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サエキけんぞうの『ラ・ラ・ランド』評 『ロシュフォールの恋人たち』に通ずる“葛藤”のない輝き

2017年03月15日 16:03  リアルサウンド

リアルサウンド

『ラ・ラ・ランド』

 高らかな論争も生みながら、興行の爆走を続ける『ラ・ラ・ランド』。その舌戦に一矢を投じよう。


参考:菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評 第二弾:米国アカデミー賞の授賞式を受けての追補


■数多の映画作品を2017年仕様にしたチャゼルの手腕


 「お?そう来たか?」と心高鳴るオープニング。明かに1967年仏ジャック・ドゥミの名作『ロシュフォールの恋人たち』のオマージュである。ミッシェル・ルグランのサウンド・トラックを含め渋谷系の多くのアーティストにとってもバイブルになった作品だ。渋谷のTSUTAYAでは、3月第2週末DVDが全て貸しだし中であった。


 とにかくいきなり踊る。渋滞の車を並べに並べ、そのルーフ群の上で躊躇なくステップを踏みまくる。現在のアメリカ、LAの「今の気分」を感じさせながら、白人、黒人、様々な若者がやる気満々で踊る、そこに気持ちを持って行かれたなら、この映画のカタパルトにのれるだろう。


 この映画に最も大きな影響を及ぼしたと思われる『ロシュフォールの恋人たち』はどんな映画か? これまた『ラ・ラ・ランド』にも影響した64年の同監督による『シェルブールの雨傘』に続くミュージカル作品だ。『シェルブール~』は、カップルの運命的な別れを描いた悲劇だが、セリフなしで、全編を歌で届けたことが世界的な話題となり、大成功を収めた。主題歌は現在の若者でさえも既知感があるかもしれないほどの有名な悲しいメロディだ。『ロシュフォールの恋人たち』は、一転して悲恋物語ではない。海辺の街ロシュフォールに住む双子姉妹が様々な夢を持ちながら恋を探す物語。年に一度の祭を二日後に控え、冒頭から粋なフランス風労働服に身を包んだ男女がカッコ良く踊りまくって始まる。重い物語の伏線はなく、踊りと音楽のカッコ良さだけで興奮を伝えてくることがポイントだ。


 若いフランス男女のカッコ良さは歴史的な輝きともいっていい。60年代は、ブランド大国フランスからではなく、英国若者ストリート発の「スウィンギン・ロンドン」というムーブメントが起こり、ヒッピー、学生運動、ロックなど、若者の主導権が開花した時期。67年はサブカルチャーの本丸がサイケに移った瞬間だった。『ロシュフォール~』はそんなサブカル的潮流とは一線を画し、そんな時代の若者の気運を別の表現で伝えている。ダンスと歌、ミュージカルでだ。そこには悲恋にこだわってるヒマはない、という趣きさえあった。ミッシェル・ルグランの音楽はジャズとして抜群のリズム切れ味を讃えながら、フランス作家らしい豊穣な情感を盛り込み、アメリカ作家とは違う繊細なゴージャスさで、サントラだけ聴いていても満足するほどだ。


 若者の今を生きる生命エネルギーを冒頭の映像と楽曲だけで堪能させる、そんなタスクが『ラ・ラ・ランド』でも行われている。


 しかし、オマージュは『ロシュフォール~』に留まらない。ざっと挙げると女優志願者の友人達とシェアルームで騒ぐシーンが『グリース』(78)と『ウエストサイド物語』(61)、続いて路上に出て踊るシーンが『スウィート・チャリティ』(69)、VIP宅でプールに飛び込むシーンの、水中と水面にカメラが行き来する撮影はモロに『ブギー・ナイツ』(97)、主人公カップル、セバスチャン(ライアン・ゴズリング)とミア(エマ・ストーン)が背中を見せて夕焼けを見るシーンは『雨に唄えば』(52)、続いて公園で踊るシーンは『シャル・ウィー・ダンス』(37)『バンド・ワゴン』(53)、プラネタリウムでのシーンは『ムーラン・ルージュ』(01)と、数え切れない。まさに『ニューシネマ・パラダイス』をドラマとして実現している(すでに動画サイトには『ラ・ラ・ランド』が参考にした(と思われる)映画を比較する動画がいくつかUPされている。)。


 感心するのは、そのどのシーンも本物と比較して嫌な感じが微塵もしない。マネようとして構図を無理してるわけではなく、今の視点でノビノビと客に訴えかけるように作られている。先達作品への愛情が伝わってくるが、十分に2017年用の出来となっていることだ。


 個人的には、今のLAの魅力を伝えようとする景色の着色が非常にうまくいっていると思う。現在の米国都市は撮り方によっては憂鬱な退廃が映ることはご存じだと思う。着色といえば『パリ・テキサス』(84)、『デイヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』(86)が画期的な濃い着色でニューウェイヴ文化時の「ヘン指向」をユーモラスに示したのが印象的だった。その後『タイタニック』(97)あたりで大作のCG化が極まってきて、脚本で沸きたてる感情と寄りそいながらスクリーンの色彩効果がかなりアグレッシヴになってきたように思った。2000年代ではもはや、邪魔な背景は消し去られ、どこまでがCGなのか実景なのか全くわからない、実写がアニメ化した時代になったといえよう。


 『ラ・ラ・ランド』はLAにおける人生の夢を、色彩感によってテーマパークで体感するように味わえる。やり過ぎかどうかギリギリのところまで。その証拠に、場面を静止画で見ると、え?これ書き割りだったの?と思わせる。例えば、公園のダンス・シーンの背景とかだ。アニメ『君の名は。』は、新宿など、アニメによる精細な街の描写が話題を集めた。それがアニメから実写に接近して成功を収めたとすれば、こちらはその逆パターンの成功といえよう。


 さて、オマージュはしばしば説教じみてることが多い。「俺、こんなに知ってるんだぜ」的な引用ということだ。その場合、ハリウッドの黄金時代『ウエストサイド物語』、『雨に唄えば』といった「印籠を見せればどうだ?」という態度になることが多いが、この映画のオマージュは大作を網羅しながらも、『グリース』のような批評家にはB級扱いされてる作品や、『ブギー・ナイツ』のようなサブカル系作品、そして『ムーラン・ルージュ』のような娯楽近作をガンガン取り入れていることがポイントだ。


 弱冠32歳のデイミアン・チャゼル監督にとって、映画史と映画通達は、押しつぶされてしかるべき巨大な敵である。しかし、客は映画史とか音楽史とか関係ない。「映画を予備知識とかなしで、ただ今の娯楽として考えたい」と思っている。そんな客の目線に合わせる一方、映画が好きでしょうがない自分の本能に逆らわない映画を撮りたい。そんな状況について考え抜いていると思うのだ。現在の享楽的なマーケットでは「俺は博識だ」というポーズが消費の最大の敵なのだと思う。『ラ・ラ・ランド』は鬼のようにオマージュが行われてるのに、マニア達によってオマージュ論争が起きず、淡々と元ネタがアップされている状況なのは、消費者に向いてる制作側の目線ゆえ、と思う。


■ジャスティン・ハーウィッツの音楽センスとは?


 大ヒットのもうひとつの理由に音楽がある。『セッション』を共に成功させたジャスティン・ハーウィッツの音楽は今回、ブレイクを遂げたといっていい。彼らの音楽センスとはどんなものだろう?


 今回も物語の主軸をなすジャズ。それについて『セッション』では菊地成孔氏による見事な音楽分析により疑義が上がり、映画論争に火をつけたことが忘れられない。『セッション』は鬼軍曹のような教官のしごきの理不尽さが見せ所だが、いくつか確かに不自然なところがある。例えば曲のテンポを「速い」「遅い」とミクロの判断を強いられるシーン。普通の人には全くわからない。ところがあのシーンは人間メトロノーム的に精緻なリズム感を持つパール兄弟のギタリスト窪田晴男でさえ「半分しかわからなかった」ともらした。つまり、あれは正解はあえて迷宮?というほど極端な表現ということだ。『セッション』のお手本のような漫画『巨人の星』にも似たようなシーンは星の数ほど出てくる。ほぼボールの大きさに空けた壁の穴に向けてボールを投げ、その向こうの木にぶつけて一人キャッチボールをするシーンなど「こんなこと現実にあるんかいな?」と思ったもの。スポ根に科学はいらない。


 音楽の論争の元となった若者によるドラム演奏はどうだろう? それは正直、ジャズというよりヘビー・メタルである。映画中でお手本であるはずのバディ・リッチには、似ても似つかない。実はそのことについては、監督はキチンと仕掛けを用意している。映画中では、オリジナルのバディ・リッチ本人の演奏は「ラジカセ」から流しているのだ! ローファイのモコモコした音で! そのシーンは一般客は「あ~こんな感じね?」という感じでスルーするだろう。ところが古いジャズを本当に好きな人だったら、ラジカセのヒドイ音でも「主人公の演奏は、全然バディ・リッチと鳴りが違うじゃないか?」と怒り出すかもしれない。


 それはチャゼル監督と音楽担当ジャスティン・ハーウィッツの作ったお約束だったのではないか?と思う。60年前の名演奏を真似たプレイによって、今の若者に訴求する映画が作れるか? 彼らはヘビー・メタル演奏を選んだのだと思う。そして「音が分かってないわけじゃないんだよ」と映画の中に「言い訳の種明かし」は作っておいたのだ。


 今回のサウンド・トラックにもそんな精神は生きている。セロニアス・モンクのレアな「荒城の月」でルーツ感を提示後、始まるテーマ曲はミッシェル・ルグランのような豪快で緻密なジャズ生演奏ではない。EDM好きな若者の耳にもヒットするような(恐らく)プログラミングされたテクノ調の練り上げられたリズム。ジャズなのにあまりハネてない……のだ。さらに編曲はなぜかカリビアン風の展開にも、無頓着にいく。映画の中では商業サンバを揶揄しているというのに。この曲は、古いジャズを饒舌に鼓舞することも、今の流行に媚びることなく、淡々と年代不詳に、今の人々に物語の入り口を示すのだ。


 映画の情感を盛り上げる寂しげな曲「シティ・オブ・スターズ」は、『シェルブールの雨傘』主題歌的な役割ともいえるが、フレンチ調は避けて、ランディ・ニューマンなど、初期米国シンガー・ソングライター調とでも形容すべきシンプルな作品になっている。そうしたチョイスひとつひとつが「こうでなければならない」という単純なコダワリを避けていて、広く聴き手の開かれた日常性へと視線を投げているのだ。


 キャスティングで印象的なのはライアン・ゴズリングの「死んだような目」だ。コッポラの『ペギー・スーの結婚』(86年)でニコラス・ケイジが演じた「誠実で愚直さが魅力な男」と似ていると思った。「夫(ニコラス・ケイジ)との離婚を決意した中年女性が、卒倒を切っ掛けに高校時代に帰って人生を見つめ直し、夫に回帰する」という物語。女性が主人公である物語にあって、男性の役割は英雄ではなく「誠実さ」がポイントだ!と見切ったようなフェミニンな筋立て。そこでコッポラは、主人公男に野獣のようなギラギラした光を求めなかった。そしてニコラス・ケイジという変わった顔の才能が発掘された。(『ラ・ラ・ランド』に通じるテーマを持つオススメの作品です)今回、女性に人生を動かされた挙げく、去られてしまうピアニストを演じたライアン・ゴズリングには、そうした「音楽や恋人に対してあくまで誠実、目は死んだように見える」という役回りを果たさせている。


 対してエマ・ストーンは、「誰にでも愛されるスター」を目指す日々の葛藤を「ヘン顔」ギリギリの表情で熱演する。「カエルみたいだ……」と思えたシーンも多い。落胆を現す表情の奇想天外は「男にいつでも愛されたい」という枠を完全に逸脱している。そんな必死な動作を演じたところが、女性に好感をもたれる由縁ではないだろうか?


 夢に向かって熱く生きる二人は、結構いい生活をしている。親は健在だし、シェアハウスは綺麗だし、車もけして安いわけではない。この映画は、深い生活上の葛藤から立ち上げるわけではない。それは60年代風のゴージャスさに溜息の出る『ロシュフォールの恋人たち』と同じである。踊り、それも群舞の魅力を見せたい!そうした動機で映画を作ろうとした時、悲しみを軸とした本質的葛藤はいらない?というポリシーが話し合われたかもしれない(物語性が深い人生の苦悩から作られ、歌に本質的な動機が含まれるミュージカルには、ゲイなどのマイノリティを登場人物にした『レント』(05)のような傑作がある。ぜひ、そちらも見て比較して欲しい)。


 ラストに飛びきりの仕掛けが用意してある。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の現代版のようなシーン。そこで、サエキは不覚にも過去の自分の体験を思い出した。もう一つの人生は現実に存在する?と誰もが心に秘める欲求。それが炸裂する(この映画が好きになれた場合に限る)。(サエキけんぞう)


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Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.