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森直人の『未来よ こんにちは』評:哲学教師ナタリーが示す、ままならない人生のやり過ごし方

2017年04月04日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 CG Cinema · Arte France Cinema · DetailFilm · Rhone-Alpes Cinema

 ところはパリ。通勤中の満員電車でドイツの詩人・批評家、エンツェンスベルガーがアラブ人自爆テロリストについて書いた『Le perdant radical(過激な敗者)』を立ったまま読む。ようやく勤務先の高校に到着すると、スト中の学生たちを軽くいなし、授業ではジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の有名な一節「もし神々からなる人民がいれば民主政をとるだろう。これほど完全な政府は人間には適しない」(第三編第四章)をそらんじて「彼は革命の生みの親よ」と加える。また、元教え子の書いたフランクフルト学派の思想家、テオドール・アドルノ論の監修を務め、その彼からギュンター・アンダース(哲学者でハンナ・アーレントの最初の夫)の著作のフランス語訳を渡される――。


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 これが本作『未来よ こんにちは』のヒロイン、四人家族の主婦でもある哲学教師ナタリー(イザベル・ユペール)のありふれた日常の風景だ。他にもアラン『幸福論』、パスカル『パンセ』、レヴィナス『困難な自由』、ジャンケレヴィッチ『死』など、「ナタリー選書」を作りたくなるくらい哲学書が山ほど登場する。


 彼女は知的で複雑な人間。しかし毎日、本当に頭を悩ませるのは、世界の不寛容でもなく観念に到来する神の問題でもなく、誰の身にも降りかかる面倒臭い俗事だ。家族、仕事、恋愛、加齢。このような都市生活者の滑稽な悲喜劇的様相は、例えばウディ・アレン(特にニューヨーク時代)の映画などでおなじみのもの。というか、現に我々自身がそうやって生きているではないか!


 この映画の劇中、ナタリーが直面するのは「まったくもう、ツイてないわ!」の世界だ。わがままで狂言癖のある母親の介護に追われ、自分が手掛けた教科書を「堅苦しくて売れないから、柔らかく改訂したい」と申し出されるトラブルも発生。そんな折、もう25年連れ添って、てっきり死ぬまで一緒にいると思っていた夫から突然愛人の存在と離婚の意思を告げられる。


 さらに憂さ晴らしとばかり、映画(ジュリエット・ビノシュ主演、アッバス・キアロスタミ監督の『トスカーナの贋作』!)を観に行くと、暗闇でキモい変態男にナンパされたり……。まさに泣きっ面に蜂。筆者は、モラトリアムな中年男がパリの街で次々とヒドい目に遭い続けるエリック・ロメール監督の『獅子座』(1959年)を想い出したりもした。


 さすがにナタリーはイライラするし、時には物にヤツアタリ。でも前へ、前へ、イザベル・ユペールが言うところの「せかせか歩く」テンポで、決して立ち止まらずに自分の人生を進めていく。そして映画の語りは、時制がポンと飛ぶことはあっても、回想シーンを一切使わない。ひたすら現在進行形で提示される、ナタリーの“生のリズム”に接しているだけで、ままならない人生のやり過ごし方をインスパイアされるように元気が出てくるのだ。


 ナタリーというキャラクターは、監督のミア=ハンセン・ラヴの母親が投影されているとのことだが(両親ともに哲学教師らしい)、同時にイザベル・ユペールの当て書きでもあるようだ。ナタリーの年齢設定は50代、実際は現在なんと64歳のユペールは、ポール・ヴァーホーヴェン監督の『エル』(今夏に日本公開予定)で米アカデミー賞主演女優賞に初ノミネートを果たしたりなど、ベテランにして「今が旬」のフランスを代表する大女優である。


 近作『アスファルト』(2015年)の落ちぶれた女優役、『母の残像』(2015年)の事故で他界した戦場写真家の役など、凛としたノーブルな佇まいの中に等身大の痛みや苦みを負った女性像がやたら似合うのだが、そんなイザベル・ユペールの「理想形」を、当のイザベル・ユペールが完璧に演じる――それが『未来よ こんにちは』の野心の核心ではなかろうか。とにかくハマリ役、たまらなく魅力的で、イザベル・ユペールという時代のアイコンをめぐる欲望のかたちを具現化する、監督と女優の見事な共犯関係をここに見ることができる。


 いま“時代のアイコン”という言葉を使ったが、それこそ往年のウディ・アレン作品『アニー・ホール』(1977年)や『マンハッタン』(1979年)の当時30代だったダイアン・キートンが「自立した女性」像のシンボル的な存在であったように、現在のイザベル・ユペールは、知的に確立された女性がしなやかに美しく年齢を重ねていくためのロールモデルとして愛されているのではなかろうか。


 ミア=ハンセン・ラヴ監督は1981年生まれだから、まさにユペールの娘世代。ラヴは『グッバイ・ファーストラブ』(2011年)で自身のティーン時代の体験をもとにホロ苦い初恋模様を綴り、『EDEN/エデン』(2014年)ではクラブDJだった兄を主人公のモデルに20年の栄枯盛衰を描いた。身の回りから世界を立ち上げてくる彼女の映画に一貫しているのは、最も慎ましいレヴェルでの「サヴァイヴ」という感覚だ。何があっても淡々と日々を生きていく――その静かだが力強い妙味は、まなざしから来る“肯定力”によるものだろう。そういった監督に内在する主題は、イザベル・ユペールが体現する精神とよく合致しているのだと思う。


 人生はどんなに辛い局面でも、束の間の“ちょっといい時間”を得ることはできる。踏んだり蹴ったりのナタリーも、「ママのお気に入り」と息子や娘にからかわれるイケメンの元教え子ファビアン(ロマン・コリンカ)と一緒にいる時は、どこか心が明るい。ファビアンがアナーキストの仲間たちと共同生活を営むフレンチ・アルプス近くの山に、ナタリーが出向く際、二人きりの車の中でウディ・ガスリーの“My Daddy( Flies a Ship in the Sky)”(邦題「シップ・イン・ザ・スカイ」)が流れるシーンがある。


「いい曲ね」
「聴き飽きたけど、なぜかこのCDしか掛からないんだ」
「誰の歌?」
「ウディ・ガスリー。急進的なフォークシンガーさ。ボブ・ディランのアイドルだ」
「……私の夫は20年間、同じ曲ばかり。ブラームスとシューマン。もううんざりよ」


 このビタースウィートなやり取りがとてもいい。もちろん彼らがこれ以上親密に接近することはないし、ナタリーの淡い恋心が成就することもない。しかしなぜか鮮やかに脳裏に刻まれ、以後長く記憶に残り続けるであろう密やかな時間だ。そして彼女の家には、猫アレルギーなのに母親から譲り受けたパンドラという名前の黒猫(パンドラはギリシャ神話に登場する災いの女神だが、彼女が持つ箱には“希望”が最後に残っている!)が待っているのである。(森直人(もり・なおと))