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『A LIFE』木村拓哉と浅野忠信はなぜ“解放”された? 相田冬二が三つのトライアングルから考察

2017年03月21日 13:43  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)TBS

 女たちが、男たちを、解放する。『A LIFE ~愛しき人~』はその地点に帰着するドラマだった。そして、この結論は、本作の構造によって、あらかじめ示されていたと思う。


参考:木村拓哉と浅野忠信の友情に感動! 『A LIFE』は男の絆を描いた“青春”ドラマだった


 その構造について述べよう。この作品は、三つのトライアングルによって形成されている。トライアングルを安易に三角関係と呼ぶことは慎まなければいけない。トライアングルとは、三人の人物が文字通り三角形をかたちづくるということであり、重要なのは三つの三角形が存在し、それぞれ違うタイプの三角形であるという点である。


 まず第一のトライアングルは、すべての基点となる沖田(木村拓哉)、深冬(竹内結子)、壮大(浅野忠信)の三角形だ。沖田が深冬の元恋人であり、壮大が深冬の夫であり、沖田と壮大が親友同士であるという関係性はきわめてなまぐさいものを想起させるが、ドラマが終わってみると、そこにいわゆる三角関係を見出していたのは壮大だけだったということがわかる。もちろん、沖田も深冬も再会にときめく部分はあった。深冬は沖田を頼ったし、沖田は深冬に頼られた。そこにかけがえのない瞬間は確かにあった。だが、両者ともどうにかなろうなどとは考えてはいなかったのではないか。沖田と深冬がどうにかなる。それはすべて壮大の妄想だったとも言える。かつての沖田と深冬の仲睦まじい姿を何度もリフレイン=回想していたのは、沖田や深冬ではなく、壮大だったのだから(壮大の心的リフレインは、後に手術室で深冬を幻視するという狂おしい妄想となって立ち現れる)。そう、ここには妄想としてのトライアングルがある。大切なのは、壮大が沖田を憎んでいるわけではなく、一貫して求めている点であろう。壮大は、深冬を求めると同時に、沖田を求めていた。いや、深冬以上に沖田を求めていた可能性すらある。嫉妬もコンプレックスも、すべて沖田を求めるがゆえにもたらされた感覚だった。つまり、この三角形においては、ある意味、壮大だけが沖田と深冬双方に強烈なベクトルを向けていた。沖田と深冬をつなげる線は非常に淡い。淡かったからこそ、それは幸せをもたらした。つまり、この三角形は非常に不安定で儚いもの。いずれは崩れ去るしかない三角形だった。


 第二のトライアングルは、沖田を基点とする柴田(木村文乃)と井川(松山ケンイチ)の三角形である。これは、第一のトライアングルに較べればはるかに健全であり、線の太さも一定で、ある意味、正三角形と言えるほどだ。柴田も、井川も、沖田を医療従事者としてリスペクトしている。井川は柴田に、一男性として好意を抱いているが、柴田の沖田への尊敬に嫉妬するような局面はない。なぜなら、柴田の沖田への想いは、あくまでも同じ職業をとことん全うする者に対する敬意であって、そこには異性間の情愛には決して傾斜しない潔さと頑なさがあるからだ。井川の好意に、ときに女として応えてもみせる度量も持つ柴田はしかし、沖田に対しては女を見せない。なぜなら、それが彼女なりのリスペクトだからである。このドラマには通俗に陥らない潔癖さがあるが、それは柴田のキャラクターによるところが大きい。井川は最初こそ沖田に反発心を抱いていたが、すぐになつき、おぼっちゃま後輩にしか許されぬ馴れ馴れしさで、沖田に接していく。ときには言いたいことをぶつけながら、熱血にはならず、ウォーミーな空気を醸し出す井川は、複雑なしがらみを生きるしかない沖田にとって、心の休息場所だっただろう。柴田のベクトル、井川のベクトルが自分に向いていることは沖田の充足を保証していたはずだ。この三角形は、安定のかたちをしている。


 そして、第三のトライアングルは、壮大と榊原(菜々緒)、深冬によって成されている。ここでは、もっとも歪んだ三角形が展開される。ベクトルは、榊原から壮大にしか向けられておらず、榊原と深冬が対峙する場面はあったにせよ、ふたりの女は線で結ばれてはいない。つまり、正確に言えば、これは三角形ではなくV字である。壮大の気持ちは深冬にしか向かっておらず、そのことを熟知した上で、榊原は壮大を愛した。榊原の一見、過激な振る舞いが壮大への憎しみとなることは実は皆無で、それは一貫して愛だった。ただ、壮大が、一貫して、榊原に対して無関心だっただけのことである。これが壮大の残酷な点であり、同時に愛すべき点でもあるが、おそらく彼はいまだに榊原の愛に気づいてはいないはずだ。つまり、第三のトライアングルにおいて、榊原は一人相撲をしていた。そして、壮大もまた第一のトライアングルにおいて一人相撲をしていた。一人相撲をする者同士が結ばれることはなかったのである。


 空虚なトライアングル。バランスのとれたトライアングル。そしてアンバランスなトライアングル。このドラマの土台は、この三つの三角形の交錯から、浮かび上がる。擦れ合い、もつれ合い、混じり合う、性質の異なる三角形たち。だが、三つの三角形は互いに補完し合っている。リアルなものと、そうでないもの。安定しているものと、そうでないもの。価値観は均質化してはおらず、それは明暗と硬軟が混在するドラマそのものの魅惑にもつながっている。つまり、そこは、必ずしも、逃げ出したくなるだけの場所ではない。居心地の良さもあれば、郷愁にひたれる場所でもある。求める者がいて、求められる者がいる。互いを引き合う引力があり、渦に巻き込んでいく求心力がある。


 では、その場所とは何なのか?


 たとえば、そこは<城>のような場所なのではないか。これは、スーパードクターものでもなければ、医療ドラマでもないとわたしは考える。これは<城>に幽閉された人々の物語だと思う。


 端的に言おう。その<城>には、(父)親離れのできない男たちが幽閉されていた。沖田、壮大、井川。全員、親離れができていない。沖田は帰国することで親離れができていないことに気づき、第八話で、父親、一心(田中泯)の手術に失敗する。自虐愛好家である壮大は、医師であった亡き父親を前にいまもぼやいている、こんなはずじゃなかったと。医者の家に生まれたぼんぼんである井川は言わずもがな。一心に言わせれば、彼らは全員<半人前>である。


 だから、言ってみればこれは<通過儀礼>の物語なのだ。思えば、恩師(武田鉄矢)離れをいち早く済ませた羽村(及川光博)や、やはり苦渋の末、(父)親離れを達成した榊原は、それがいまだ出来ていない沖田や壮大や井川の深層を際立たせる存在であり、彼らのエピソードはある種の予告だったのではないか。


 だから、このふたり、羽村と榊原が結託し、壮大を告発するのは必然だった。なぜなら、誰かを解放できるのは、解放されている者だけだからだ。羽村と榊原は、壮大を憎んだから告発したのではない。この<城>に永遠に閉じ籠もろうとしている精神がニートな壮大を、どうにかして解放したかったからこそ、告発した。三つのトライアングルのどこにも属さない羽村は、本作の中で特別なポジションにいる。彼がどの三角形にも囚われていないのは、彼がどこか中性的だからだと思う。榊原と一緒にいても、男女の雰囲気が漂わない。三つのトライアングルの外側にいる羽村が、最も歪なトライアングルを形成する榊原を巻き込み、この物語の中で最も深い業を抱える壮大を<城>から追放する。これは考えに考え抜かれた因果構造であると思う。壮大が<城>から追い出されることで、三つの三角形は、ひとつずつ消えていく。トライアングルを抹消するのは、いずれも女である。


 第三のトライアングルは、羽村の助けをかりて、榊原が抹消した。そして、第一のトライアングルは、壮大が<城>から放逐されたことを契機に、深冬が抹消する。いや、深冬のベクトルはもともと壮大にだけ向いていたと捉えることも可能だろう。だが、竹内結子が最終話で見せたあの素晴らしい表情を目の当たりにすると、やはり壮大が<城>から追い出された瞬間、最終決断は下されたのだと思われる。その表情とは、手術が不完全だったということを沖田に知らされたときに深冬が浮かべる表情のことである。深冬は「そう。そんなことより壮大さんは?」という顔をする。その、あらかじめ決まっていたことを全身と全霊に、さらりと落とし込んでいくような表情はさり気ないからこそ、無尽蔵の泉のように輝いていた。


 表情と言えば、沖田がついに深冬の手術方法を発見する七話で木村拓哉は何度か信じがたいほど感動的な表情を浮かべるのだが、その最高峰に位置するのが、「私の最後の患者をよろしくお願いします」と伝えに来た深冬を見送る沖田の顔である。あれは何だったのだろう。そこでは、哀しみと光が共にあり、別れと未来がランデヴーしていた。せつないのに、さわやかなのである。いまにして思えば、あの顔は、沖田と深冬が離れ離れになる予感だったのではないか。木村拓哉は、これまでのドラマや映画でも、予感に満ちた芝居を繰り広げてきた屈指の演じ手である。しかし、人物の無意識を、ここまで鮮やかに体現したことはなかったかもしれない。竹内結子のあの素晴らしい表情は、このときの木村拓哉がもたらした顔からの、時間差の反射だったのかもしれない。そう考えると、このドラマのスケールの大きさも体感できるような気がする。


 第二のトライアングルは、柴田によって抹消される。いや、それは抹消ではなく、昇華だったのかもしれない。すべてが終わり、シアトル行きを決意した沖田に柴田は「ついていかない」と告げる。もし、あそこで柴田が沖田についていったら、井川のベクトルはこれまでとは別なものになっていたかもしれない。別な三角形が生まれていたかもしれないのだ。だが、柴田は沖田への敬意を敬意として留めておくために、病院に残った。それが即、柴田と井川の交際に発展するわけではないことは、井川が留学を視野に入れていることからも明らかだろう。つまり、沖田がシアトルに帰還し、柴田が彼についていかなかったことによって、井川もまた解放されたのである。


 柴田も、深冬も、あらかじめ親離れが済んでいたことは重要である。当初、柴田が井川につっかかっていたのは、彼の甘えもさることながら、井川の親離れが済んでいないからだったのではないか。一方、院長、壇上虎之介(柄本明)のお嬢様である深冬は決してファザコンではなかった。彼女は虎之介に「この病院、好きよ」と微笑むが、あの笑顔こそ、深冬がとっくの昔に親離れを済ましていたことを証明していた。後半、顕著になるが、虎之介こそ、娘の存在に依存した典型的で愚かな溺愛親である。つまり、彼は子離れが済んでいなかった。


 榊原は壮大を否定した。柴田は沖田と井川を肯定した。そして、深冬は沖田と壮大を見つめた(その視線を、聡明な傍観と呼びたい。深冬は、榊原や柴田とは違って、男たちに、ああしろ、こうしろとは決して言わなかったからである)。そして、否定も、肯定も、傍観も、すべて、彼女たちなりの愛だったことが、全十話を観終えたいま、よくわかる。


 これは、<半人前>の男の子たちを、<一人前>の女たちが解放する物語である。そのために、彼女たちは愛を駆使した。真の主人公は、沖田でもなく、壮大でもなく、女たちだった。


 壮大が院長となる壇上記念病院には、深冬が、柴田が、井川が、そして羽村がいまもいる。<城>は残った。だが、幽閉されている者はもう誰もいない。扉は開け放たれている。(相田冬二)