彼はしかし、決して撮ることをあきらめたりはしていない。


 21世紀に入ってからも故キアロスタミとのビデオによる往復書簡を発表、13年にはオリヴェイラ、カウリスマキ、ペドロ・コスタも参加したオムニバス『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』で会心の一篇「割れたガラス」を差し出している。


 閉鎖された紡績工場の壁を飾る労働者たちの写真。その貧しくとも毅然と澄んだ眼差しを背景に、同じ工場に働いた何人かの証言と、言葉以上に雄弁な顔とをみつめ、降り積る人の歴史の苛酷さと裏腹の温かさ、そうして時を超えて息づく人の真実を共鳴させた40分。そこに個の歩みと人という集団の歴史を貫く鼓動然と響く時の刻みの感覚は、公開中の最初期の2作とも通じてエリセの世界の核心を思わせる。


 ”ポルトガルでの映画のためのテスト”と冒頭に断り書きをいれたこの短編を踏み台に待望の長編第4作が完成する日を夢見つつ、その日のためにも今、スクリーンで蘇ったエリセの快作に見惚れておこう。”幻”で終わらせておくのはあまりに惜しい彼の映画の不滅の時空に目を、心を、身を開こう!


 なんだかアジテーションめいてきて困ったなあと反省しつつ、でも、先日、久々に銀幕で再会した『ミツバチのささやき』と『エル・スール』は実際、DVDやブルーレイやストリーミングでは味わえない映画館ならではのドキドキを改めて思い知らせてくれた。同時に時を経て見直すことで思いがけず真新しい映画が立ち現れ迫ってきたりもするのだと今更ながらに”不滅の映画”の奥行を噛みしめもした。


 例えば『ミツバチのささやき』。


 映画『フランケンシュタイン』の中の怪物と少女の死に迷いなく現実を重ねて、世界の理不尽と向き合いながら”精霊”――この世ならざるものの存在を信じつづけている幼いひとりの磁力。


 前世紀の終りに見た映画はそんな少女の通過儀礼の物語としてまず迫ってきたように思う。


 もちろん主演の少女アナ・トレントのあどけなさは今回も圧巻だったけれど、その黒い瞳の真ん中に確実に“キャッチ・ライト”を煌かせるエリセの映画の的確な技術にも気づけるくらいに歳をとった観客として、少女という存在に少しだけ距離を置いて映画を見られるようになってみると、以前には後景にあると思われた彼女の父と母、スペインの内線を通過してその後の虚ろを生きている世代の悲しみの方にいっそう引き込まれたりもしてしまう。


 その意味ではやはり少女の成長の物語として出会ったエリセの長編第2作『エル・スール』が今回、父(演じるオメロ・アントヌッティの素敵と共に)の哀しみの物語として『ミツバチのささやき』にも増して胸に深く突き刺さったのもまた驚きだった。


 内戦に敗れ、のみならずその戦いによって南の故郷を離れた”亡命者”として今あるここに真の居場所を見出せない父の姿。映画はそれを判ることと判らないことの狭間、どこか曖昧な領域にいる少女の回想として描く。


 今は北の地に住む息子一家、孫娘の聖体拝受の式のために彼らの下を訪れる祖母(父の母)と乳母がもたらす南(エル・スール)の風の懐かしさ。そこに立ちのぼる感傷の甘やかな香り。いっぽうで負け戦の後にも信じた思想ゆえにカトリックの儀式は拒み、けれども白い晴れ着に身を包んだ娘とのダンスは拒まない父の眩しい切なさ。


 少女の記憶の幼い淡さの向こうでエリセの映画が見すえている痛切な歴史的事実。その重みに気づいてみると、そういえばとやはり内線ゆえに故郷を離れた父の世代の喪失の感覚を濃やかに湛えてその子供たち――”予め失われた“世代の絶望をも活写したエドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』との結び目もここに見出してみたくなる。


 ちなみに4時間の長尺を共に駆け抜けることでこそ到達し得る清々しさが『クーリンチェ少年殺人事件』の大きな魅力のひとつと確認してみると、同様にやはり3時間を超える大作として構想されながら、制作半ばで打ち切りの憂き目にあった『エル・スール』の、後半部で描かれるはずだった南との和解の物語に思いを馳せずにもいられなくなる。


 が、謎を遺して逝った父の故郷へと旅立つ少女の顔、そこに観客それぞれが過去と交わる未来を思い描く、そんな余韻に満ち満ちた現在のエンディングも捨て難い。


 何はともあれエリセの2本がスクリーンにかかっている今、自身の目でエリセの世界を(再/新)発見してみること。この春、マストで実践をお薦めしたい。(川口敦子)