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DEV LARGEの人生は日本のヒップホップ史と重なるーーNIPPS × 川口潤 × 寺西崇洋が語り合う

2017年02月22日 15:33  リアルサウンド

リアルサウンド

メイン写真は左から、寺西崇洋氏、NIPPS、川口潤氏

 2015年5月に急逝したヒップホップアーティスト・DEV LARGEの半生を追ったドキュメンタリー『The Documentary DEV LARGE/D.L』のスペシャル・エディションが、3月6日(月)にShibuya WWWで開催されるイベント『TOKYO MUSIC ODYSSEY 2017 MOVIE CURATION ~特上音響上映会~』にて上映される。同作は、スペースシャワーTVでオンエアされたドキュメンタリー番組2編をダイジェスト編集したもので、上映後にはDEV LARGEと所縁のあるCQ(BUDDHA BRAND)、GOCCI(LUNCH TIME SPEAX)、GO(FLICK)、ダースレイダーによるトークショーも行われる。


参考:D.Oが語る、ラッパーの生き様とショービズの裏側


 リアルサウンド映画部では、上映に先駆けて監督を務めた川口潤氏(前編の編集監督はBLACK FILEの沼田佳人氏)と、DEV LARGEのA&Rを務めていた寺西崇洋氏、そしてBUDDHA BRANDのメンバーとして誰よりもDEV LARGEと近しかったNIPPSによる座談会を開催。ドキュメンタリー本編では描かれなかった彼の人物像について、貴重なエピソードとともに振り返ってもらった。(メイン写真は左から、寺西崇洋氏、NIPPS、川口潤氏)


■寺西「コンちゃんは本当に、誰よりもレコードを聞いていた」


川口:もともと僕は、日本のヒップホップのヒストリーを追ったドキュメンタリーを作りたいと以前から考えていて、スペースシャワーTVに相談してたんです。DEV LARGEさんが亡くなって、スペースシャワーTVからドキュメンタリー制作の話が来た時、彼のアーティスト人生はそのまま日本のヒップホップ史の歩みとも重なるので、今回はその流れも意識した作りにしました。寺西さんの話もぜひドキュメンタリーに入れたかったんですけれど、ちょうど海外に行かれていて。だから今回は、映画のアナザーストーリーのような形で、寺西さんの話も聞ければと。デミさん(NIPPS)も、思い出したことがあったらどんどんお話してください。


寺西:コンちゃん(DEV LARGE)と初めて膝を詰めて話したのは、以前勤めていたバッドニュースというレーベルで俺がA&Rをやっていた『悪名』っていう、90年代前半に現場で活躍していた色々なラッパーたちの音源を録り集めたコンピレーションアルバムを出した後、ちょうど反響が大きかった頃に、その当時はまだ仲良かったコンちゃんとKダブシャインがふたりで事務所まで乗り込んで来ちゃって『なんで俺たちがこのコンピに入ってないんだよー』って文句言ってきたんだ。


川口:最初の印象はあまり良いとはいえなそうですね(笑)。


寺西:そう(笑)。だけど、デミさんとはすぐに仲良くなれて。デミさんとはもう10年以上、A&Rとアーティストの関係が全くない、ただの友達として続いている。俺が雷のマネジメントをしていて、雷おこしとかのイベントをやっていたときに、デミさんはGAMAと仲が良くてよく来てくれたんだよね。で、デミさんを通じてクリちゃん(CQ)たちとも仲良くなって、2000年に『病める無限のブッダの世界 ~BEST OF THE BEST(金字塔)~』を出した後くらいから、コンちゃんとも密に付き合うようになった。


川口:D.Lさん(DEV LARGE)は、BUDDHA BRANDの中でも一足先に日本に帰ってきていたんですよね。


NIPPS:俺とヒデ(DEV LARGE)が先で、クリちゃんが来て、マスター(DJ MASTERKEY)は一番最後だったね。マスターは、日本に来るのをちょっとためらっていたけれど、本音を言えば俺だってちょっと抵抗があったよ。ニューヨークに10年ぐらい住んでさ、いきなり東京帰るってなったら、「え、どうしよう」ってなるじゃない。でも、そのためにラップ始めたし、日本に帰らなきゃ話にならないからさ。当時、一緒に住んでた彼女も「えー?」って感じだったんだけど、かなり決心して日本にきたよ。あと、当時はグリーンカードを持っていたんだけど、湾岸戦争で赤紙来ちゃってさ。戦争なんて行きたくないっていうのもあって、グリーンカードは切って捨ててきた。


川口:グリーンカード切り捨てたって、すごい話ですね(笑)。


寺西:デミさんは今回のドキュメンタリーでクリちゃんや矢沢さん(DJ MASTERKEY)と一緒にNYを訪れているけれど、ずいぶん久しぶりだったんじゃないの?


NIPPS:十数年ぶりだよね。グリーンカードの件もあったから、入国できないんじゃないかってヒヤヒヤしながら行ったんだけど、なんてことはなかった。もう、最高の気分だったよ。みんなは「街の様子がずいぶん変わった」って言っていたけれど、俺にとってはやっぱり懐かしの故郷で。スタッフのみんなも「良いところだね」って言ってくれて、すげえ嬉しかったな。生まれた家に行ったり、子どもの頃にみんなでイタズラした場所に行ったり(笑)。


川口:実は僕も一度、90年代初頭にNYのレコード屋でDEV LARGEさんと会っているんだけど、その時は地べたに座って、小さいレコードプレイヤーでずっと聴いていて、ものすごく衝撃を受けました。外国人だって、誰もそこまでやっていなかった。


寺西:コンちゃんは本当に、誰よりもレコードを聞いていたと思う。「人間発電所」のソースになったゴスペルは、当時500枚くらいしか刷ってないやつだって言っていて、そんなところまで把握しているんだって驚いたよ。ものすごくレコードをたくさん持っているのに、家でレコードを聴くのは小さなコロンビアのポータブルレコードプレイヤーでチェックする感じだった。ちゃんとテクニクスのSLも2台持っていたんだけど……。


NIPPS:箱から出していないまま積んであった。面倒くさがりなんだよ。コロンビアのポータブルプレイヤーで聞くのは、NYにいた頃からのあいつの習慣だよね。たぶん、あのやり方はあいつが流行らせたんじゃない? 地べたに座って、延々と聞くの。


寺西:放っておいたら半日はレコード屋にいるからね。俺、コンちゃんとレコード屋行くのすげー辛くて(笑)。


NIPPS:俺なんて、たぶん1回も付き合った事ないよ。「MUROは高くてレアなの持ってるかもしれないけど、俺は安くてレアなの持ってるから」って、MUROと張り合って自慢していたな。


■NIPPS「狂っていた頃に、まともに相手してくれたのは寺ちゃんとヒデくらい」


寺西:コンちゃんは、なんだかんだ言ってデミさんのことが大好きだったよね。言い方を変えると、心の底から尊敬していた。なのに、めちゃくちゃ当たりが強くて、レコーディングの時とかも「デミさんもう1回できるよね?」って、何十回と録らせたりしていた。


NIPPS:俺はできるくせにやらないから(笑)。あいつはそれを知っているから、グイグイ来ていたんだろうね。


寺西:「俺の知ってるデミさんはもっとすごいし、ラップももっとかっこいい」って信じていたからこそ、デミさんのルーズなところに厳しかった。ただ、あれはやっぱりお互い様で、コンちゃんの当たりの強さにデミさんが荒んでいくって感じもあったと思う。コンちゃんのリクエストとかディレクションは、本当にきつかったもんね。ただ、誰よりもラッパーとしてデミさんのことをリスペクトしていたのは確か。


川口:デミさんは、実際にコミュニケーションしていてそれを感じていましたか?


NIPPS:まあね。若い頃からあいつはいつも俺の横にいて、俺の顔を覗き込んでは「デミさん、何考えてるんですか?」って聞いてくる感じだったからさ。


寺西:ブッダブランドは、メンバーの中でコンちゃんが最年少だったのが面白いよね。コンちゃんは弟的な立ち位置で、最初はブッダブランドの裏方として、トラックを作ったりしたかったみたい。けれど、デミさんたちのラップがかっこよかったから、「俺もラップやりたい」って思ったんだって。


NIPPS:「ビッグブラザー」とか「アンクル」ってよく言われたよ。NYにいた時は、一緒にいる時間も長かったし、本当にいろんなことを話した。週に1~2回はみんなで集まって、ブッダが形になる前から、ああでもないこうでもないって。当時、向こうでラップしている日本人なんて俺たちしかいなかったし、すごく結束は強かった。だから、日本に帰ってきた頃、俺は寂しかったんだ。みんな遠くに住んじゃって、集まる場所もなくて、だんだんと密にコミュニケーションが取れなくなっていった。


寺西:チエコ・ビューティーが当時、NYにラップしている日本人がいるって教えてくれて、それがブッダだったんだよね。コンちゃんが先に日本に帰ってきて、ブッダのテープをヒップホップ関係者に配って回ったんだけど、初めて聞いたときは本当に衝撃的だった。だけど俺、当時の日本のヒップホップの状況では、ブッダの音楽性はまだ早すぎる気もしたんだ。ところが石田さん(ECD)たちが猛プッシュしたことも後押しして半年もしないうちに、「人間発電所」がいろいろなクラブでかかるようになった。あれが日本で初めてのクラブヒットだったと俺は思うよ。あの時はアナログも勢いがあったし、ヒップホップが本当に盛り上がっていた。


川口:ドキュメンタリーにも入っている、クラブチッタでの例の騒動もその頃ですよね。96年の年末で、「さんぴんキャンプ」の後の「鬼だまり」で大爆発しちゃって。箱の中がパンパンで、スピーカーの上にも人が乗っちゃうくらいの超満員だった。僕はその時、もう亡くなっちゃった映像ディレクターの末田健と2人で行っていて、ステージの様子を撮っていたんだけれど、そうしたらD.Lさんとデミさんが喧嘩し始めて。


NIPPS:いやぁ、俺もあの時は楽屋に顔出すだけのつもりだったんだけれど、みんなに「デミさんも出なきゃ」って言われて、ついステージに上がっちゃったんだよね。


寺西:俺らはブッダブランドの事情をわかっていなかったから背中を押しちゃったんだけど、実際に出たら、コンちゃんが「練習も来てねえのに、なんでお前出るんだ」みたいになっちゃって。まああれは、デミさんとコンちゃんの兄弟喧嘩だよ。


NIPPS:正直、ちょっと恥ずかしいけれど、面白いのであればどうぞ使ってください(笑)。個人的にも、今回のドキュメンタリーはすごく面白かったし、大好きなんだ。こんな事を俺が勝手にいうのもなんだけど、ブッダの中じゃ俺が1番ヒデ(DEV LARGE)に近かったからね。でも、周りには仲が悪いように映っていたと思う。実際、俺は嫌われていたのかな、本当は仲悪かったのかなって、モヤモヤしていたこともあったけれど、俺が狂っていた頃に、まともに相手してくれたのは寺ちゃん(寺西)とヒデくらいだった。狂っていても、そこが良いんだよって言ってくれた。


川口:一緒にNYに行っていろんな話を聞いて、本当に深い関係性なんだなって、改めて思いました。


NIPPS:なんで俺がこうなっちゃったかっていうと、ヒデが全部やってくれるから。俺は、それに着いていけばいいだけだった。ヒデがなにかやりたいって言ったら、俺はやったれやったれ!って感じだし、逆に「それはやめておいた方が良いよ」ってことは絶対になかった。あいつができない部分は、俺がやればいいって思っていたし、仲間意識は強かった。結局のところ、ヒップホップなんて自己満足で、自分に勝てるかどうかっていう世界だからさ。NYにいた頃、ヒデはいち早く日本に行ってシーンを研究して、「雷は本当にすごいよ!」ってビデオを見せてきたんだけど、俺は「人のことに感心している場合じゃないだろ、俺たちだってできるんだよ」って、ヒデのことを煽っていたね。向こうにいた頃は、俺も熱かったんだ(笑)。


寺西:俺は、デミさんとコンちゃんがむちゃくちゃ仲の良い時代を見ていて、俺から言わせると2人ともアメリカ人なんだよ。すぐ「ピザ食いに行こうか」とか言って、またすげえ食うんだ、2人とも。俺はそんなに食えないのに、もっと食えって言われてさ。原宿のシェーキーズの階段で、2人がものすごく下品な会話していたのを未だに覚えているよ(笑)。あの頃、デミさんとコンちゃんは兄弟以上の仲だったと思う。コンちゃんの訃報を聞いた時、ちょうど原宿でデミさんとクリさん(CQ)とK-BOMB、それからバイケンと飲んでいて、まさにコンちゃんの話で盛り上がっていたんだ。コンちゃんのことを違う角度からよく知っているメンバーで、いろんな話をしていたら、デミさんの携帯に電話がかかってきて、「金沢でDJ中に倒れた」って。すごく運命めいたものを感じるよ。


■寺西「コンちゃんのハードディスクには未発表の曲が山ほどあった」


川口:寺西さんはD.Lさんの最後のラップアルバム『THE ALBUM(ADMONITIONS)』(06年)にも携わっていますね。


寺西:最初はひとりで全部創るって言っていたのに、途中からK-BOMBを入れたり、デミさんを入れたりして、ものすごく時間がかかったよ。「デミさんもクリちゃんもラップのアルバムを出しているのに、俺はまだ出していない」って、奮起して作ることになったんだけど、結局4年くらいかかって完成した。誰にも言っていなかったけれど、その時から既に体調も優れなかった。コンちゃんには「寺ピーには、日本のラッセル・シモンズ(デフ・ジャム・レコーディング創設者)みたいになってほしいんだ」って、ずっと言われていて、インストアルバムの『KUROFUNE9000 [BLACK SPACESHIP]』(05年)を出す前から相談を受けていた。でも、ソロのプロジェクトとは別に、ブッダはブッダでずっとやりたがっていたね。コンちゃんのハードディスクには未発表の曲が山ほどあって、ブッダブランドのためだけに温めていたトラックもあった。自分のソロでも使っていない、とっておきのトラック。


川口:ドキュメンタリーの中でも語られていますが、リバイアスミュージックの竹内方和さんが携わった『KUROFUNE9000 [BLACK SPACESHIP]』も、D.Lさんにとって思い入れのある作品だったみたいで。


寺西:あれはきっと、コンちゃんにとってのストレス発散でもあったと思う。インストアルバムなら、基本的には自分の中で解決できるからね。大変だったのは竹内くんだよ。10円ハゲができるくらい苦労したって言うけれど、コンちゃんと一緒に何かをやるっていうのは、そういうことだから。だけど、あのアルバムが形になって、竹内くんにとっても本当に良かったんじゃないかな。竹内くんがサンプル版を手渡した時に、コンちゃんは泣いたって言っていたけれど、彼にとってはセールスよりも何よりも、ちゃんと自分の作品ができたということに感動したんだと思う。完成しないで終わることも多かったから。


NIPPS:実はNYにいた時、すでにあいつがトラックを作るスピードは、俺たちがリリックを書くスピードより早くなっていたんだよ。俺はインストのヒップホップも大好きで、当時からヒデに「ヒットしなくても、インストが好きでレコードを買う人もいるんだよ」って話をしていた。だから、寝かせておくより、早く出しちゃった方がいいって。A面はラジオフレンドリーな曲にして、B面はコアなインスト曲も入れたり、いろんな出し方はあるからさ。


川口:でも結局、その後にみんなで作った曲は、ILLMATIC BUDDHA MC’S名義で作ったスチャダラパーとのスプリットシングル『TOP OF TOKYO/TT2 オワリのうた』だけでしたね。アニメ『TOKYO TRIBE2』の主題歌になった。


寺西:あれが3人でやった作品としては最後だね。コンちゃんの中では、ILLMATIC BUDDHA MC’sはブッタブランドと住み分けされていた。
でも事実上、あの曲がブッタの最後の曲になってしまった。井上三太さん自身に『TOKYO TRIBE2』の主題歌をオファーされて、でもデミさん以外はあまり詳しく読んだことがなかったようで……。


NIPPS:俺は当時、遊んでいた女の家に『TOKYO TRIBE2』があって、パラパラ読んでいたんだよ。


寺西:それでもコンちゃんは久々に3人でやれることにノリノリで、井上三太さんのことを「先生!」って呼んでいた。最初はすごくダークな曲でやるって言っていたんだけれど、俺が「ちょっとコア過ぎるんじゃない」って話をして、急遽トラックをキャッチーなやつに差し替えることになった。


NIPPS:俺も「漫画の主題歌なんだからいいんだよ」って、後押ししてね。


川口:「TOP OF TOKYO」は、実は別バージョンもあったんですね。デミさんがラップしている音源で、世に出回っていないものはあるんですか?


NIPPS:結構、あると思う。どこで録ったのか、この前、すごく珍しい音源を聴いてさ。ブッダブランドのメンバーで延々とラップしているのがあったんだ。「俺たち、こんなにラップできたんだ!」って、自分でも驚くようなやつで、アリオケのトラックでCD2枚分くらいあった。たぶん、日本に帰ってきて合宿に行った時に録ったんだと思う。


寺西:レコーディングで合宿に行くなんて、もうずいぶん昔の話だよね。合宿は、制作から逃げちゃうようなやつを缶詰にするために、音楽業界ではよくやっていた。


NIPPS:ところが俺たちは、3日間の合宿の2日目で逃げ出して。女を追い求めて東京に飛んで帰っちゃったんだ。で、その時に知り合った女の家に、『TOKYO TRIBE2』があったというわけ(笑)。


■川口「D.Lさんの葛藤も、彼の本質がサンプリング・アーティストだったことにある」


川口:D.Lさんのアーティストとしてのスタンスは、やはり特異なものがありましたか?


寺西:コンちゃんは頑固だけれど本当にプロのアーティストで、なのに裏方までやろうとする人だった。彼がエルドラド・レコードを設立したばかりの頃、音楽出版のノウハウを自分のカミさんに教えてやってほしいってお願いされたよ。俺はえん突つレコーディングをやっていたから、もちろん流通から音楽出版から何から何までヒップホップのインディレーベルとしてのやり方を知っていたからね。で、コンちゃんはすごくアイデアマンだから、当時としては珍しく、音源に合わせてビデオを撮ってみようとか、どうやってメジャーに売り込むかとか、新しい取り組みにも意欲的だった。驚いたのは、カッティング・エッジでやっていたときに、コンちゃんが一生懸命、日本の歌謡曲の歌詞を書き出していたこと。売れている曲の言葉の中にヒントがあるって、熱心に研究していた。ドキュメンタリーの中にもあったけれど、本気でメインストリームで勝負するつもりでいた。


NIPPS:そういえば、NYに住んでいた頃にヒデの家に泊まったことがあるんだけれど、そのときも日本の歌謡曲を聴いていた。インスパイアされるものがあるんだって。


寺西:だから当時、V6の森田剛さんの「DO YO THANG」(98年)を手がけたんだろうね。当時、雷とかはポップスの正反対を行っていたけれど、コンちゃんはなんとかブレイクスルーしようとしていた。コンちゃんはリノのお店で、突然「DO YO THANG」をかけたんだけど、誰もそのとき、「なんでポップスの仕事なんかしてんの?」なんて言わなかった。だって、森田剛さんのラップが、DEV LARGEそのものだったから。ジャニーズの人たちも器用ですごいけれど、アイドルに自分の色を乗せて世に出しちゃうのもすごい発想だよね。


NIPPS:俺も最近になって、ようやく和物にインスパイアされるようになってきたよ。ちゃんと歌詞を読むと、「ぶっ飛んだリリックだな」って思うことがたくさんある。フロウやデリバリーを学ぶにはラップを聞くのが一番だけど、リリックやコンテンツを研究するには、日本の歌謡曲はすごく勉強になるよ。あいつはそういうこと、気付いていたんだろうね。


寺西:俺はたまたま日本の歌謡曲の研究をしているところを見たけれど、きっとほかにもたくさん研究していたはず。彼はいつも誰もしていないことにチャレンジして、結果を出していた。


NIPPS:あいつさ、実は本来ならアーティストに向かない人間なんだよね。でも、ものすごく努力して、誰よりもアーティストらしい存在、DEV LARGEに辿り着いたんだと思う。中には普通にできる人もいるけれど、あいつはみんなの意見を真剣に聞いて、それを自分のスタイルにちゃんと反映させていた。見事に全部こなしていた。誰にも負けたくないって気持ちが強くて、それがエネルギー源になっていた。


川口:だけど、後年は「俺が今までやってきたことは全部無駄だった」って、すごく落ち込んでいる時期もありましたね。


寺西:たぶんね、『THE ALBUM (ADMONITIONS)』を出したときに、昔ほどの大きな反響がなかったのが原因のひとつだと思う。アルバムを出したとき、普通のプロモーションではダメだって、イエローを借りてリスニング会を開いたんだ。で、『WOOFIN’』の荒野さんに司会進行をしてもらって、厳選したメディアの人たちの前で全曲解説をした。アメリカでJAY-Zとかがやっているプロモーションを、いち早く取り入れたんだよ。だけど、ブッダブランドの時ほどの反響はなくて、セールスもそれほどではなかった。「もう俺が中心の世界ではないな」ってすごく感じたんだと思う。


川口:シングルヴァージョンの「MUSIC」は、サンプリングではなく弾き直しで作っていて、ああいうスタイルも一つのやり方だとは思いますが、やっぱり本人的にはサンプリングに強いこだわりがあった?


寺西:やっぱりコンちゃんは、原曲のまんま使いたいんだよ。アルバムのテーマは「バック・トゥ・ザ・ヒップホップ」で、サンプリング黄金期のヒップホップを取り戻したいって気持ちが込められていた。アメリカみたいに全部を打ち込み直して弾き直して、それをループさせるってやり方は、彼の美意識に合わなかった。むしろ、トラックをループさせないで流して、そのままラップを乗っけるくらいのことがしたかったと思う。ゴーストフェイス・キラーが「La La Means I Love You」で、そのまま歌の上にラップしてるでしょ? あれこそヒップホップだって、コンちゃんは言っていた。こんなことを許されるのは、ヒップホップだけだよって。だけど時代が変わって、いまやクリアランスだけで莫大な額がかかるから、もうサンプリングは現実的な手法ではなくなってしまった。


川口:このドキュメンタリー自体も、クリアランスのところは結構苦労してます。D.Lさんの葛藤も、彼の本質がサンプリング・アーティストだったことにあるんでしょうね。彼の歩みは、そのままサンプリング・アートのメジャーフィールドでの壁とつながっていました。もしかしたら、いまヒップホップを聴いている若い子たちにとって、サンプリングはあまり馴染みがないものかもしれない。けれど、サンプリングという手法には、過去の音楽に対するリスペクトや、音楽を掘り続ける探究心が込められていて、きっとD.Lさんはその楽しさこそ伝えたかったんじゃないかなって、僕は思うんですよ。最後の方は、良い音楽を自分の好みの音質でかけたいって、自分でアナログ盤を作るくらいになっていった。


寺西:作品として世に出なくても、自分が作って納得いくものがアナログにできれば良いって考え方で、ほとんど職人だったよね。突き詰めていくと、DJとしてそういう作家性を出せれば良いというスタンスに変わっていったのかもしれない。


NIPPS:音楽に対する探究心は本当に凄かった。


寺西:コンちゃんは若い奴からテープをもらったりしたときも熱心にちゃんと聴いて、どんなに無名の奴でも、彼の直感でかっこいいと思った奴は、周りに熱心に勧めていた。そういうところがあったからこそ、本当に誰からも尊敬されたし、愛されていたんじゃないかな。(松田広宣)