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村上春樹作品における音楽の役割ーー『騎士団長殺し』の音響設計を読む

2017年03月11日 14:43  リアルサウンド

リアルサウンド

村上春樹『騎士団長殺し』(新潮社)

 大型書店にまた、高いタワーが出現した。売り上げが期待される新刊が登場するたび、妙に凝った形に本を積み上げる。下手に触ると崩れてしまいそうだし、近づきたくない。商品を積み木にして浮かれる書店員にムカつくから、村上春樹の新刊は、普通に平積みにしている本屋でしか買わないことにしている。今回の『騎士団長殺し』(新潮社)もそうした。


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 『第1部 顕れるイデア編』と『第2部 遷ろうメタファー編』の二分冊。読んでみると、いつも通りの村上春樹である。妻から唐突に離婚を切り出される主人公。得体の知れない男の登場。どこか謎めいた少女。死者の思い出。幻想的な空間での冒険。人ならぬものによる導き。戦時中の惨い出来事。特別な場所となる穴や壁。気軽に行われるが、奇妙なことも起こる作中のセックス。危機を回避するための象徴的な暴力。同時発売で二巻完結のように思われるけれど、続きがあっても不思議ではない、謎を残した幕切れ。


 『騎士団長殺し』は、これまでの村上作品にもみられた要素ばかりでできており、ファンにとっては安心できる内容だろう。そして、作中のあちこちに音楽が出てくる点も、いつも通りである(村上作品における音楽の扱いに関しては、いくつか本が出ていて、栗原裕一郎・大谷能生・鈴木淳史・大和田俊之・藤井勉『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)などが参考になる)。


 作家デビュー前にジャズ喫茶を開いてもいた村上は、自作のなかにクラシック、ジャズ、ロック、ポップスなど、様々な曲やアーティストの固有名詞を散りばめてきた。なかには、印象的な使われかたをして、作品のテーマ曲であったかのように記憶に残る音楽もあった。それらを作中の表記にならった書きかたで、いくつかあげてみる。


 1979年のデビュー作『風の歌を聴け』(講談社)におけるビーチ・ボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)の冒頭に引用されたスキーター・デイヴィス「THE END OF THE WORLD」と「私」が最後に聴くボブ・ディラン「激しい雨」、曲名を書名にも使った『ノルウェイの森』(講談社)のビートルズ、『国境の南、太陽の西』(講談社)のナット・キング・コール、『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)でのロッシーニ『泥棒かささぎ』とモーツァルト『魔笛』、『1Q84』(新潮社)のヤナーチェック「シンフォニエッタ」……。


 今度の『騎士団長殺し』にも、多くの音楽が出てくる。妻から離婚を切り出されて家を飛び出た「私」は車中で、たまたまプレーヤーに入っていたシェリル・クロウの最初のアルバムを流していたが、妻が好きだったイ・ムジチ合奏団によるメンデルスゾーンの八重奏曲のCDがあるのを見つける。でも、それではなくMJQ『ピラミッド』を聴く。これら3つを順にジャンル分けすると、ロック寄りのポップス、クラシック、ジャズとなる。


 登場人物がどんな音楽を選ぶか、耳に入ってきた音楽にどう反応するかで、その人の気分をなんとなく暗示するということを、村上はよく行う。「私」が、セロニアス・モンク『モンクス・ミュージック』などの古い時代のジャズを聴きながら料理するのが好きだったと設定されているあたりも、いかにも村上春樹的だ。


 ただ、『騎士団長殺し』では、ボブ・ディラン『ナッシュヴィル・スカイライン』や、「アラバマ・ソング」の入ったドアーズのアルバムを、「私」と妻は共有していたと書いている。どちらも1960年代後半の作品である。だが、この小説は、東日本大震災が起きた2011年より数年前が舞台で、「私」は36歳とされている。懐古趣味の男なのかもしれないが、読者から主人公が年齢相応に思えないという感想がちらほら上がっているのも無理はない。「私」の好みに、著者である村上春樹(現在68歳)の好みが反映されているせいである。


 1970年前後を舞台にした『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』ではビーチ・ボーイズやビートルズが、バブル景気真っ最中の1988年に刊行された『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社)では当時流行していたポップスの数々が、時代性を象徴するものとなっていた。だが、村上は、特定の時代の感性をロックやポップスに暗示させる書きかたをある時期から後退させ、作中でクラシックやジャズの比重を大きくするようになった。それは、ノモンハン事件に触れた『ねじまき鳥クロニクル』(1995年完結)以降、歴史的・社会的な問題への関心を強めていったことと並行している。


 1980年代前半に発表した『羊をめぐる冒険』(講談社)、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の頃から村上は、悪や自我といった普遍的・根源的なテーマをファンタジー的なスタイルで書くことに取り組んでいた。そして、年月を経て、特定の時代を描くことと普遍的テーマを描くことの比重が、後者のほうに傾いていった。それに伴い、いくつもの時代を経てなお聴かれ続けるクラシックを、作中で重用するようになった。『騎士団長殺し』の場合、『ねじまき鳥クロニクル』と同様に大きく扱われているのは、オペラだ。


 妻から遠ざかった「私」は、友人の雨田政彦の父・具彦がかつて住んでいた小田原の山頂の家で暮らすことになる。洋画家だった雨田具彦が第二次世界大戦前、ウィーンに留学していた時、ヒットラーが政権を握ったドイツによってオーストリアは併合された。帰国した具彦は日本画家へと大胆に転身し、大家となった。一方、もともと抽象画を描いていた「私」は、金を稼ぐため肖像画の仕事を始めた人物である。二人の画家には、通じあうなにかがあった。山頂の家には、具彦が集めたアナログ・レコードのコレクションが残されており、「私」はそれをよく聴いた。具彦の息子である政彦は、ABC「ルック・オブ・ラブ」のような1980年代のヒットソングが好きで、父とは趣味が違っていたのに。


 具彦のレコード・コレクションは、過去の留学経験が影響したのか、ドイツおよびオーストリアの古典音楽が大半だった。物語のキーになるのは、具彦が残した「騎士団長殺し」という絵だが、それはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』冒頭の騎士団長殺害のシーンを日本画として描いたものである。ナチス・ドイツや南京虐殺という過去の歴史にも言及した2巻本それぞれの副題の言葉を借りれば、「騎士団長殺し」の絵は、普遍的に存在する暴力のイデアでありメタファーである。


 また、「私」は免色(めんしき)という男の肖像画を引き受けるが、モデルになる時に免色がBGMに選んだのが、リヒアルト・シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』だ。これまた、騎士つながりだが、具彦は戦前のウィーンでシュトラウスの指揮するベートーヴェンの七番のシンフォニーを客席で聴いたというエピソードが後に紹介される。二つのオペラは、「私」を過去の歴史とつなぐものとして響いている。


 「私」は小田原へ引っ越した後、具彦のコレクションや政彦のテープを聴くだけでなく、自分でも2枚のLPを買う。それらのうち、しっかりと聴くのは、ブルース・スプリングスティーン『ザ・リヴァー』だ。作中における、幻想的な空間での「私」の冒険には、川を渡ることが含まれている。著者が『ザ・リヴァー』をピックアップしたのは、そのことにひっかけているのだろうが、この場面で「私」はアナログ・レコードのA面を聴き、ひっくり返してB面を聴くという段取りの大切さを思う。村上作品のなかの冒険は、なぜそうなるのか、因果関係がはっきりしないことが多い半面、なんらかの段取りを順番にこなすことが事態を動かす。アナログ・レコードに対する「私」の態度は、そうした村上作品の様式と呼応している。


 ――というわけで『騎士団長殺し』のなかで特に目立つ音楽は、『ドン・ジョバンニ』、『薔薇の騎士』、『ザ・リヴァー』あたりになるわけだが、それ以上に印象に残る音がある。虫たちの鳴き声がなぜか消えた夜中にどこからか響いてくる、微かな鈴の音だ。その音に気づいたことで「私」は、不思議な出来事へのコミットを深めていく。作中ではいろんな形で音楽が流れていることが多いから、対照的に静かな場面が際立つのだ。ふり返ってみれば村上作品はたいてい、音楽にあふれていると同時に、静かな時間がポイントになってもいた。こうした音響設計が、村上作品の魅力の一つとなってきた。『騎士団長殺し』でも、その定番スタイルは変わらない。(円堂都司昭)