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『この世界の片隅に』と『マイマイ新子』に共通する“狂気”の正体ーー片渕監督の特異な手法に迫る

2017年03月04日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

 観客の口コミやSNSでの拡散によって、異例のロングランを成し遂げ、ヒットを続けている『この世界の片隅に』。この作品によって、アニメーション界のみならず、日本映画の表舞台に一気に躍り出たのが、片渕須直監督だ。まだまだ勢いが続く「片隅」旋風を受け、監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』が全国各地で再上映されるという事態まで起こっている。というのも、この作品は『この世界の片隅に』との共通点が多く、特異な演出スタイルを完成させたという意味でも、ファン必見の作品になっているからだ。「片隅」の成功は、すでにここで予告されていたといっていいかもしれない。今回は、その『マイマイ新子と千年の魔法』を中心に、片渕須直監督の作品づくりを考察しながら、その狂気を帯びた「すごさ」の秘密を明らかにしていきたい。


参考:日本のアニメーションはキャズムを越え始めた 『君の名は。』『この世界の片隅に』から考察


■片渕須直監督の「作家力」と「アレンジ力」


 片渕須直は、20歳を超えて間もない頃、TVアニメ『名探偵ホームズ』の、宮崎駿が演出する回のシナリオライターとしてアニメ製作に関わる。『青い紅玉(ルビー)』や『ドーバー海峡の大空中戦!』、『ミセス・ハドソン人質事件』など、いまだに色あせることのない名作を、すでにこの歳で手掛けているのである。驚くのは、『名探偵ホームズ』で印象的なガジェットとして登場するプテラノドン型の飛行機も、彼による発案だという事実である。これは、『シャーロック・ホームズ』原作者コナン・ドイルの著作『失われた世界』において、ロンドン上空をプテラノドンが飛び回る場面を引用したものだという。片渕須直は、「作家」としての才能と、原作者のアイディアをアレンジしながら活かしていくという手法を、キャリアのはじめから発揮しているのだ。


 『マイマイ新子と千年の魔法』は、昭和30年の、田園風景が広がる山口県防府市を舞台に、マイマイ(つむじ)が額の生え際についている、空想好きで活発な小学生・青木新子(あおき・しんこ)の日常の冒険を描く。芥川賞作家である原作者、高樹のぶ子は、自分の少女時代をモデルに、日本版『赤毛のアン』を書きたかったと述べているが、映画ではそれに加え、かつてその地にあったという「千年前の都」、そして原作小説で語られている「千年の魔法」ということばからインスピレーションを得て、千年前にそこに住んでいた、身分の高い家柄の少女、諾子(なぎこ)の生活も並行して描き、昭和30年と千年前をファンタジックにリンクさせてゆく。ここでも片渕監督は、現存する平安時代の書物や研究資料なども参考に、さらに原作者の自伝から描写を引用するなど、原作の要素をそのまま活かしながら、物語の可能性をさらに大きく広げていく。


■天才・高畑勲監督へとつながる危険な道


 新子は物知りなおじいちゃんに、「この麦畑の下には、千年前の都があった」と教えられる。この地は、たしかに平安時代に「周防の国」と呼ばれ、当時の旧跡が発掘される歴史的な土地だった。劇中では、新子が麦畑のなかで千年前の様子を空想すると、当時の建物がにょきにょきと生えてきて、むかしの町が幻想的に形成されていくシーンがある。驚かされるのは、この建物の配置が実際の発掘調査の資料から位置を割り出して描かれているという事実である。通常、ここまでの面倒くさい調査や時間のかかる画面づくりなどの作業を、アニメーション作りにおいてすることはない。しかし、どんなに技術的に優れた監督やスタッフが作るものだとしても、とくに深い考えもなく雰囲気だけで表現する世界と、しっかりと何らかの意図をもって考え抜かれ構築された世界とでは、その熱量に違いが出てくるのは明らかである。画面に映る全てを描かなければならないアニメーションにおいては、さらにそれが顕著だといえる。


 高畑勲監督のTVアニメーション作品『アルプスの少女ハイジ』を見ていて、不思議な感覚を覚えることがある。スイスに行ったこともないのに、舞台となる山や、ハイジの住む山小屋まで続く斜面を、自分も子どもの頃に辿って歩いたことがあるような気がするのである。このような偽りの記憶が作り出されるというのは、高畑監督による「生活を描ききる」という信念のもと、徹底的な時代・地域の考証、また当時スタッフだった宮崎駿の優れた画面構成などによって、そこに立体的な現実の空気感が立ち上がってくるからだ。まさに「魔法」である。


 片渕監督は、このように地味な日常の生活シーンを徹底的に深く描くことで、高畑監督の作風を受け継いでいるといっていいだろう。そのようなこだわりを持った高畑監督が先鋭化の果てに行き着いたのは、実際の製作期間だけで8年もかけたという映画『かぐや姫の物語』だった。効率や甘えを捨てて、人生の一部分をひとつの作品に捧げるという蛮勇なしには、このような作品づくりに挑むことはできない。限りある時間が確実に減っていくなかで、さらに上を目指すため時間を要する大作に足を踏み入れいく。このジレンマは片渕監督が直面していく問題だろう。


■狂気によって生み出される「千年の魔法」


 それにしても本作の主人公・新子は、彼らのような調査や研究を経ずして、なぜ軽やかに千年前の世界をそのまま想像することが可能なのだろうか。日本を代表する民俗学者、柳田国男は著作のなかで、いたずら少年だった時代の奇妙な体験を語っている。ある日、家の裏にある石の祠に近づき、大人に見つからないようにこっそり開けてみると、そこにきれいな珠が供えてあった。それを見た瞬間、不思議な気持ちに襲われ空を見上げてみると、昼間なのに、見えるはずのない数十の星ぼしをたしかに見たのだという。そのとき突然ヒヨドリの鳴き声がして、柳田少年は正気に戻った。そして、もしそのとき鳥が鳴かなかったら、そのまま気が変になっていたのかもしれないと述べている。


 文芸評論の第一人者である小林秀雄は、そのような狂気をはらんだ感受性こそが、柳田国男の民俗学研究を非凡なものにしているのだと語っている。そして小林秀雄自身も、やはり著作のなかで神秘的体験を披露している。比叡山の石垣を眺めているときに、ある鎌倉時代の書物のことばが、突然心に滲みわたるように理解できたのだという。小林はその体験をもって、「歴史を知るということは、“思い出す”ということだ。そこで自分が生きているように考えなければ本当の歴史を知ることにはならない」ということを主張している。本作の新子は、彼らと同じような、ある種の狂気や豊かな感受性を持って、「歴史を“思い出す”」ことに成功している。だからこそ新子は、千年前の少女と意識を通わせ、干渉し合えるのだろう。おそらくそれが、本作で語られる「千年の魔法」の正体である。


 だが、そのような奇跡が起こったとして、おそらくそれは人生のうちで限られた瞬間にしか訪れない出来事なのではないだろうか。誰にとっても得難い、そのような「魔法」を説得力を持って描くため、その境地に少しでも近づくため、片渕監督は実際に麦畑を歩いて思いをめぐらせ、また逆に時間をかけて綿密な調査をして、当時そこで生きていた人に話を聞くのである。常軌を逸する労力と時間をそこに投入した結果、何が起こったのか。


 平安時代と昭和30年を描いた、本作『マイマイ新子と千年の魔法』と、戦中を描いた『この世界の片隅に』に共通するのは、たぐいまれな「現実感」である。私はこの二作を観たとき、昔のことを描いているはずなのに、それが昔のことではなく、自分自身が昔にタイムスリップして「いま」のことを描いた作品を見ているのだと、たしかに錯覚してしまった。そのように感じた観客は少なくないだろう。その作品世界は、昔のものを昔のものとしてしか表現できない凡百のそれを明らかに圧倒している。たしかに「魔法」が生まれているのである。そして、作り手がそこに到達するためには、やはり狂気に身をまかせる覚悟が必要なはずである。(小野寺系)