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菊地成孔の『お嬢さん』評:エログロと歌舞伎による、恐ろしいほどのエレガンスと緻密

2017年03月14日 17:03  リアルサウンド

リアルサウンド

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■「韓国映画なんて観ない」という人に「勿体無いですよ」と言っても無駄だ。それは知っての上で言う、観ないと一生後悔しますよ


 「この、成人指定にして全世界で異例のヒットを飛ばしている作品は、あらゆる意味であなたが想像している韓国映画のどれとも違うし、水準は桁違いだ。だからそう、もうこれを韓国映画と看做さなくて良い」と言いたいところなのだが、何せ時代設定は日帝時代も日帝時代、1939年、言わずと知れた太平洋戦争の開戦前年である。


 本作は「韓国映画であること」を、最もえげつなく感じさせる『暗殺』(菊地成孔の『暗殺』評:「日韓併合時代」を舞台にした、しかし政治色皆無の娯楽大作)に続く、「時代設定により、片言の日本語と韓国語が乱れ飛ぶ韓国エンターテインメント映画」の、紛れもない大傑作である(半分ぐらい日本語)。もう、痛快さと重厚さに笑ってしまうほどの変態文芸ポルノの復権であり、映画への誹謗にも、また、誤解にすらならないだろうから最初にはっきり書くが、AVが失った、濃密な「ポルノ映画」のエロス(しかも、今の日本映画には絶対に撮れないレヴェルの、ある意味、目を覆わんばかりのエロさ、しかも美女と美少女の百合である)によって、男も女もはっきりと「抜けるし」、それが展開される世界は貴族の豪邸であり、これまた「目を覆わんばりの」強烈な美術セットと撮影の重厚さと滑稽さ、そしてストーリーは「このミステリーがすごい!」水準の軽く5倍付けである。


 筆者は鑑賞中ずっと「良いのか、これやって良い時代になったのか、良い時代になったなあ」と、垂涎の感嘆を繰り返し続けることになった。悪く(というか、ごくごく適正に、だが)書いた後に、更にダシにして悪いが、地球人は子供騙しの『ラ・ラ・ランド』(菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね)なんか観て胸をキュンキュンさせてる暇があったら、絶対にこれを観ないといけない。


 「無関係だろ?」って? いや、関係あるね。この、ある意味で戯画的なまでの様式美とエログロを湛え、知性と美学と変態性をポップにまとめあげた大傑作によって、性器をびしょびしょにしながら驚愕のストーリーを追うことの方が、発達学的な効果と浄化としては遥かに強度がある。「成人映画」という、元も子もない現実を踏まえなくとも、これは、大人の映画だ。


 いつまでも最高20代で時を止めて、ずっと恋をしていたいという「中、高、大、あらゆる二年生病」という、西欧からアジア~アフリカまでを覆う現代のペスト、本作はそのパンデミックへのダーク・アスピリンである。大人には、こんな悦びがある。本作は「大人が退行する事」の古典的で正しい形がしっかりと示され、現代のペストが、いかに病的であるかを、全く別の病理が炙り出し、撃つ。毒を持って毒を制するのだ。


■批評なのだからして、こんなこと本当はしたくないのだが、今回ばかりは興収を1円でも上げてもらいたく、まずあらすじとキャスト紹介を書く


 とはいえ、水も漏らさぬネタバレ厳禁の本作なので、荒いも荒い紹介になるが、日帝時代、太平洋戦争の前夜、莫大な資産の相続人である秀子(キム・ミニ。韓流マニアなら言わずと知れた「ホン・サンスの愛人にして、ホン・サンスと一緒にパリからカナダに逃避行」と噂の美人女優)は、人里離れた大豪邸に、エログロの稀覯本=その多くは、当局の摘発によって弾圧を受けていた春画や江戸川乱歩など。のコレクターである、叔父の上月(『クッカジカンダ』から『暗殺』まで、今や韓国を代表する人気俳優、チェ・ジヌン)と二人で、屋敷から一歩も出ずに暮らしていた。


 彼女の仕事は、完全な変態である上月の客人である、日本人の銀行家や爵位もちの変態たちに、毎夜エログロ稀覯本を、若干の実演を交えて朗読する、というものである。


 そこに、ソウルのゲトーで結成された窃盗団からの魔の手が忍び寄る。窃盗団の中の実行犯は天才詐欺師である藤原伯爵(ハ・ジョンウ。『暗殺』の<ハワイ・ピストル>役。ハワイ・ピストルと同じく、信用ならぬ二枚目のタフガイである彼はハワイ・ピストルと同じく、映画の最後では以下自粛)と、孤児から女スリに成り上がった美少女スキ(キム・テリ。本作のためにオーディションを勝ち抜いてデビューした、日本でも十分美少女女優として通じる童顔27歳の彼女は、前述の名女優キム・ミニと、女性器が映らないだけで、アメリカン・ハードコアポルノの女優と全く同じレヴェルのセックスシーンをフェティッシュからハードコアまで、観客が腰を抜かすほど、ガンガンに演じる)の二人である。


 両者は、片や朗読会の客として、片や秀子のメイドとして(タイトルの所以)上月家に接触し、周到な計算のもと、資産を奪おうとするが。。。。


 というものだ。


■「英国」の召喚を、とうとう韓国が


 原作は英国の女性作家(レズビアンをカムアウト。本作には思いっきり反映されている)による、「戦前エログロ」もののパスティーシュ的なポスト古典主義的な傑作で(発表は2002年)、もうファーストシーンから観客には詐術が仕掛けられているので(この事の指摘さえ、重要なネタバレ)、上記のあらすじ以外は一字一句かけない。


 作品は3部に分かれており、1部と2部は開始から40分間の出来事を、1人称となる登場自分物の視点を変えて反復し、驚くべき詐術の提示とともに、3部で、さらに驚くべき「その後」が描かれる。


 かといって、「楽に見ようとしていると、細かい伏線が張り巡らされすぎて振り切られ、嫌になってしまうような<ミステリーヲタ向けの、凝りに凝った原作>などではなく、驚愕のどんでん返しへの誘導が、気の利いた小学生にでもわかるような平明さで描かれている(残念ながら小学生は観れないが)。そしてテーマに政治性は皆無である。フェティッシュを際立たせるために純化された39年は、無言なだけに雄弁であるとも言える。


■監督はあの天才


 12年前に『オールド・ボーイ』で、日本の70年代エログロ劇画を原作として召喚し、オイルショック時の荒廃した日本の劇画の世界観を、見事に現代(2004年)韓国に翻案し、カンヌでグランプリを獲り、多くのクリエーターに『オールド・ボーイ』をオールタイムベストに選ばせしめたパク・チャヌク監督は、12年後、『オールド・ボーイ』のどぎつすぎる世界観を、英国/日本/韓国の折衷様式、という、とてつもないエレガント/エキセントリック/エキゾチックな舞台に移して、反復したと言えるだろう。『オールド・ボーイ』信者には、ニヤリとしてしまう画面構成や描写が溢れている(メインの畳敷き大広間に、直角線で区切られた浅いプールがモンドリアンの絵のように配置されている、等々)。


 実際に、原作が英国のものだからというだけでなく、主舞台となる屋敷の建築、並びに庭園造形は、日本式と韓国式と英国式の折衷という大歌舞伎であり、「そんな折衷様式、中はいったいどうなっているんだろう」と、果たして一歩中に入れば、そこはゴシックでマニエリスミックなパノラミックで、機械仕掛けとエロ本だらけの、大人の夢である、江戸川乱歩の世界である。


■『オールド・ボーイ』覚えてますかね? その時代ごと


 パク・チャヌクは、12年前に、まだ韓国映画がKムーヴィーなどと呼ばれ、まさかK-POPやK-TVドラマがそれに続いて、映画を遥かに超える商業的成功を収めるとは思いもよらなかった世界で、日本の70年代エログロ劇画、ウォン・カーヴァイの最盛期、タランティーノの最盛期、そしてそれらが参照している60年代日本映画(RIP清順&深作)までをも、韓国特有の凄絶なポクス(復讐)感覚や怨念(ウォナン)感覚でまとめあげた。


 主人公は15年間監禁されるは、ラストでは自分で自分の舌をハサミで切断するわ、ストーリーの中枢は「近親(姉弟)相姦から近親(父娘)相姦」という、こうして書いていても手が震えるような代物(しかも誰もが想像するような、貧乏臭さは全くなく、特に、悪役の財閥の息子のペントハウスの描写は、間取りから家具ひとつひとつまでがモダンアートの域にあり、後の韓国テレビドラマに於ける「財閥の豪邸(すげえモダン)」の全てに影響を与えている。この部屋をワイドの画角でスタイリッシュに撮るテクニックはカーウァイやタランティーノにもなかったものだった)を41歳で造りあげ、53歳になった今、英、韓、日の折衷、百合、日帝と開戦前夜という、とてつもないコンテンツ導入によって、『オールド・ボーイ』の実質上のセルフリメイク(全然物語は違いますよ。精神性の話。何せ本作は韓国語で「アガシ(お嬢様)」そして『オールド・ボーイ』は、タイトルこそ英語だが、実質「アジョシ(叔父様)」というタイトルでも全くおかしくない)を、見事に行ったと言える。


 今回召喚される固有名詞は、何せピーター・グリーナウェイ、そして江戸川乱歩、谷崎潤一郎、近松門左衛門、そして若干のアン・リー(『ラスト、コーション』の、やりすぎなまでの性描写のリビドーは戦争不安であり、『オールド・ボーイ』よりも遥かに本作と直結している。これでもかこれでもかとアクロバティックな体位を見せることで、逆にエロスから離れて行く台湾人の優しさと比べれば、余裕綽々で変態というものの貴族性と悪徳と可笑し味、そしてフェティッシュの結晶化効果と、そのおぞましさからの脱出に集中する、超大韓民国級の本作は、芯の部分では正反対ではあるが)、フランスのグランギニョルetc


 そして何より『10人の泥棒たち』から『インサイダーズ/内部者たち』(菊地成孔の『インサイダーズ/内部者たち』評:とうとう「銃が出て来ないギャング映画」が韓国から)『暗殺』に至る現代韓国映画の非常に高い技術とエネルギー、中でも日帝時代を、政治的/歴史的なリアルさから解放し、エンターテインメント映画の舞台としてノーガードで採用する、現代韓国映画界のパワフルさであろう。


 しかし、いかな80年代に青春期を過ごした世代であるパク・チャヌクであろうと、まさかピーター・グリーナウェイが現代映画に召喚されるとは思いもよらなかったし、英国の小説を日帝時代の朝鮮に移した歌舞伎のセンス振りは天才的であり、このコンセプトだけでも、本作の成功は約束されたといえよう(当連載で指摘してきた「片言フェチ」にも悠々たるサーヴィスが供される。登場人物は全員日本語をしゃべる)。


 こうした、焚きつけられざるを得ない垂涎のコンテンツを、12年前(IMFの監査が入ったりしていながらも、近代化への道に希望と挫折が渦巻いていた頃)の大韓民国のレアな民意から、現在の、遥かにデカダンで出口のない、「酷い国」である大韓国民国の陰々滅々とした民意の力を大いに受けて(国状の悪さは、エンターテインメントの発達を促す)54歳になったパク・チャヌクは、「復讐三部作」「人間じゃない三部作」を経て、再び『オールド・ボーイ』の鮮烈さに、エレガントに、重厚に、そして持ち前の残虐性とユーモアも捨てずにしっかりと帰還したと言えよう。


 筆者が当連載で紹介した韓国映画に愚作やイマイチは一つもない。繰り返すが、我が国はまだまだ平和で豊かで良い国である。大韓民国のひどさに比べれば。だからこその韓流エンターテインメントの地力は、我が国のそれを遥かに凌駕する(勿論、「民の苦しみから生まれる娯楽」だけが娯楽性の全てではない。平和ボケし、兵役もなく、まだそこそこ豊かな、うつ病と自意識過剰と現代ペストが猛威を振るっている我が国のクール。に、世界が強いエキゾチックを感じている現状は言うまでもない)。


 そろそろどの作品も、何らかの方法で観れると思うので、出来れば全作見て頂きたいのだが、本作はその筆頭、というより、冒頭に書いた通り、超韓国級のインターナショナル、コリアン・クールなので、その意味ではデヴュー当時のウォン・カーウァイに近く、「まずはジャッキー・チェンを見てからにしてよ」とは言わないので、騙されたと思って是非ご覧いただきたい。筆者個人は、今年公開されるすべての日本映画と『ラ・ラ・ランド』一本を合わせた詰め合わせと、本作一本を交換できると言われたら躊躇なくノータイムで交換する。大人には、こんな悦びがある。本作は「大人が退行する事」の古典的で正しい形がしっかりと示され、現代のペストが、いかに病的であるかを、全く別の病理が炙り出し、撃つ。毒を持って毒を制するのだ。


 唯一の弱点を挙げるならば、これは本作のみならず、パク・チャヌク作品の統一的なものなのだが、音楽が若干凡庸で、傾いて(かぶいて)いない。マイケル・ナイマンがいないピーター・グリーナウェイの召喚は残念ながら片手落ちで、なんとなく情熱的なタンゴめいたストリングスが凡庸に鳴るだけである。『キャロル』のカーター・バーウェル、『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』のミカ・レヴィ級の韓国人はいないものか、というより、500万ウォンぐらいで筆者がやることは全く吝かでない(ホン・サンスだったらタダで良い)。天才監督にはそれ相応の音楽監督が必要だろう(チャヌガ、俺たちタメだしね)。(菊地成孔)