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菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね

2017年03月06日 06:02  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND.Photo courtesy of Lionsgate.

 *以下のテキストは、 マスメディアがアカデミー賞レースの報道を一斉に始める前の、2月20日に入稿、更に4日前に書かれたもので、つまり所謂 「あとだしジャンケン」ではない旨、冒頭に強調しておく。


参考:『ラ・ラ・ランド』デイミアン・チャゼル監督が語る、ジャズと映画の関係


■今時これほど手放しで褒められてる映画があるだろうか?


 当連載は、英語圏の作品を扱わないので今回は<特別編>となる。筆者は映画評論家として3流だと思うが、本作は、複数のメディアから批評の依頼があった。大人気である。「全く褒められませんよ」「こんな映画にヒーヒー言ってるバカにいやがられるだけの原稿しか書けませんけど」と固辞しても、どうしても書けという。


 そりゃあそうだ。筆者は一度だけヤフーニュースのトップページに名前が出たことがある。ジャズの名門インパルス!レーベルと、米国人以外で初めて契約したから? 違う。女優の菊地凛子を歌手デビューさせたから? 違う。正解は「『セッション』を自分のブログで酷評したから」。流れでさらっと書くがヤフーニュースというのはバカか?


 『君の名は』や『シン・ゴジラ』でさえ賛否両論ある世界で、本作は、「観た者全員が絶賛」という、気持ち悪いぐらいの受け方をしている。ここ10年、いや、20年でもいい。これほど絶賛が集中した映画があるだろうか?


■監督/脚本/そして毎度おなじみモダンジャズのストーカーにして侮辱者であるデイミアン・チャゼルのワンパターンに倣って、最初に一発食らわせることとしよう


 本作は米国アカデミー賞の13部門のノミニーであり、これは何と、あの傑作『イヴの総て』と並ぶ記録だそうだが、もし米国アカデミー賞がこの映画に最優秀脚本賞を与えたら、筆者は映画批評家として筆を折る事を約束する。こんなバカみたいな脚本がアカデミー賞を受賞する世界で映画のことなんか一文字も書く気ないね。今年のアカデミー賞の最優秀賞脚本賞を受賞すべきなのは『ジャッキー』のノア・オッペンハイムだし、最優秀主演女優賞は同じく『ジャッキー』のナタリー・ポートマンである。ただ、残念な事にノア・オッペンハイムはノミニーですらない。


(※筆者後注 最初は博打にしても安全圏を狙って「もし、主要5部門(作品、監督、脚本、主演男優、主演女優)を制覇したら筆を折る」としたが、それでは余りに博徒としてヘタレなので、脚本賞一本に絞った。こんな杜撰な脚本がノミネイトされる事自体、未だに納得がゆかないが、とにかくお陰さまで筆は折らずに済んだし、例の珍事は筆者と同様のお祈りをしていた人々の集合的な無意識の産物であるとしか考えられない。しかしそれでもまだ作曲賞と主演女優賞には不満がある。どちらも明らかに『ジャッキー』のが優れている。嘘だと思ったらご覧頂きたい。驚くから。『ラ・ラ・ランド』程度で喜んでいる人々は、余程の恋愛飢餓で、ミュージカルについて無知で、音楽について無知で、ジャズについては更に無知という4カードが揃っている筈、というかデイミアン・チャゼルの世界観がフィットする人々である。とするのが最も適切だろう。デイミアン・チャゼルに最も近い監督にラース・フォン・トリアーがいる。「どちらもポストモダン・ミュージカルを作っているから」といった水準の見立てではない)


■それにしてもアカデミー賞って


 米国アカデミー賞は結構な伏魔殿で、前回、前々回とメキシコ移民であるアレハンドロ・イニャリトゥをスターにし、授賞式で「グローリー」を歌ったジョン<『ラ・ラ・ランド』で微妙に悪役やってます>レジェンドが、当時頻発した白人警官による黒人少年射殺事件を受け「キング牧師時代よりも今の方が監視されている黒人が多い」と、硬派な発言をしたら、ほとぼりが冷めた今年、『ムーンライト』『フェンス』『ヒドゥン・フィギュアス』と、いわゆる「黒人映画」を『ラ・ラ・ランド』の当て馬に配置した一方で、トランプ政権下で、アフロアメリカンの映画が、どうせ奪れない名を連ね、非常に優秀な移民映画(監督がチリ出身、主演女優がイスラエル出身、撮影監督がフランス人、音楽がユダヤ系イギリス人、製作がロシア系ユダヤ人、脚本がおそらく北欧系。という布陣で、アメリカン<バッド>ドリームである、JFK未亡人映画を作る)『ジャッキー』が、かなりのアンダーレイテッドぶりを見せている。メキシコ移民のイニャリトゥが作品を作らなかった事までをこじつけるつもりはないが、本当にキナ臭い話だ。逆に「来るべきトランプ政権」を見越していたかも?という気すらする。と以上余談。


■そんな中、文句なしのミュージカル現る


 『セッション』を酷評した筆者のジャッジ・ポイントは、「ジャズ映画なのに、監督がジャズについて半可通すぎる」「脚本が、何が言いたいか全くわからない。最初に一発強烈なカマしがあり、客がパンチドランキング効果でクラクラきているうちに、適当で稚拙な脚本/物語が進み、エンディングに、取ってつけたような乱暴などんでん返しがあるだけの、粗悪ドラッグ」の2点だったが、どういう訳か、前者ばかりがクローズアップされた。後者を認めるのが何らかの理由で怖かったのであろう。


 そしてこの2点は、『ラ・ラ・ランド』でもしっかり生きている。既にチャゼル・マナーである。筆者は『セッション』評を以下のように結び、まあ、オレ様の言った通りにしたから許さなくもないが、本当に「物語の書けない」若者である(今回は、それが功を奏した、という側面が大きい。ミュージカルに必要なのは、周到なプロット作りを下地にした、巧みな脚本などではない)。


 「(音楽を愛しながらも憎み、何しろ音楽に愛されていない)若きスクエア・プッシャー(路上のドラッグ売り)、デイミアン・チャゼル君には(音楽愛に素直になり、ミューズを讃える、という)転向の余地を与えます。同じく転向したダーレン・アロノフスキーのように(後略)」


 *拙著「ユングのサウンドトラック」より。


 『セッション』では暴力とハラスメントの恐怖に飢えたボンクラ童貞どもをヒーヒー言わせたのと全く同じ、コッテコテの手法で、本作は、恋に飢えた女どもを中心にした全人類どもを『セッション』の1000倍の力でヒーヒー言わせるが、ワンカット撮影がすごいとか、ダンスがやばいとか、絶賛の嵐である「また朝が来れば新しい日」の映像は、肝心要の楽曲が素晴らしいので持って行くが、4分の映像としては、これは気の利いたTVCMの仕事である(本作の「ミュージカルシーン」の全てがそうなのだが)。


 金をはたいて優れたアートディレクター、コレオグラファー、撮影監督を雇えば、量産できるレヴェルのものだ。そして歌詞の内容は、テレビミュージカルの金字塔『glee/グリー』の実質的な主題歌であるジャーニーの「ドント・ストップ・ビリービン」とほぼ同じであり(検索して比べてみるといい。テーマが同じだけではない、ほぼほぼパクりである。因みに、『glee/グリー』全体、特にこの主題歌の搾取のされ方は凄まじく、あの『アナ雪』の主題歌は、ほぼこの曲の主題歌のコード進行とビートで、『glee/グリー』の主人公の母親役の女優が歌っている)、LAはハリウッドに夢を抱えてやってくる若者たちの、夢の躍動を余すことなく描き、「最初の一発のカマし」としては、結構なハードパンチである。


■しかし、この曲とこの画像がリードするのは


 「ミュージカル映画の俳優志望の人々」ではないだろうか?


 この辺りから、チャゼルマナーが、ゆっくりゆっくりと始動する。開始時に一発ヤラれてフラフラになっている観客の、機能停止した判断力を尻目に。


 主人公は、「もう死んでいるも同然なジャズを蘇生させようとするジャズピアニスト」と「女優を目指す女性」の2人だ。


 この2人のパンチ力も凄まじく、『セッション』の主人公2人のパンチ力アンサンブルを遥かに超える力で世界中の恋に飢えた(以下同文)の足元をクラックラにする。ゴズリング&ストーンの魅力は、3~50年代のMGMミュージカル→6~70年代のフレンチ・ミュージカルという「ミュージカル映画史」のツインピークス(まとめ乱暴だけど、チャゼルのまとめもこんな程度である)以降に散発された「ポストモダン・ミュージカル」のどの主人公カップルより魅力的だと言えるだろう。「主人公2人の、ものすごい努力による魅力の爆発。におんぶ&抱っこ」も『セッション』との共通点である。


 しかしである。この設定、良いのか? というか、ギリギリの線を狙っているのか? あるいは雑なのか全くわからない。


■「ミュージカル映画」の主人公が「ミュージカル映画の主役を目指す俳優志望」であるのは構造矛盾だよね。だから、間違ってはいないんだけどさ


 アステアなんてとんでもない役までやっている(『気儘時代』なんて、精神分析医である)。ショービズと関係無い人が突然歌い踊るのが戦前合衆国流、軍人や商売人など、リアルな町の人々が歌い踊るのが、仏流(というか、ジャック・ドゥミ・マナー)であるが、そもそも「ミュージカル」と「モダンジャズ」というのはファンクとヒップホップみたいなもので、似たような全然違うもののような、微妙な関係だ。しかも、ジャズによるレコンキスタを渇望するライアン・ゴズリングの夢は、「昔は由緒あるジャズクラブだったが、ジャズが廃れてからインチキな観光ラテン・クラブになっている店を、ジャズクラブとして奪還すること」であり、ちんまり自分の趣味の店がやりたいだけなのか、ジャズカルチャーを本気で復権させたい革命家志望なのか、ものすごく微妙なまま話が進むので、主人公の葛藤が、葛藤として機能していない。


 この「座りの悪さ」「すっきりしない感じ」は、ジャズとミュージカルの微妙な関係なんてどうだって良いね、胸さえキュンキュンすれば。という善良な人々=90%の観客には可視化さえされない。知り合ってすぐにエマ・ストーンはライアン・ゴズリングに言う「私はジャズなんて嫌いだから」。大問題だ。どうするゴズリング。彼はジャズクラブに彼女を連れて行き、ジャズのライブを見せながら解説する。「ジャズは耳だけで聞くものじゃない。目で楽しむんだ(懐石料理かよ! 笑)。」


 このシーンで、どうやら(としか言いようがないのだが)エマ・ストーンは一発でジャズ開眼するのだが、移入できた人いますか? なんだろうかこの、チャゼル流の、ジャズに対する不感症的な、しかし奇妙な情熱は。


 そもそも、ライアン・ゴズリング嘉尚の「ピアノ本人です」で演奏される曲に、モダンジャズ(風)は一切ない。一番近いのはシャンソンかセミクラシックだが、要するに「ミュージカル・ナンバー風」である。ミュージカル風の華麗で大仰なピアニズムはモダンジャズから最も遠い、しかし、モダンジャズは演奏素材をミュージカルナンバーに求め、換骨奪胎してきた。そして、彼の部屋で最初に写るジャズメンのポートレイトはビル・エヴァンスとコルトレーンで、セリフには「モンクやハンク・ジョーンズを意識したって」とあり、しつこいようだが、そのピアノタッチはポール・モーリアやリベラーチェに近い。あんな、クラシックのコンチェルトみたいな、激しくドラマチックなジャズピアノなんてないし、あんなショパンみたいな端正で静謐なジャズピアノなんてない。


 つまり、イライラするのはジャズマニアだけだ。これも『セッション』と全く同じである。「チャーリー・パーカーのニックネームはバード!」ってよ(笑)


■このことが最も端的に顕在化するのは、「ジョン・レジェンドは悪玉なのか善玉なのか微妙なのか、全くわからないところ」である


 昔はジャズをやっていたが、今は金儲けに走り、愚かしい売れ線ファンクをやっている堕落した男なのか、主人公の心に、ジャズの現代性という難問を問いかける、気の良い賢者なのか、まあ、ダメはダメでも、店の資金となる金を稼がせてくれた恩人、なのか、そのどれでもないようにしか見えない。


 エマ・ストーンも、映画俳優志望なのか、舞台女優志望なのか、結構これがミュージカルがやりたいのか(肝心な所で歌う→アンリアルゾーンであるミュージカルシーンではなく、リアルシーンであるオーディションや、主人公の部屋の中で)、判然としない。最終的にはハリウッドスターになるが、彼女のルーツにあるのは、おばさんが女優をやっていたことなのである。一度はネヴァダの故郷まで帰った彼女の才能を発見するのはフランスであり、オーディションでは、おばさんのパリでの経験に基づいたシャンソン風を歌う。


 というかそもそも、エマ・ストーンは「芝居の才能はあるが、現代ハリウッドのオーディション・システムは金に汚れており、不遇なまま」なのか「本当に、芝居の力はイマイチ」なのかが、画でも脚本でもすっきりしない。「最後に見出されてスターになるから、だから才能はあったんだよ」と言った感じで、リアルタイムでは全く伝わってこないのである。


 あー、何から何までひとつもすっきりしねえ!!(笑)


 と、これがチャゼル流だ。画でも台詞でも芝居でも物語でも、ストーリーが転がせない。かましだけは強烈だが、イマイチ考証が雑な、最初に喰らわされるワンパンチでうっとりしてしまい、後はボケーっと見ていると、エンディングに乱暴などんでん返しがあり、結果として「すごいもん見た」と思わせるのである。ハッタリの天才。というより、ある種の現代的な解離感覚が体質化しており、現代人にフィットするのだろう。葛藤がなく、ということは解決もなく、ただ刺激があるだけである。


■もう、書いててイライラするんで(笑)、一気に結論を書くが


 本作は一種の変形ヤオイであり、うっすーいオタク仕様である。


 後者から説明する。特別ミュージカルに詳しいわけでもない筆者にですら『雨に唄えば』『巴里のアメリカ人』『バンド・ワゴン』というクラシックスから『女は女である』『シェルブールの雨傘(ネタバレになるが、エンディングはまるっきり『シェルブール』と同じ)』といったフレンチ・ミュージカルから『オール・ザット・ジャズ』『世界中がアイ・ラヴ・ユー』といった、ポストモダンからミュージカル・リスペクトの金字塔『glee/グリー』まで、有名どころから臆面もない引用がちりばめられているのがわかり、まあなんというか、間違って成功した若者の無邪気で無知な万能感に満ちているのだが、まあ、誰も指摘しないであろう、一瞬の『オール・ザット・ジャズ』ぐらいかな、気が利いてるのは。という感じで、温さがハンパねえすもの。


 「ヤオイ」に関しては難しい。ヤオイは特殊な人々の特殊なプロダクツではなく、人類全体、特に20世紀人の属性の中でも最大のものだ。


 オペラを全幕見るのがかったるい。なのでアリアだけレコードで聞く。映画全部みるのがかったるい、名シーンだけ編集する。ポルノ映画は面倒臭い。AVになる。フルコースは胃がもたれる。スープとシメだけで良い。こうした一連の、カムショット集は皆ヤオイであると言える。


 筆者の私見はこうだ。飯とポルノだけはヤオイで良い。でも、長編劇映画はダメでしょヤオイじゃ。っていうか、物語というのは、そもそも反ヤオイなのだ(「逆だろ! ヤオイが反物語だ」といわれるだろうが、今やこっちでしょ。あらゆるカルチャーの足場は)。


 さらに指摘が来る。「MGMミュージカルなんてヤオイコイコイですよね?」その通りだ。アステアとロジャースが出会うまでのシーンなんてかったるい、ダンスシーンだけを編集しよう。下手したら、映画におけるヤオイ、という視点の設定が許されるならば、それはポルノ映画とミュージカルに他ならない。


 だが、この映画は、ヤオイとして、取ってつけたようなストーリーが存在し、名人によるダンスシーンだけを見せようとする、ザッツ・エンターテインメントではない。一流の演技力を持つ名優に、唄わせ、踊らせること、この事の価値は今、ハンパじゃない。面倒だから書かないが、完全にそういう時代なのだ。そうでしょ実際。じゃないと『逃げ恥』の説明がつかない。アイドルのスキルが高値安定している限り、この傾向は続く。チャゼルマナーは、なんとミュージカルに適合しており、『セッション』は、潜在的な恐怖ミュージカルコメデイで、『ラ・ラ・ランド』はその顕在化なのである。


 しかしこの映画の、目もくらむような多幸感と恋の気分にうっとりするミュージカル・シーンは、しつこいようだが、還元すれば、良く出来たTVCMが5本ぐらい束ねられた動画コンテンツのポーションとクオリティに過ぎず、代わりに、「人間ドラマ」の部が結構がっつり入っている。恋愛映画としてもしっかり見せたいのである。


 だが、人間の心の動きが全く書けず、ショックと萌えだけで映画の時間を進めるしかないチャゼルマナーで、男女の恋の機微を描けるわけがない。勢い、ラブストーリーの部は、何が言いたいのか、なんでこうなっちゃうのか、線的な流れが全くわからない。「男に才能を見出され、成功する女」というヤオイに再還元されるだけだ。


■最後のどんでん返し、どう思いました?


 もう眠くなってきたので、まだまだ書きたいことは2万字ぐらいあるのだが、全部はしょって、ラストの大どんでん返し(チャゼルマナー)の評価に入る。


 どんでん返しと言っても、ネタのあり方が派手なだけで、物語としては、古典的というか(前述の通り、これは『シェルブールの雨傘』を見て、良いなと思った。程度にしか思えないが)「今は成功をつかみ幸せ。でも、この幸せを、本当はあの人と掴みたかった。という想い、ありませんか?」というやつで、何つうか、結局最後もヤオイなのである。


 だって、主人公2人は、共に夢を実現したのだ。大ハッピーエンドじゃないの。予想だにしなかった展開で、いきなり再会したって、良いじゃないの(SNSの存在なんかこの世にないみたいな描かれ方だけれども)。なんでこんな、シリアスな悲恋モノみたいになるかね? まあ、これ見て「わかるわあ」つってうっとりする人々が世界中にいるのである。すごい速さで書いてしまうが、アホか。


 さすがにネタバレはまずいだろうということで、最後のネタは書かないが、そもそも、この2人、いつどこで、どんな感じで別れたのか、それとも別れてないまま離れ離れになったのか、なんだか全然わからないまま話が閉じてしまう。


 こうした指摘は、元ネタである『シェルブール』にもあった。ストーリーをどう咀嚼しても、あんなオペラみたいな大げさな悲恋じゃないんじゃないの? もっと軽く幸福にできたろうに。それでも、あの作品には戦争も絡んでおり、話にそれなりの重みがあった。フレンチミュージカルは、ドラマの充実とミュージカルの夢を融合しようとして、やや無理が祟ったジャンルである。『ラ・ラ・ランド』は、更に現代的で、若手で人間ドラマが苦手なチャゼルくんが、フレンチミュージカルをこじらせたようなものを、音楽への憎悪と恐怖をどぎつく描いた『セッション』からの、返す刀の勢いで作って、今の所、それしかできないとしか思えないパンチドランキング効果で大成功したのだ。暖かく、粋で、ハッピーフィールな素材でも、どぎついのは同じなのである。そして、それを観た誰もが幸福で温かい気持ちになったのである。筆者はそんな世界が嫌いだ。一つでも賞を落とすことを祈るが、叶わぬ夢であろう。主要賞に強烈なライバルもいない。デイミアンは運も良いのだ。最後に、取ってつけたようなフォローではなく、「ミュージカルの部」の音楽は、大変に水準が高い(その代わり「ジャズの部」は例によって、考証も描かれ方も演奏も、もれなくとてつもなく酷い。別に筆者がジャズミュージシャンだから点が辛くなっているのではまったくない)。(菊地成孔)