トップへ

荻野洋一の『ジャッキー』評:女性の一代記にせず、“倒錯の儀式”を描いた潔さ

2017年04月07日 11:03  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Jackie Productions Limited

 ケネディ大統領暗殺事件(1963年)当時の状況、そしてジャクリーン夫人の動向をたどりつつ、にわかには納得しがたいような、とてつもない妄想の産物へと膨張していく奇妙な映画である。ジャクリーン夫人を演じるのはナタリー・ポートマン。そして本作のプロデューサーは『ブラック・スワン』で監督をつとめたダーレン・アロノフスキーである。『ブラック・スワン』のコンビ再び。ナタリー・ポートマンの顔のクロースアップ——恐慌をきたした顔、悲嘆にむせぶ顔、夫の血液や脳漿を浴びたのをティシュペーパーで拭う顔、決意にいきり立つ顔。彼女の顔の接写を撮り続けたいという欲動は、やや不遜な点がなきにしもあらずである。


参考:菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね


 たった99分しかないこの映画にはいくつもの地層と時間層があって、それを見る私たち観客を、歴史的な出来事とフィクショナルなイメージのはざまに誘いつつ、「悲劇とは何か」という考察へと想像だにせぬ拡大解釈に向かっていく。ヒロインの名は本名のジャクリーンよりも、題名どおり「ジャッキー」と愛称で呼ばれ、時には「ケネディ大統領夫人」とも呼ばれる。そしてややこしいことに、彼女は自分の夫ジョン・F・ケネディのことを愛称の「ジャック」で呼ぶ。「ジャック」から「ジャッキー」まではあと一音節の差しかない。女優のマリリン・モンローとの浮気など、女性遍歴に問題を抱えた夫との不仲を経験したあと、妻ジャッキーの中で「ジャッキー」と「ジャック」はあたかも同一人物のような夫唱婦随のイメージに収まらなければならない。


 「ジャッキー」と「ジャック」はあたかも同一人物のようになる、という考えはほとんど狂気のような妄想である。しかしその馬鹿げた考えが現実のものになってしまうのが、異様なるホワイトハウス効果であり、ジャクリーンという非凡な女性の思考回路のなせる技だ。ジャッキーにとってホワイトハウスとは、伝説が凋落した再建すべき殿堂であって、伝説復元をさけぶ号令者の役割を彼女に与える古代遺跡である。彼女は莫大な国家予算と個人的に集めた資金を投入して、美術品、工芸品、家具の買い戻しをおこなう。彼女は、みずから案内役を買って出たCBSの中継番組『A Tour of the White House with Mrs. John F. Kennedy』(1962)の中で、かつてのリンカーン大統領の閣議室を自分たちが夫婦の寝室として再使用していることをあけすけに紹介しながら、次のように語る。


「最も有名なのはこのリンカーンのベッド。リンカーン夫人が購入しました。鏡台、椅子、テーブルと共に家具をたくさん買ったので、大統領が怒ったとか。ムダ遣いと思われたようです。…このソファと椅子2脚はリンカーン夫人が “リンカーン・セール” で売却したものです。売却後、英国に渡り、購入者の子孫が持っていました」


 リンカーン時代の美的な宮廷生活を甦らせようとして、イギリスに流れついた家具まで追跡する執着心を隠さないジャッキーは、フィクショナルな復古主義者であり、自分たち夫婦をリンカーン夫妻と重ね合わせている。しかしアメリカの古き良き時代を復元しようとしているのは、単なる彼女の骨董趣味ゆえでもうぬぼれゆえでもない。これは「リンカーン=ケネディ」王朝とも言うべきアメリカ最高の玉座の創出作業なのだ。知ってのとおり、アメリカ合衆国はイギリスから独立して以来、連邦制の共和国としてやってきた。「王」なり「皇帝」なりの古風な君主制とは無縁の自由国家である。ましてやケネディは民主党選出のリベラルな政権を作ろうとしていた(ケネディ本人はじつはマッカーシー上院議員の赤狩りを支持していたのだが)。


 にもかかわらず、ジャッキーのやってきたことのすべては、アメリカに王朝の栄光を据えてしまおうという、アナクロと言えばアナクロ、遠大と言えば遠大な美の試みだったわけである。ケネディ政権が従来のアメリカの政権と違って「王朝」的な性格を帯びていた証拠に、かつてのヨーロッパの君主がしたように、画家、音楽家、詩人、映画人の庇護を積極的におこなっている。この映画の中でも、カタルーニャの偉大なチェリスト、パウ・カザルスをホワイトハウスに招いて演奏会を催すシーンがある。夫ケネディが好み、妻も追い求める「キャメロット」なる甘美な単語。それはミュージカルのタイトルであり、イギリスの伝説的なアーサー王と円卓の騎士たちが住んだ王宮所在地の名である。ジャック&ジャッキーによって、ホワイトハウスは20世紀のキャメロットとなった。


 しかし見落としてはならない点、それはホワイトハウスの広間においてカタルーニャ民謡『鳥の歌』をチェロで演奏するカザルスが、フランコ総統による極右独裁政権にあえぐスペインのカタルーニャからの亡命者であるという点である。カザルスはなにもケネディ王朝の栄光を祝うためだけにホワイトハウスにやって来たのではない。彼は自分の故郷カタルーニャの苦しみを世界に伝えるために、ここで『鳥の歌』を演奏しているのである。


 ケネディ夫妻によるアメリカ王朝の創出という遠大な夢。芸術と政治と歴史と伝統などもろもろが美の紐帯によってひとつの壮大な王朝絵巻をつくる。それに花を添えるチェリストの反ファシズムの悲壮な訴え。——これらの関係性を具体化したのは、ジャッキーを演じた主演のナタリー・ポートマン、ポートマンの後見人たるプロデューサーのダーレン・アロノフスキー(準備開始当初は自分が監督しようとしていたらしい、自分の恋人だったレイチェル・ワイズ主演で…このプランはアロノフスキーとワイズの破局によって頓挫した)の2人、そして本作の監督のパブロ・ララインである。


 重要なのは、このアメリカの王朝絵巻の夢を取り扱うのが、本場のアメリカ人監督ではなく、パブロ・ララインという南米チリの映画作家であることである。ララインにとって本作は、自身初の英語作品となる。パブロ・ララインといえば、日本でも公開された作品に、チリ映画『NO』(2012)がある。この『NO』は、1988年にチリで実施されたピノチェト軍事独裁政権の続投の是非を問う国民投票を描いている。ガエル・ガルシア・ベルナルが演じた主人公は、恐怖政治へのNOを投票させようと奔走する広告マンだった。しかし問題は、ピノチェト軍事独裁政権を影でつくったのがCIAだということ。チリに社会主義者アジェンデ大統領が誕生したことを嫌ったアメリカ政府があの手この手でアジェンデ政権を倒そうと試み、その結果として生み出したのがピノチェト軍事独裁政権である。ララインはそれにNOを突きつけた作品を撮った監督であり、あろうことかプロデューサーのアロノフスキーは、そんな男に本作の監督を依頼したわけである。


 監督のパブロ・ララインはチリ人。プロデューサーのダーレン・アロノフスキーはNYブルックリンのロシア系ユダヤ人家庭の出身。そして主演女優のナタリー・ポートマンはエルサレム出身のイスラエル人。ついでに言い足すと、撮影のステファーヌ・フォンテーヌは、アルノー・デプレシャンやレオス・カラックス、オリヴィエ・アサイヤス、ミア・ハンセン=ラヴの現場に参加してきたフランス人である。これほど多様な出自のタレントが集まり、ホワイトハウスの王朝的なありようを幻視して見せた。これは遠大な倒錯である。ジャック&ジャッキーのケネディ夫妻が見た王朝創出の夢の遠大さをなぞるかのように倒錯的な遠大さである。


 愛する夫(いや、夫を男性として愛していたかどうかですら、もはや大した問題ではない)の死に際し、ヒロインが果たすべき使命は、悲しみと絶望のスペクタクル化とでも呼ぶべき倒錯の儀式である。この儀式こそ、まさに王朝創出の夢の総仕上げでなければならない。ホワイトハウスから葬儀会場となるセント・マシューズ教会までの数百メートルの距離を、典雅な騎兵や馬、馬車、砲車などに先導されたジャッキーと2人の子ども(そのうちひとりは昨年末まで在日本アメリカ大使をつとめたキャロライン・ケネディである)が、フランスのド・ゴール大統領、日本の池田首相など各国要人をぞろぞろと従えて、徒歩で行進した。第2の狙撃事件が起こりえないとも限らないその無謀な行進によって、ケネディの死はこれ以上ないほど壮麗な儀式と共に伝説と化した。ジャッキーは夫の死を期せずして逆手に取るような格好で、王朝の栄光を完成に導いたのである。


 この壮麗かつ倒錯的な儀式を映像にしていくパブロ・ララインたちの手つきはそっけなく、あまりにも潔い。この映画をもっと強力な感動装置にしたかったら、ジャクリーン・ケネディという女性の一代記にすべきだっただろう。夫の死の悲しみを乗り越えて、子どもたちを育てる女/ギリシャの海運王オナシスとの再婚/パリでの豪華な再婚生活/オナシス死後、NYに戻って編集者に転身し、1980年代にはマイケル・ジャクソンの自伝本を作ったこと。——ネタには事欠かない。それらを一代記として描けば、アカデミー賞確実な感動実話のイッチョ上がりだ。しかしそういう誘惑を絶ち切り、壮麗かつ倒錯的な王朝創出、儀式への執着だけに絞りこんだ潔さにこそ、本作の真骨頂がある。(荻野洋一)