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高橋一生、役者としての強みは“声”と“体”にアリ 『直虎』政次役のすごさを読む

2017年03月29日 06:13  リアルサウンド

リアルサウンド

 若手の脚本家・演出家として活躍する登米裕一が、気になる俳優やドラマ・映画について日常的な視点から考察する連載企画。第17回は、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』に出演中の高橋一生について。(編集部)


参考:『カルテット』家森諭高(高橋一生)には大きな謎が残っている?


 NHK大河ドラマ『女城主直虎』が第12回まで放送を終えました。戦国時代を描くのですからどうしても退場して行く人は多くなりますが、それにしても井伊家の人間が驚くべき速さで死んでいきます。


 井伊直満 (宇梶剛士)が第一回で早々に死に、その直満を嵌めた小野政直(吹越満)も第五回で死にました。第九回で桶狭間を迎えた井伊家は、当主の井伊直盛(杉本哲太)をはじめ重要な家臣達がいなくなります。井伊家にとって大切な武将が姿を消すということは、ドラマとしても物語を背負っていた人々が姿を消すということです。そして史実通り、第十二回では直親(三浦春馬)も退場してしまいました。


 今回の大河は次郎法師(柴咲コウ)と井伊直親(三浦春馬)と小野政次(高橋一生)の3人の恋と友情を軸に展開していました。メインキャラクターの一人がいなくなったわけです。果たしてこれからどうなってしまうのか、残る高橋一生さんの芝居を軸に考察してみたいと思います。


 観客に対して、“そこにない風景”や“そこにいない人物”を想像させるのは、映像よりもむしろ演劇の方が多いかもしれません。演劇では、海や山などと言った風景を用意出来るわけではありませんし、短い回想や人物紹介のシーンもあまり入れません。観ている人に想像してもらうことがどうしても多くなります。そのため、良い舞台俳優ほど観客の想像力を喚起させる“良い声”と“良い体”を持っています。だからこそ、舞台では“声”の芝居が鍛えられ、映像では“目”の芝居が鍛えられると言われています。


 高橋一生さんの芝居を、私はここ数年舞台でお見掛けしておりました。もちろん映像の仕事もされていましたが、朗読劇や小劇場の作品などで、良い舞台を選んで出演されている印象が強かったです。そして、どの舞台でもとても素敵な仕事をしていました。映像で求められる“目”や“顔”の芝居はもちろん、舞台で培った“声”や“体”の芝居も持っていることが、一生さんの俳優としての強みなのだと思います。つまり、“そこにない風景”や“そこにいない人物”を、想像させる芝居が上手なのです。


 一生さん演じる政次は、父・政直が死んでもなお、彼の残した言葉を“呪い”もしくは“祈り”として、重く背負い続けています。政直役の吹越さんがクランクアップしたのはもう随分前のことだと思いますが、いまなおその存在感は、政次の姿を通じて濃厚に漂っています。


 もちろん、映像ならではの回想シーンもあるので、そこで実際に死んでいった人物が登場し、その存在を思い出させられることもあります。しかし、芝居そのもので誰かの死を背負う表現ができていれば、自ずとその人物の存在感は立ち上がってきます。場合によっては、生きていた頃以上に、その命の重さを感じさせることだってできるのです。一生さんの芝居が忘れ難いのは、彼の表現の中に幾人もの人間の命が折り重なっているからかもしれません。きっと、三浦春馬さん演じる井伊直親の姿も、一生さんのこれからの芝居の中に見ることができるでしょう。


 そして直親の死を背負う政次自身も、史実ではこの数年後に退場してしまいます。最後にすべてを背負う柴咲コウさんは、井伊直虎としてどう生きて行くのか。このドラマの肝は、そこにあると言っても過言ではありません。(登米裕一)