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朝ドラの定型を崩してきた『べっぴんさん』、残り一ヶ月でどうなる?

2017年02月28日 12:03  リアルサウンド

リアルサウンド

 残り一か月となった『べっぴんさん』(NHK)。思えばこの作品には驚かされることばかりだった。


参考:宮藤官九郎、『カルテット』“絶望”の名演に絶賛の声


 はじまった当初は連続テレビ小説(以下、朝ドラ)の定型をなぞるように幼少期からスタートした。しかし、主人公の坂東すみれ(芳根京子)が女学生になると、そこから一気に戦時下に突入し、結婚・出産を済ませて二週間で戦後になってしまう。このスピード展開には、随分思い切ったなぁと、驚かされた。


 戦後、すみれは女学校時代の親友の小澤良子(百田夏菜子)と村田君枝(土村芳)、そして看護師の小野明美(谷村美月)と再会し、ベビー用品の会社・キアリスを立ち上げるのだが、彼女たち4人の人物造形と関係性も斬新だった。すみれ、良子、君枝は、お嬢様育ちで、社会を知らないままお母さんになってしまったため、おっとりとしていて、打たれ弱い。そこに看護婦として暮らしていた明美が「仕事はそんなに甘くない」とツッコミを入れるのだが、3人がおとなしいボケで、一人がツッコミというバランスの悪さにハラハラさせられた。


 朝ドラは、明るく活発なヒロインが主役になりがちで、すみれの姉を演じた・ゆり(蓮沸美沙子)の行動の方が朝ドラヒロインぽかった。対してすみれは口数も少なくおとなしくて、芯はしっかりしているのだが、外から見ていると何を考えているのかよくわからない。そんなすみれを中心とした、キアリスの面々のおぼつかない手つきと、夢見がちで浮ついた感じが危なっかしくて、序盤は見ていられなかった。


 しかし、すみれの夫・紀夫(永山絢斗)が帰ってきたあたりから面白くなってきた。シベリア抑留されていた紀夫の人間不信が朝ドラの登場人物としては規格外だったというのもあるが、紀夫が登場して以降、キアリスの女たちとタノシカの男たちの対比でドラマを見せていくという構造が明確になっていく。


 脚本家の渡辺千穂は、対立を作ることで物語を転がしていくタイプだ。人間同士の格付けバトル(マウンティング)をエンターテイメントとして描いた『ファースト・クラス』(フジテレビ系)はその最たるものだが、経理面から会社の経営について考えようとするタノシカと女学校の手芸倶楽部のノリを維持することで、クリエイティブな商品を次々と生み出していくキアリスという対比が明確になった時に、ドラマとしての『べっぴんさん』が面白いと思えるようになってきた。


 そして1月に入り昭和30年代に入ると、坂東さくら(井頭愛海)を中心とした子どもたちの話へと変わっていく。石原裕次郎の映画に出てくるようなナイトクラブの描写と、そこに憧れを抱くさくらたちの姿は、まさに戦後の青春という感じでギラギラしている。一方、今まで人形さんみたいな存在だったすみれは、いつの間にか強い母親となり、何だか共感しづらい存在になっている。


 母と娘の対立は『あさが来た』等で繰り返し描かれてきた朝ドラ後半の重要なモチーフなのだが、戦争に青春を奪われて、思春期がないまま母親になったすみれたち戦中派と、思春期の真っただ中にいる戦後派のさくらたちの対立として描かれたのが面白かった。それはすみれにとっては、奪われた青春そのものに復讐されてしまうようなものだからだ。


 大河ドラマもそうだが、長期にわたる実話を元にした歴史モノは、史実通り満遍なく描こうとするあまり、書かなくてもいい時代まで書いてしまい、物語としてのメリハリを失ってしまう。『べっぴんさん』が見事だったのは、見せるべきポイントを絞りこんで母(戦中派)と娘(戦後派)の対立を主軸に置いたことにある。


 現在、物語は大阪万博が開催された1970年となっている。さくらはキアリスの新入社員として悪戦苦闘しているが、母娘の葛藤の問題はほとんど完結しているので、おそらく、クライマックスは岩佐栄輔(松下優也)の行く末なのだろう。かつて、すみれ達といっしょに働いていた栄輔は、紀夫の帰還と共にすみれの元を離れ、若者向けブランド「エイス」を立ち上げ、時代の寵児となった。


 栄輔のモデルはメンズファッションブランド「VAN」(のちの「ヴァンヂャケット」)の創業者・石津謙介だと言われている。大手商社「KADOSHO」の古門充信(西岡徳馬)は石津と業務提携した丸紅の社長・檜山廣だが、1976年にロッキード事件で逮捕されてしまう。その影響もあって、ヴァンジャケットは倒産するのだが、この場面を本作はどう描くのか?


 かつて栄輔は、取引先の工場の経営危機に気づかなかったすみれに「やっぱりあなたは、人の心がわからん人や」(99話)と言った。これは、一見するとさくらの気持ちがわからないすみれのことを重ねて言っているように聞こえるが、あれは一種の愛の告白で、かつてすみれのことを好きだった自分自身の気持ちを遠回しに語っていたのだろう。すみれを好きだったが故に、すみれから離れなければならなかった栄輔の栄光と挫折を最後にどのように見せるのか、注目している。(成馬零一)