かつて映画館や飛行機の中でたばこが吸えたように、時が経つにつれて昔は当たり前だったことが、しばしば非常識なことになってしまう。
それは、喫煙に代表される公共マナーもそうだが、ノウハウや知識にも同じことがいえる。
料理やエクササイズ、あるいは勉強法など、私たちの身近にある物事についても、昔よしとされていたことが今はタブーになっていることはあるだろうし、その逆もしかり。
ただ、疑問に感じるのは、「価値ある情報」や「よりよいノウハウ」は今に受け継がれ、「価値を失った情報やノウハウ」は正しく淘汰されているのか、時間が経つ過程で本物の知がなにかのまちがいで埋もれてしまったりはしていないのか、ということだ。
「虻蜂コラム」はこんな観点から、さまざまなテーマについて「昔の本に書かれていること」を検証する連載である。第一回となる今回のテーマは「読書」だ。
■半世紀前に唱えられた「本を読まない読書術」とは
「アウトプット」「インプット」という言葉が定着し、「質の高いアウトプットのためには多量のインプットを」というのが定説になっている今、私たちの読書には常に「たくさん読まなければ!」という強迫観念に似た思いが付きまとう。
これに対し、1962年に刊行された『頭の回転をよくする読書術』(加藤周一著、光文社刊)という本で提唱されているのは、“本を読まない「読書術」”なるユニークな読書術だ。
この読書術で前提になっているのは
「多読家・乱読家にコンプレックスを持つ必要はない」ということ。やたらめったら本に手を出すのではなく、自分が本を読む目的をはっきりさせることが大切だと説いている。
それさえはっきりしていれば、「自分にとって不要な本、不要な読書」がわかるというわけだ。
「多く読んでいるから偉いわけではない」と頭ではわかっていても、実際多読家には畏怖の感情を持ちやすい。そして、読書量を見せつけて威嚇してくる「読書自慢」は確かに存在するのである。
相手に気おくれしないためにも、この提言は覚えておいて損はないものだろう。
本書が刊行されたのは今から55年前だが、当時から「多読・乱読か、それとも少数精読か」という議論は存在していたようだ。次ページからは半世紀前に提唱されていたこの読書術についてくわしく紹介する。
■読んでいない本の中身を知る裏ワザ
先述の“本を読まない「読書術」”という言葉をよくよく噛みしめてみると、いくつかの意味を含んでいることに気づくのではないか。
先述の「読書の目的をはっきりさせ、本当に読むべき本を見極める術」という意味にもとれるし、「読まず本の中身を知る方法」という意味にも受け取れる。どちらも含めて“本を読まない「読書術」”なのだ。
実際、本の内容というのは、読んだ人と会話することでかなりの部分が得られる。
「〇〇の本がおもしろかった」という人については、そのまま先を促せば本の内容について詳しく話してくれるだろう。そして「〇〇の本はつまらなかった」と語る人はより饒舌だ。
「つまらなかった」という人に対して、「でも私(僕)は興味があるな」と言えば、相手は「つまらなかった理由」をさらに詳しく説明せざるを得なくなる。その説明について相槌、相の手を入れていけば、どんどん本の内容に深入りしていくだろう。
本書によると、ポイントは、
「そうとばかりも言えないと思うけど」「それはどうかしら」と、漠然としつつやや懐疑的な相の手を入れること。
こう言うと、相手は言葉が足りなかったか、論拠が乏しかったか、いずれにしても、自分の説明が不足していると感じるのだという。そして、さらに詳しく、本の話をしてくれるというわけだ。
「会話から読んでいない本の内容を引き出す」ということで、何となく納得させられた気になるが、しかしツッコミを入れずにもいられない。
これは「読書術」ではなく「会話術」ではないか。◇
そして、“本を読まない「読書術」”にはもう一つ「読んでいないのに読んだふりをする技術」という意味合いがあることも付け加えておきたい。
知ったかぶりは悪とされているが、本書では「“読んだふり”は大切なこと」として肯定する。
考えてみれば、読んでいない本について読んだかのように語るというのは、なかなかに知的な営みではないか。
本書は、わかりもしない本をわかったかのように語ることを「スノビズム」(俗物根性)、正直に読んでいないと認めることを「ドーセバカイズム」(どうせバカですよ、の意)としたうえで、文化活動において好ましいのは「スノビズム」だとしている。
文化的生活には「知的背伸び」が不可欠、ということか。
とかく正直さが求められる今の世の中。「知」についてのこのあたりの考え方にも、時代の差は表れるようである。
(新刊JP編集部・山田洋介)