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「子供の貧困が分からない」という投稿が物議 「相対的貧困」を実感することの難しさ

2017年03月15日 17:41  キャリコネニュース

キャリコネニュース

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年末年始のテレビで、日本財団の子供の貧困に関するCMが流れていた記憶がある人はいるだろうか。約6人に1人と言われる国内の貧困状態の子供に放課後の居場所を作るべく、寄付を募る内容だった。

しかし、貧困に陥っている子を身近に見ないという理由で、この「子どもの貧困」に実感が沸かない人もいるようだ。2月、発言小町に立った「子供の貧困が分からない」というトピックの主もその一人である。

「ウチの子供も普通の公立小学校に通っていますが、同級生や児童を見渡しても見た目で判断出来るようなことはありません。明日食べるものないような子供が沢山要るのであれば、確かに深刻でしょう。でも、貧困や格差を感じるような場面を体感できません」

「絶対的貧困」と「相対的貧困」は違うもの

トピ主の発言に、「今はスマホ持っててもゲームを持っていても『貧困」であったりするようです。(中略)申し訳ないけれど、私には理解できません」と同意する声も上がっていたが、貧困の定義に言及するコメントが付いてからは、「トピ主が見えていないだけでは?」と、否定的なコメントが増えるようになった。

「日本の貧困は絶対貧困ではなく相対的貧困ですから、目に見えにくいとは思いますし、『普通の公立」といっても地域によっては裕福な家庭の多い地域だったり、そうではない家庭の多い地域だったりありますから、トピ主さんのお住まいの地域によっては、我が子の周囲だけでは推し量れない部分があると思います」

「絶対的貧困」とは、食べ物や着る物など、生活するために必要な最低限度のものすらままならない貧困の状態を意味する。途上国で言われる貧困がこれだ。

対して「相対的貧困」は国内の所得格差による貧困を指す。所得額順に人を並べたとき、最も人数が多くなる額(中央値)の半分を下回る人の割合が「相対的貧困率」となる。つまり、格差がどのくらい開いているかを表す1つの指標だと言っていいだろう。日本の相対的貧困率はOECD加盟国30か国中4位と極めて高い。

「当たり前」を享受できないことで生まれる孤独感が子供の心を蝕む

とはいえ、相対的貧困という概念を知ってもなお、それを貧困と呼ぶことに納得いかない人たちもいるようだ。

「世の中平等じゃないんだから、そんなこといいだしたら、みんな貧困家庭だよ」
「塾に行けない。服はお下がりばかり。家族旅行に行かない。進路を変更せざるを得ない。本を買ってもらえない、などなど。アンケートでこのような項目にチェックする子が多くいるようです。『それって貧困と呼ぶの?』と思ってしまう私は年寄りだということかな?」

といったコメントもある。

確かに気持ちは分からないでもない。相対的貧困は絶対的貧困よりまし、と捉えてしまうのも無理はない。しかしそれは、相対的貧困がもたらす辛さを想像できていないが故の暴言ではないだろうか。

最近では、貧困と子供の自尊感情低下の関連が指摘されている。最低限の衣食住は確保できても娯楽や余暇に割くお金がなく、周りが当たり前にやっていることができないと、徐々に友人と距離が生まれ、人的資本を形成する機会を失い孤立する。

子ども時代に貧困やぼっちを経験した人は、その辛さが自分の努力では改善できない、という状態の絶望感が分かるかもしれない。経験のない人も、周囲の輪に入れない辛さが毎日続く学校生活を想像してみてほしい。

孤独感は時に人を殺す。まずは相対的貧困を見ようとするところから心がけてみてはいかがだろうか。