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中西俊夫という突出した才能を失ったーー荏開津広がキャリアと功績を振り返る

2017年03月04日 14:03  リアルサウンド

リアルサウンド

PLASTICS『WELCOME BACK』(Deluxe Edition)(DVD付)

 中西俊夫は、日本での1950年代終わりのロカビリーの始まり以来、ポップ音楽の歴史において、最も重要なアーティスト/ミュージシャンの1人である。


(関連:PLASTICS、藤原ヒロシからcero、ACCへ……「東京発」先鋭的音楽の系譜を辿る


 中西俊夫は1956年1月に東京、広尾で生まれた。1970年代の半ば以降、彼はそのキャリアをイラストレーターとして始め、すぐに5人編成のバンド、PLASTICSを結成し、ミュージシャンとしても名声を獲得した。その後もMELON、日本で最初期のダンス・ミュージック・レーベル<MAJOR FORCE>の設立メンバーとして、同名のサウンド・プロダクション・チームとしても旺盛に活動していった。


 1980年にファースト・アルバム『WELCOME PLASTICS』をリリースしたPLASTICSは、誰の助けを借りることなく、日本から現れたバンドのなかで特筆すべき達成を手にしたバンドだ。彼らは“テクノポップ”の傘に入られデビュー・アルバムを10万枚売った。同年に来日したB-52’sの公演の前座をつとめたが、そのライブ・パフォーマンスをB-52’sのマネージメントに気に入られ、アメリカでのツアーを行った。初めての合衆国でのライブは3カ所だけだったが、その後、計3回、全米ツアー、そしてUKを中心としたヨーロッパ・ツアーを盛況に終わらせている。そのツアーの様子は今でもオンラインで見ることができる。


 当時、ボブ・マーリーを世界に知らしめた<アイランド・レコード>のクリス・ブラックウェルは、ポスト・ボブ・マーリーのアクトとして、黒人女性、それにアジア人のアーティストを探しており、白羽の矢をたてられたのは、グレース・ジョーンズとPLASTICSだった。1981年には、彼らはそれまで日本国内でリリースしていた2枚のアルバムから曲を選び再レコーディングし、『WELCOME BACK』としてワールド・ワイドにリリースした。こうした作品に彼が書く歌詞は英語だったが、村八分や、実験演劇シーンで結成され同じ“テクノポップ”として持て囃されたヒカシューの歌詞を高く評価することからも、中西俊夫の感受性が日本語でのロック/ポップのよき流れと結びついていたことが判る。


 今でこそミュージシャンとして活動し、自身の作品を含めビデオを制作するのは珍しくないが(stillichimiyaからGRIMESまで)、イラストレーション、デザインワークはもちろん、自分たちのビデオのシノプシスも書く中西俊夫はそうしたマルチメディアでの表現の先駆けだった。


 PLASTICSやMELON、MAJOR FORCEなどに作ったもの以外には、PLASTICSとしてデビューする前のファッション雑誌『装苑』での1977年の連載「ストリート・ニュース」、もしくはTalking Headsのシングル『Life During Wartime』、 『Cities』に立花ハジメとPLASTICS名義で提供したアートワークの素晴らしさと審美的可能性を強調しておきたい。


 前述のPLASTICSとしての3枚は、その意匠でも判るように、ニューウェーブなロックン・ロール・バンドからよりコンテンポラリーなダンスへの変化の時期を捉えていたといってもいい。その後PLASTICSのメンバーでもあった佐藤チカと結成したMELONは、サイケデリック/ラウンジなファンクからエレクトロ・ユニットへと移行し、2枚目のアルバム『Deep Cut』は<EPIC/SONY>からのUK/ヨーロッパ・リリースだった。その後、中西俊夫は、90年代を通し2002年までロンドンを拠点に活動を行った。当時の中西の仕事は多岐に渡るが、ハウィーB、工藤昌之らSkylabの2枚のアルバム、そしてE.M.Sなどを多用したアシッドな音響記録としてのプロダクション『Major Force West 93-97』が挙げられる。


 中西俊夫は、そのキャリアにおいて当初からグローバルだった。都市の中心で育った人間特有の、彼の分け隔てない、ユーモアたっぷりの人柄とは別に、音楽的にはそれは彼がその頃世界中にいたThe Velvet Undergroundの子供たちに含まれるということだ。また、そもそも音楽的記憶としてThe Venturesのようなダンスのためのギター・インストゥルメンタルから出発したが、Kraftwerkの重要性に気がつき、結成当初パンク・バンドだったPLASTICSの方向を変えたことは彼の音楽とキャリアの離陸を促した。


 スタイリストとスタイルに敏感なグラフィック・デザイナーやアート・ディレクターたちが結成したPLASTICSの成功は、彼らがどう見えたか、そのルックスの取沙汰が多い。しかし、その魅力は当然、視覚的アピールだけではなく、こうした彼らのサウンドの同時代性でも判る。また、PLASTICS期からその最後まで、中西俊夫は歌詞を自分で書いたと思われるが、ヘヴィー・ウェイトなビート作家ウィリアム・バロウズなどに強く影響を受け、カット・アップ・メソッドを取り入れていた。当時から注目され始めた、美術や文学の方法をロック/ポップに転用/応用させるアーティストたち(デヴィッド・バーン、Radiohead etc…)と中西は意識も方法も共通していた。


 彼の知性は、デビュー当時のPLASTICSの周囲にいた大人たち(彼がいたイラストレーターであるペーター佐藤のスタジオに出入りしていた人々)に注意を向け、自分たちがどう見えるのか、そのことをユーモアたっぷりに、表現として成立させたともいえる。1970年後半の原宿から活動を始めた彼は、当時のロンドンやニューヨークと東京、それぞれの一部で繋がっていたような新しいライフ・スタイルを“ポップ・ライフ”と呼んでいた。同時に、その背景に痛みを伴った“西洋化=近代化が戦後の日本だった”(註1)というはっきりとした認識があった。こうした観点から、また彼が日本に帰国してからの多くのセッション的なディスコグラフィーも含めて、彼のアートについての評価は不十分極まりない。


 2016年5月には、PLASTICSの40周年としてのライブがブルーノート東京で行われた。日本と世界でのポピュラー音楽を巡る状況の変化を考えると、中西俊夫にはこれからの旺盛な活動が期待された。私たちは突出した才能を失ってしまった。


 中西俊夫さんのご冥福をお祈りします。


註1: 著書『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力・中西俊夫自伝』(K&Bパブリッシャーズ/2013年)(荏開津広)