2017年04月02日 10:53 弁護士ドットコム
東日本大震災の津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になり、児童23人の遺族たちが、石巻市と宮城県に対して計23億円の損害賠償を求めた「大川小津波訴訟」。一審の仙台地裁判決では、「津波は予見できた」として、市と県に14億円の支払いを命じ、原告と被告の双方が控訴した。その控訴審の第1回口頭弁論が3月29日、仙台高裁でおこなわれた。2回にわたり、控訴審に向けた遺族の思いと、裁判のポイントを紹介したい。(フリーランス編集者・渡部真)
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東日本大震災から6年が経過した。2011年3月11日に起きた大地震と大津波の影響で、宮城県石巻市では死者・行方不明者が3200人以上におよび、東北沿岸部の被災地の中でも最大級の被害規模となった。
石巻市で生まれ育った今野ひとみさん(46歳)は、震災前、北上川沿いの大川地区で、夫の浩行さん(55歳)、浩行さんの両親、長女の麻里さん(当時高3)、次女の理加さん(当時高2)、長男の大輔くん(当時小6)の7人で暮らしていた。
しかし、北上川を遡上した津波が同地区を襲い、仕事でそれぞれ外出していた夫妻を残し、夫の両親と3人の子供たちを失った。長男の大輔くんが、今回、裁判に発展した大川小学校の児童だった。夫妻はいま、石巻市の内陸部に新しい家を建て、2人だけで暮らしている。
年老いた両親とともに、間もなく成人になろうとしていた娘2人と、これから成長が楽しみな息子をいっぺんに亡くした喪失感は、いまも拭えないでいる。
浩行さんは、酒を飲めば「死にたい。子供たちを守れなかった気持ちは、いくら時間が経っても変わらない」と口にしてきた。自分の子供の命を守れなかったという後悔と無念さ。ひとみさんは、「今だって、フッと横にいるんじゃないかって感じる事があるの」と、震災前には思いもしなかった人生を、まだ完全には受け止められない気持ちを吐露する。
夫妻は、新しい一歩を踏み出すためにもという気持ちから、新しい命を授かるために不妊治療にも取り組んだ。治療を受けるため、妻は車で2時間近く離れた病院に通い、辛い治療と厳しい現実を突きつけれてきた。夫は、妻をサポートするために会社を辞めて妻の通院に付き添ってきた。しかし、年齢的なこともあり残念ながら結果は実らず、昨年、不妊治療を断念した。一度は受精、着床したのだが、小さな命はお腹の中で育たず流産も経験した。
浩行さんに養子の検討について尋ねると「自分の子供の命だって守れなかったのにって思いが強い。もしもまたって考えると自信がないし怖い」と言う。本音を言えば、妻が妊娠して新しい命を預かることにも抵抗を感じていた。それでも妻の気持ちや、自分自身が一歩前に踏み出すためにもと、不妊治療に取り組んできた。
今野夫妻は、失った家族の命と、これから未来に繋がる命、そんな命の重さに向き合って6年を過ごしてきた。
七回忌を迎えた今年3月11日、夫妻は、子供たちと先祖の眠る墓前にいた。筆者が墓参りに同行させてもらい雑談をしていると、話は夫妻の子供たちが生きていたらという話題になった。長女の麻里さんと次女の理加さんは、生きていればすでに成人している。長男の大輔くんは、生きていれば18歳、この春に高校を卒業して大学へ進学するという年頃だ。
筆者「麻里ちゃんも理加ちゃんも成人してるし、大輔くんも高校卒業すれば、ちょっと背伸びして酒なんかも飲み始めてたのかもしれないですね」
浩行さん「麻里は酒は飲まないな。そういうの、苦手なタイプだった」ひとみさん「理加は飲めると思う。お酒好きになってたかも」浩行さん「大輔は飲まないんでないか。酒飲むタイプじゃない」
墓前で30分ほどそんな他愛もないタラレバ話が続いたが、ひとみさんが発した一言で、筆者は口を噤んでしまった。
「でも、本当にあの子たちがどうなってたかなんて、分からないのよね」
震災の当日、小学校6年生だった大輔くんは、石巻市立大川小学校で、ちょうど授業が終わった頃に地震に見舞われた。大きな揺れが続くなか校庭へと避難するが、冷たい風が吹き付ける中で40分も待機させられた。そして、ようやく別の場所へと避難を開始した直後に、北上川を遡上してきた津波が児童たちを襲い、大輔くんも犠牲となった。大川小学校では、学校管理下にいた児童74人と教職員10人が犠牲となった。この震災だけでなく、日本の学校管理下の事故では歴史的な惨事だった。
地震の直後、別の児童を引き取るために学校に行った保護者の目撃によると、大輔くんは「先生、津波が来るから山さ逃げっぺ」「こんなところにいたら死んでしまう」と教師に訴えていたという。今野夫妻が知る、大輔くんの最後の言葉だ。
今野夫妻は、震災後から繰り返し、学校や市教委に当時の状況についての実態解明と責任の所在について回答を求めてきたが、学校や市教委の対応はことごとく誠実さを欠いたものだった。
震災から3年が経ってようやく出された第三者検証委員会の検証報告も、極めて不十分な内容で納得できなかった。そして、同校で犠牲となった児童23人の遺族たち19家族の集団で、2014年3月、宮城県と石巻市を相手どり、仙台地方裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こした。
提訴から2年半もの間争った結果、仙台地裁(高宮健二裁判長)は、2016年10月26日、原告の主張を一部認め、市と県に約14億円の賠償を命じる判決を言い渡した。しかし、市と県は判決を不服として控訴、遺族側も主張の一部が認められなかった事で控訴した。
今年3月29日、その控訴審が仙台高等裁判所で始まった。控訴審の初公判、遺族6人の意見陳述が行われ、今野ひとみさんも遺族を代表して陳述した。 「今の私には何も残っていません。心も体も空っぽの状態です。そんな私の心の中に、大輔が先生に訴えた『津波が来るから山さ逃げっぺ』という言葉が忘れられません。『大ちゃんの言ってたことは間違いではなかったよ。山に逃げた方が助かったんだよ』と早く大輔に報告したい。それが私のただ一つの願いなのです」
ひとみさんは、終始涙を流し、紅潮した顔で裁判官に向かって訴えた。
ひとみさんは、「先生、裏山さ逃げよう」と訴えながら聞き入れられなかった大輔くんの無念さについて、この6年間、ずっと考えている。少し甘えん坊だった大輔くんが、津波が来るかもしれないと恐怖しながら校庭で待機させられていた時の悲しみ。裏山とは正反対の橋の方向に避難させられ、その橋の方から津波が目の前に襲ってきた時の絶望感。津波に流され水の中でもがく大輔くんの苦しさ。震災から6年経ったいまも、その事が頭から離れない。
そして、学校・市・県の責任者たちが「津波は予見できなかった」「裏山に逃げなかった判断は妥当」「もし自分の子どもが亡くなったら、自然災害における宿命だと思う」などという言葉を発するたびに、大輔くんの最後の言葉、大輔くんの正しい判断を否定された気持ちにさせられる。
「もう私は、お母さんではなくなってしまった。せめて、大輔を否定するような当時の校長先生や(石巻市の)亀山市長たちの言葉が間違ってると訴えて続けていかないと。それくらいしか、もう出来ないから」
控訴審は始まったばかりだが、原告・被告双方とも真っ向から主張が対立している。今後、最低でも5回以上の公判が予定されており、判決までは長引く可能性もある。
(弁護士ドットコムニュース)