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有村架純『3月のライオン』義姉役はなぜ“色っぽい”のか? 神木隆之介との関係から考察

2017年03月30日 08:03  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2017 映画「3月のライオン」製作委員会

 原作のことも、この映画のことも、なにも知らずに観はじめたわたしは、漠然とタイトルの『3月』は『3月11日』のことであろうと予感し、震災で両親を失った少年が将棋を始める物語なのであろうと思っていたが、どうやらそうではないらしいことが冒頭で早々に明かされ、なぜか豊川悦司が登場し、豊川と言えば、阪本順治映画の常連であり、阪本と言えば『王手』という将棋映画があったではないか、などと考えていると、昨年、将棋映画『聖の青春』に出ていた染谷将太が、まるで『聖の青春』の松山ケンイチのごとく別人のたたずまいでやおら姿を現し、さすがに大増量ではなく、特殊メイクだろうな、しかしなんなのだろう、これは、将棋映画の呪いなのかなとぼんやり見つめていると、有村架純が出てきた。


参考:『3月のライオン』は川本三姉妹に注目! 倉科カナ、清原果耶、新津ちせ……それぞれの魅力


 有村は、クレジットでは、主演の神木隆之介に続く二番手であるが、スクリーンに映るまでかなりの時間が経過しており、この、なかなか出てこない感じは、ほとんどトメ(キャストの最後にクレジットされるひとのこと)みたいだよな、ほんとのトメである豊川やラスボス名人、加瀬亮はいきなり出てきたのに、などと思うヒマもないほど、有村は色っぽかった。神木の部屋に入るなり、足湯をして、その生足をさらすから、ではない。彼女が、神木の帰宅を、神木の部屋の前で待っていたことが、神木の目線で知らされるとき、そのカメラが捉えた有村が無性に色っぽい。


 わたしは物語の背景を何も知らないから、そのとき、神木と有村が扮している人物たちの関係も知らなかったし、前編を観終えたいまも正確なところはよくわかってはいないが、この女性がなにやら疲れた風情で立っている様が無性に色っぽく、ああ、これはツンデレだ、ツンデレに違いないとうっすら妄想していると、有村は神木の耳元に唇を近づけ、なかなかにびっくりするようなことをささやくのだが、その言い方それ自体が、ふたりの関係性、ならびに、この女性キャラクターの性格を如実に物語っており、ごく数秒で、ある意味、すべてが<伝わってしまう>ことに静かに驚いてしまう。


 もちろん、それは、演出の賜物であるし、神木の「受け」の演技が良いからなのは明白ではあるものの、なんとなく清純派とパブリックに思われていた有村架純が、疲れが色っぽく映る、上から目線の女を演じるというキャスティングの妙を超えたところで、この女優の芝居は的確に着地していたように思う。前述した足湯以外にも、生着替えの場面があったり、ランジェリー姿があったりと、あからさまな<視覚効果>が用意されてはいるが、そうした<視覚効果>があるから色っぽいわけではなく、それらの<視覚効果>が画面に浮上したとき、そこに違和感がないようにキャラクターがコーディネートされていたことが色っぽいのである。


 両親を交通事故で失ったらしい神木隆之介を、棋士である豊川悦司は引き取るのだが、その家の子供が有村架純だった。棋士の娘なので将棋はしていた。神木も将棋をすることになる。当初は有村にこてんぱんに負かされていた神木だが、やがて棋士としての才能が開花し、有村に勝つまでになる(それどころか、前編の序盤では、師匠である豊川にも勝利している)。これが有村は許せない。しかも、彼女は棋士になる夢を絶たれている。神木は高校生にしてプロ棋士である。


 というようなことが過去の回想も含めて綴られていくが(有村の少女時代を演じる原菜乃華のサディスティックな演技も冴えている)、そうした背景を踏まえなくても、有村が神木の耳元に唇を近づけ、神木が有村のことを「姉さん」と呼ぶことで、悩ましくも愛おしい、血のつながらない姉弟の関係性は瞬時に感じられる。


 映画は、神木のモノローグを多用するが、その中で、「対局においては勝ったほうが疲弊しているものだ」というようなことが語られる。このテーゼを、神木と有村の関係性に照らし合わせるならば、将棋では神木に敵わない有村は、神木との関係性においては一貫して<負けてはいない>状態をキープしており、神木もまたそれを受け入れている。この<共有>こそがエロティックであり、大げさに言えば、禁断めいた匂いを醸し出している。過酷な勝負の世界でプロとして生きている神木は当然のように勝利こそが大命題であり、勝ち続けるということは疲弊し続けていくことに他ならない。そんな世界に棲息しているからこそ、神木は学校内に友人などいないし、教師、高橋一生(神木も、高橋も、別な場面で、それぞれカップ麺を食べる描写があるのは両者の結びつきを示しているのだろうか)に<保護>されてもいる。彼にとって、学校は、勝ち負けのない世界である。だが、たびたび泊まりに来る有村との関係性において、神木が有村に<勝つ>ことはない(後編ではあるのかもしれないが)。言い換えるならば、有村は神木との関係性において<勝たせてはあげない>という状態を持続させている。両者ともに無意識の可能性も高いが、ふたりとも、あえて、有村が神木に将棋で勝ち続けていた頃のまま<時間を止めて>いる。それゆえ、プロ棋士である神木は休息することができる。勝つことは疲れるが、有村を相手にしたときは、勝たなくていいからである。


 有村の、上から目線の乱暴な言葉遣いはだから、本人の意志はともあれ、神木にとっては一種の優しさになりえる。と、まあ、説明が長くなったが、そのような<粗暴な優しさ>が伝わるように有村は発語している。こうした発語が、ふたりの距離感を醸成し、ふたりのシーンからツンデレの風味を生み出している。ままならぬ日常を生きる(そのことは、ハイヒールでのつかつかつかと進んでいく歩行で露わになる)有村は、神木の部屋に<甘え>に来ていることはもはや間違いがないが、心のどこかで、この関係がずっと続くわけではないことを察知してもいる、と感じさせるほどに、有村の芝居は深まっている。


 すべては、一時(いっとき)のこと。そんな雰囲気が、有村と神木のシーンには流れている。つまり、この血のつながらない姉弟は、いつまでも、このような関係性をキープしているわけにもいかないということが、うっすらと感じられる。そうしたコーディネートは、あからさまな優しさは、断固として匂わせない、有村の抑制の効いた演技によってもたらされている(逆に言えば、いくつかの<視覚効果>は、優しさの表出を封じるための目くらましだったのかもしれない)。


 それしにても。有村が女子高生を演じた『ビリギャル』、女子大生に扮した『何者』の後の作品として『3月のライオン』を観ると、3つがまったく別個のキャラクターであるにもかかわらず、ひとりの人物の成長に、それぞれ別な角度から光を当てたようにも感じられる。それは、芝居が一定だということではない。この女優が一貫して、人間の普遍性を見つめていることを意味する。別人になることも大切だが、女子高生のときにしか訪れない真実、女子大生のときにしか訪れない真実を体現することも大切である。そのときにしか訪れない、一時のことを表現できる演じ手だからこそ、『3月のライオン』の有村架純は色っぽく、そして、せつない。そして想う。色っぽいということは、なんて、せつないことなのだろうと。誰かの色っぽさは永遠ではない。だから、せつないのだと、彼女を見ていて気づかされた。(相田冬二)