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『まんが島』は映画版『バイプレイヤーズ』だ! 名脇役たちは監督の腕を問う

2017年03月18日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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 近頃観た日本映画のなかでは、特に『まんが島』が凄まじかった。ただもう、強烈な凄まじさを感じた。ときに画面からグチャッとはみ出したり、画面をグチャグチャに駆けめぐったりする、あのグチャッやグチャグチャの正体はいったい何だろう?


参考:注目すべき“80年代生まれ”の監督たちーー映画作りの中心を担う層が変化した2016年の日本映画界


 太平洋の絶海に浮かぶ孤島で、獣のようになってペンを振るい、インクを飛ばす売れない漫画家5人のサバイバル劇。原稿を描けばその上を蛇がくねり、飢えと渇きに苦しめられる極限下で、文字通り命をかけて漫画執筆に挑む男たちの壮絶な姿が、壮絶という形容を上回る異様さと過剰さでそこには映しだされる。次第に狂気へ駆られるさまは、ヴェルナー・ヘルツォーク作品におけるクラウス・キンスキーのように野性的で変態的だが、作品のベースには“『まんが道』×無人島”という奇想があって、彼らの風貌は漫画のキャラクターみたいにどこか愛らしい。ベレー帽とか被ってるし。


 今回が劇場初長編となる監督の守屋文雄は、沖田修一の『キツツキと雨』や熊切和嘉の『ディアスポリス -DIRTY YELLOW BOYS-』で脚本を務めたり、同じく沖田作品やいまおかしんじ作品などに俳優として出演したりしてきた。構想10年という本作への思いを、彼はこう綴っている。


「まるでひとつの夢であるかのような映画を私は思い描きました。私は、自分が見たい映画を作らなくてはなりませんでした。お家の回りでカメラを回して、映画のフリをしてもダメだと思いました。その映画は、あらゆる意味で私が初めて見る映画でなくてはなりませんでした。誰かに「面白い」と言ってもらうためにではなく、ただ、自分で驚くために、映画を作らなければなりませんでした」


 『まんが島』は確かにこの言葉の通り、夢そのもののようで、驚きに満ちあふれ、誰もが初めて遭遇する類いの映画だ。手持ちやGoProで撮られた緊迫する映像に、劇中漫画のイメージが次々に覆いかぶさり、ロケ地の洞窟で収録された打楽器の原始的なリズムが鼓動する。これは漫画家だけでなく、もの作りに向かう人たちの心のうちが、その混沌が、ありのまま映像と音楽に移し替えられたものだろう。画面に横溢するグチャッやグチャグチャの正体はこの辺りにある。


「『まんが島』は映画版『バイプレイヤーズ』だ!」


 一部ではこう言われている、というかまあ、そんなに言われていないのだけど、水澤紳吾、松浦裕也、宇野祥平、川瀬陽太といったこの作品の主要キャストは、現在の日本映画に欠かせないバイプレイヤーの主力たちだ。“脇役”と書くとなんだか些末な存在に思えるかもしれない。でもそこには確かな技術なのか、はたまた得がたい個性なのか、その人にしか備わっていない無二の価値がある。というようなことを『まんが島』で再認識するし、名脇役たちが集ったドラマ『バイプレイヤーズ』を観ながら毎回感じている。


 以前、『バイプレイヤーズ』で共演する田口トモロヲと光石研のふたりに、ロケ弁に関する話を聞いた時のことが印象深い。早朝のロケは手軽に食べられるおにぎりが一番だとか、寒い時は汁ものもあるとなおいいとか、そういった現場あるあるに加えて、ふたりはこんな話をしてくれた。


田口「昭和の名脇役と言われた殿山泰司さんの本を読むと、たいてい前の日の酒が残っていてあまり朝ごはんを食べていないんです。若い頃は「それが脇役のダンディズムだ」と思って真似をしましたが、食わないと昼まで持たない(笑)」
光石「憧れますけどね(笑)」


 みずからを“三文役者”と称し、規模の大小やジャンルを問わず、依頼されればどんな作品にも出演した昭和の名バイプレイヤー、殿山泰司。撮影現場の様子から大好きだったジャズやミステリー小説のことまで、飄逸な文体でたくさんの身辺雑記を残した彼の言葉に、次のようなものがある。


「ダレに監督されようと、オレとしてはやることは同じだけどね。小学生の映画監督が出現して出演したとしても、オレとしては同じである。つまり一所ケン命にやるだけさ」


 続けて、「オマエの演技はいつも一所ケン命にやっているようには見えない、とアホなことをいうヤツが世の中には一パイいるけどね、ヒヒヒヒ」と付け加える諧謔が殿山の真骨頂だけど、ともあれここにはどんな状況でも粉骨砕身、作品に身を捧げるバイプレイヤーの美意識が見てとれる。


 一方、監督にとってみれば、そんなバイプレイヤーたちの存在ほど心強いものはない。新たな監督が頭角をあらわす時、個性的なバイプレイヤーたちがその作家の個性と同一視されることだって、ときにはある。かつて北野武や三池崇史が評価を得はじめた頃、そこには大杉漣や遠藤憲一、寺島進の献身が確かにあった。そしてつねに一定水準以上の芝居をする、彼らの魅力をさらにどれだけ引き出せるかという点で、監督の腕は厳しく問われる。高い相乗効果を生むバイプレイヤーと監督の関係は、図のように、『バイプレイヤーズ』以降のバイプレイヤーと監督たちにも当てはまるものだ。


 その点、『ろくでなし』は大西信満、渋川清彦といった本作で主演を務める“バイプレイヤー”たちと監督の奥田庸介が相互に作用しあい、それぞれの魅力を存分に引き出すことに成功した。裏社会に生きるふたりの男が、片隅に自分の居場所を見出そうともがきながら、ある姉妹と不器用な恋を育む物語。とりわけ、粗野だが純粋な男を見開いた目と朴訥なしゃべりで演じる大西に対し、前作『クズとゲスとブス』、本作『ろくでなし』と続く“クソ野郎”連作で自身のテーマを見定めた奥田が、男の悲しさや切なさ、生きづらさをめいっぱい共鳴させる。大西がみずからを何度も殴り、店舗のシャッターに頭を激しく打ちつけるクライマックスは、監督の心の叫びに役者が献身的に応えた素晴らしいシーンだ。その不器用なさまを、不器用なりに、真摯に届けようとするキャストと監督の姿は、やはり心に強く響くものがある。(門間雄介)


*引用
『まんが島』プレス資料
『BRUTUS』2011年6月15日号
殿山泰司『JAMJAM日記』