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『劇場版 ソードアート・オンライン』はなぜ、現実と虚構を等価に描いた?

2017年02月22日 11:13  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス刊/SAO MOVIE Project

■現代において現実と虚構は対立しているか


 SFやファンタジー作品ではよくある主題だ。昨年の大ヒット作『シン・ゴジラ』のキャッチコピーも「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」だった。現実に即したリアリティを追求して描かれた日本の行政官僚の集団が、ゴジラという虚構の存在を相手にどう振る舞うかをエキサイティングに描いた作品だった。


参考:“異世界転生”アニメはなぜ増えた? 『ソードアート・オンライン』以降のWeb小説ブーム


 ところで『シン・ゴジラ』のコピーには、現実と虚構が対立関係を示す「対」とある。なぜ両者は対立関係にあるのだろうか。


 『シン・ゴジラ』だけでなく、「虚構と現実」を題材にした作品の多くは現実と虚構が対比関係にあるものが多い。庵野秀明監督の作品は『エヴァンゲリオン』の頃から虚構と現実をキーワードにしてきたし、『マトリックス』ではコンピュータによって作られた仮想世界に生かされている者たちが、その支配を打破して現実の世界で生きることを取り戻す物語だった。押井守監督も『ビューティフル・ドリーマー』の時代から虚構と現実の関わり方を描いてきた。ときには夢や虚構の世界のほうが良き世界だと描かれ、ときには現実に立ち戻れとも描かれる。


 映画に限らずウィリアム・ギブスンやJ・G・バラードの小説でも見られるような対立構造だが、現代を生きる我々はすでに虚構と現実を行ったり来たりしながら生きている。インターネットはあまりにも身近になったし、ゲームも手元のスマホで無料でプレイできる。家庭用ゲームの映像の質はどんどん高まり、没入感がどんどん向上している。VRは360度の視界を虚構世界で覆い尽くせるようになった。


 すでに現代に生きる我々は、虚構の世界があることが当たり前の時代に生きている。そこに現実対虚構という対立構図を見出しているだろうか。インターネットも初期の頃のような開放感はなくなってきて、現実同様のしがらみも増えてきた。もはや現実と虚構に差異はあまりないのではないかという気がする。技術の発展で虚構のリアリティが高まれば高まるほど現実に近づいてきた。そんな感覚だろうか。


 『ソードアート・オンライン』(以下、『SAO』)という作品全体に通底する感覚はこれに近いと筆者は考えている。『SAO』の世界の登場人物たちは現実とゲームの世界にあまり差異を感じていないように見える。キリトやアスナはどちらの世界でも同じ仲間と集まり談笑し、二人は現実でも仮想世界でも同じように恋人同士だ。


■死の概念で仮想を現実化した『SAO』


 『SAO』のそうした感覚を可能にしたのは、ゲームで死ぬと現実でも死ぬという設定にある。五感全ての感覚を仮想世界に送り込むフルダイブシステム搭載のヘッドセット、ナーヴギアの開発者、茅場晶彦によって導入されたこの設定よって、ゲーム内の仮想世界の参加者たちは必死に自らの生き方を選択することになる。ある者は希望を捨てずにゲームのクリアを目指すし、ある者は誰かがデスゲームから開放してくれることを願って淡々と日常を生きることを選ぶ。次第にそれぞれのプレイヤーは役割を見出し、社会が出来上がっていく。そこには格差もあれば、妬みも犯罪も人間関係のしがらみもある。つまり、まるで現実世界のようになる。


 『SAO』の主人公、キリトは第一話で仮想世界についてこのようなセリフをしゃべっている。


「この世界は・・・・・・こいつ一本で何処までもいけるんだ。・・・・・・仮想空間なのにさ、現実世界よりも・・・・・・生きてる、って感じがする」


 『SAO』に参加したての頃はキリトは現実世界よりも仮想世界に生きがいを見出していたことを示唆するセリフだ。だが、この頃はまだこの虚構世界からの離脱も可能だと思われていたし、ゲームの死が実際の死に直結するとも考えられていなかった。そうした感覚は死の導入とログアウト不能の制約によって崩されていく。虚構と現実どちらが良いかではなく、この「今目の前にある世界」を現実として必死に生きねばならなくなったのだ。


 アインクラッド編における、死の概念の導入は仮想世界を現実とイコールにしてしまうツールだった。そこにはもはや現実か虚構か、といった対立概念はなく、目の前にあるものこそ現実になる。TVアニメ版『SAO』の1期は、プレイヤーたちを閉じ込めた支配者との対決がクライマックスとなり、そこからの解放を目指す物語だった。


 TVアニメ版2期では、支配者から解放されて現実を生きるキリトたちが、適度な感覚でもって、仮想世界と付き合う様が描かれてもいる。1期と2期の最大の違いは、システム管理者との戦いではなく、仮想世界と現実、2つの世界での生き方を模索する方向にシフトしている。ガンゲイル・オンライン編のヒロイン、シノンはトラウマを抱えて現実を上手くいきられなかったが、キリトとの出会い事件を解決していくなかでそれを克服していく。マザーズ・ロザリオ編では、末期の病に侵されたユウキという少女が、仮想世界でなら活き活きと生きられるという可能性を示した。


 キリトたちはというと、現実と虚構世界、両方の世界で同じように仲間と集まり、楽しく毎日を過ごしている。彼らのとって仮想世界は現実からの逃げ場ではもはやなくなっており、現実との差異はほとんどないような振る舞いを見せる。だからこそ、仮想世界で生まれたAIのユイを娘と認識して愛しているし、一個の命として受け入れもする。


■現実を仮想化するAR


 今回の劇場版は、今までに登場したVRタイプのフルダイブのゲームではなく、現実の街をARデバイス「オーグマー」によって仮想化する試みだ。ポケモンGOのように街の一部にモンスターがちょろっと映る程度のものではなく、目に装着するデバイスを通して景色全体を仮想のものに塗り替える。現実世界も仮想世界もその違いは、視覚認識のちょっとした差異にすぎないという思いを強く抱かせる。


 VR内のゲーム世界を死の概念によって現実化したアインクラッド編に対して、劇場版は視覚的に現実世界を仮想世界に置き換える。現実を仮想化するという点で、フルダイブのVRとは反対方向からのアプローチだが、行き着く感覚は良く似ており、実に『SAO』らしい世界観だ。


 マザーズ・ロザリオ編でフルダイブVRの医療利用への可能性をにじませていた本作だが、劇場版でもフィットネスなどARのゲーム以外への利用の可能性も示唆する一方で、現実認識を歪ませる危険性を指摘するなど、今後現代社会でも議論されることになるであろうポイントも提起しており、現在の技術の進化の先になにがあるのかを考えさせるような内容も含まれていて興味深い。


 さらに本作は、AIで生成された知能は人間と呼びうるかという問いかけも観客に与える。キリトとアスナにはAIの娘がいて、本当の親子のように振る舞っているが、そうした人間関係レベルにおいて、仮想化された現実の中で、AIの存在に人間と等しい価値が置かれている。ネタバレになるので詳述しないが、AIの娘というのは本作のストーリーの重要な核ともなっている。今後、現実世界でもAIやロボットの権利や義務の議論も含めてどのように扱うべきなのかは、たくさん論じられることになるのだろう。先日、ビル・ゲイツがロボットに課税をするべきと語ったというニュースがあったが、課税の義務を課すなら権利も付与すべきという議論も当然出てくるのだろう。


 過去に登場した登場人物たちも多数登場し、なおかつARという新しい要素も巧みに取り入れてながら、『SAO』の世界観をきっちりと構築している。ファンなら間違いなく楽しめる作品になっているだけでなく、仮想と現実が入り乱れて等価となった現代をどう生きるべきかのヒントも与えてくれる、見事な映画化だ。(杉本穂高)