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『哭声/コクソン』の“ジャンル横断”はなぜ成立した? 無能な主人公の行動原理から探る

2017年03月24日 17:43  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION

 「ジャンルの壁に囚われない」とは、一見するとポジティブな言葉だ。しかし同時に、このスタイルに挑戦して「支離滅裂」「何がしたいのか分からない」と切り捨てられた作品はゴマンとある。ジャンルとは一つの筋である。ホラー映画ならホラー映画らしい展開が、アクション映画ならアクション映画らしい展開を観客は期待する。一本の映画内でジャンルの壁を超えることは、そういった予想や期待を裏切ることでもあるわけで……結果として前述のような感想、もっと言うなら「何でもありかよ」と、"どっちらけ"されてしまうのだ。しかし、『哭声/コクソン』(16年)は違う。この映画は1本の映画の中でホラー、コメディ、サスペンス、ヒューマンドラマなど、複数のジャンルを縦横無尽に横断するが、最後の最後まで"どっちらけ"にはならない。その点において驚異の作品である。


参考:菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密


 本作の粗筋を語ることは難しい。韓国の田舎で大変なことが起き、主人公の幼い娘が物凄い勢いで狂っていく……。これだけは間違いないのだが、これ以上の説明は観客単位で解釈が異なってくるだろうし、今から観る人に詳しく語るのも無粋というもの。そこで今回は、國村隼演じるフンドシ一丁で鹿の生肉に食らう異邦人、ファン・ジョンミン演じるファンキーすぎる祈祷を披露するシャーマン、チョン・ウヒ演じる事件の目撃者などではなく、観客によって解釈が別れる謎を含んだキャラクターではなく、クァク・ドウォン演じる主人公・冴えない警官ジョングのキャラクター性を主軸に、なぜ本作が"どっちらけ"にならなかったのか、そしてどういう映画なのかを紹介していきたい。


 主人公のジョングは普通の人である。常に何処か上島竜兵を思わせる聞いてないよ感のある表情を浮かべ、特にコレと言った特殊能力も持っていない。正義感が強いわけでもないし、真面目なわけでもなければ、だからと言って特別に不真面目でもない。推理力はそれなりにあるが、時に事態を自ら悪化させてしまうこともあり、映画の主人公としては(あえて言うなら)無能と言われても仕方がないキャラクターだ。ある日突然、笑顔で慕ってくれていた娘に「このクソ野郎!」とマジギレされたら混乱して当然だろうが、それでも彼のイイ加減さは目に余るものがある。


 しかし優柔不断な姿勢でブレまくるジョングだが、一点だけ全くブレない部分がある。それは「狂っていく娘を救いたい」という行動原理だ。劇中の彼の行動の全ては、娘を守るためのもの。本作はジャンルの壁を次々と飛び越え、多くのキャラクターがその場その場で全く異なる顔を見せる(前述した異邦人・祈祷師・目撃者らがそうだ)。しかしジョングだけは変わらない。「自分にとって大切な他人を守りたい」この多くの人が共感できる行動原理と、その原理に忠実に動くジョングが映画全体に一本の筋を通している。観客は彼の無能っぷりに呆れながらも感情移入し、やがてその行く末に目が離せなくなっていく。そしてクライマックスの数十分、彼と一緒に困惑のド真ん中に立たされることになる。


 本作は「大切な人を守りたい」という普遍的かつ感情移入をし易い行動原理を持った主人公を置くことで、狂った物語に一本筋が通し、"どっちらけ"になるのを回避している。そして同時に、本作を多くの人が「怖い」と思うものに成立させた。大切な人を守りたいのに、状況が理解すら出来ない方向に転がり、しかも確実に悪化していく……家族でも友だちでも恋人でも同僚でも何でもいい。誰か一人でも特別な他人がいるのなら、これほどの恐怖はないだろう。先にも書いた通り、本作は観客によって物語の解釈が異なるタイプの映画だ。その違いを語り合うのも楽しい映画だろう。その一方で、大切な他人を持つ全ての人にとって、最悪の悪夢を見せてくれる作品である。必見だ。(加藤よしき)