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伊藤計劃原作『虐殺器官』が2017年に公開された意義ーー現代社会との繋がりを考察

2017年02月13日 13:53  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)Project Itoh / GENOCIDAL ORGAN

 昨年のアメリカ大統領選で、大方の「メディア」の予想を覆してトランプが勝利した。この勝利にはSNSを中心にしてトランプに好意的なフェイクニュースが、真偽を確かめられることなく多く流通したことも要因の1つと言われている。マケドニアの青年たちが金稼ぎのためにいくつものフェイクニュースサイトを立ち上げていたことも報道されている。


参考:日本のアニメーションはキャズムを越え始めた 『君の名は。』『この世界の片隅に』から考察


 フェイクニュースの広がりは確かに問題だが、それらの情報を欲した人々が大勢いるから影響力が出たのだ。SNSにはかねてより、人々の島宇宙化を助長する問題があるとされてきた。自分の好きでない情報には触れる機会が少なくなり、世相とはずれた情報環境に身を置くようになる。「自分のTLは世間のTLではない」というやつだ。


 フェイクニュースを信じた人も、ヒラリーの勝利を信じて疑わなかった人々もまた同様に島宇宙化していた。だからこそ今回の大統領選の結果には驚きとショックを隠せない人がいた。その意味では、自分の好む情報しか触れようとしない姿勢は、両陣営とも五十歩百歩だったと言える。フェイクニュースはトランプ支持者にとって心地よいものであり、トランプ否定派には、トランプの失言や彼への反対デモなどを扱ったニュースが心地よかった。お互い心地よい情報の海に浸かっていたにすぎない。


 事実だろうが、フェイクだろうが、「人は見たいものしか見ない」これが2017年だ。個人もそうだし、メディアもそうだ。


 インターネットが普及した頃から、人々がそうやってタコツボ化していくだろうという懸念は様々なところで言われていた。そしてそのことを10年前に小説に書いたのが伊藤計劃だった。彼の最高傑作『虐殺器官』が2017年に映画化された。原作刊行から10年を経て映画化されたわけだが、SF作品にも関わらず内容が圧倒的にタイムリーで、SFというよりリアルな軍事サスペンスのように感じさせる。


■「人は見たいものしか見ない」


 本作はアメリカ情報軍・特殊検索群の大尉クラヴィスが、世界各地の紛争地帯での逆説を扇動しているとされるアメリカ人ジョン・ポールを追う物語だ。言語学者であるジョン・ポールは、人間には虐殺を司る器官が存在し、それは一定の文法によって活性化させることができると主張する。彼は実際に虐殺の文法を使い、世界各地で虐殺を引き起こしている。これを重く見た米国政府が、主人公クラヴィスに暗殺の司令を出す。一方、世界各地で紛争が絶えない中、内輪の虐殺に忙しくなったからか、アメリカ国内でのテロ発生はほとんどなくなっている。


 かつて黒沢清監督が『CURE』で言葉によって人を動機不明な殺人に駆り立てる男を描いたことがあったが、本作は虐殺は人間の脳の器官による作用であるとし、特定の文法でそれを呼び覚ますことができるとしている。『CURE』では間宮という男だけが持つ超常的な能力のように描かれたが、本作はSFなので、科学的な文法であり、それはだれでも扱えるものとしている。


 洗脳やマインドコントロールにも、ある種の話法としての手順が存在するとも言われるが、言語機能の観点からも虐殺を言葉で操ることができるというのも非常に興味深い設定ではある。だが、本作の肝はその器官の存在よりもジョン・ポールの行動動機にある。


 ジョン・ポールは、「人は見たいものしか見ない」と言う。2001年の9.11以来、先進国はテロの脅威に怯えることになった。こうしたテロは先進各国の理不尽な政策への積年の恨みから来ているものだが、そうした不満分子が世界にあるということを、先進国は初めて目の当たりにさせられた。多くの人はそんなにも恨まれていることに気づいていなかったのではないか。なぜなら、「人は見たいものしか見ない」から。


■ひとつ間違えればジョン・ポールは英雄だったかもしれない


 テロという暴力行為によって、人は見たくなかったものを強制的に見せられた。その結果、社会は不安が蔓延し、プライバシーの自由を譲り渡す形でセキュリティの強化を受け入れることになった。しかし、現実の世の中でも作品世界でもそうだが、そんなことでテロを減らすことはできない。


 本作の世界で米国内のテロを減らしたのは、ジョン・ポールの虐殺の煽動である。米国に不満を持つ人々がいそうなところにいって内輪で殺し合わせることで、テロが防がれているのだ。


 ジョン・ポールは世界を「スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけ暮らす世界」と「憎み殺し合う世界」とに明確に切り分けている。彼は自分が生まれた、愛する人と出会った前者の世界を愛している。だからそれを守ろうとしている。人は見たくないものを見せられれば、不安におののき、恐怖する。幸せになるには臭いモノにフタをしてしまう方が良い。特殊部隊で暗殺に従事するクラヴィスの相棒ウィリアムスすら、自分の愛する物には世界の理不尽に触れてほしくないと思っている。


 現実に生きる我々はどうだろうか。国際紛争に深い関心を寄せる人も少なくはないだろう、例えばシリアの内戦の悲惨さに心を痛める人もいるだろう。しかし、本当にそうした世界にコミットすることができているだろうか。筆者もニュースはよく見る。だが、それは単にそういう情報を「資本主義の商品」として享受しているにすぎないのではないか。それこそ、クラヴィスとウィリアムスがアメフトを見るのと同じ感覚で。(このシーンは原作ではまさに娯楽商品として提供された戦争映画『プライベート・ライアン』を2人で見ているシーンだった)


 ジョン・ポールのやり方は異常かもしれない。しかし、少なくとも彼は直接、人が見たくないものを見てしまうような位置でコミットしている。結果として作品内での米国内でのテロは減少している。ジョン・ポールは自分の愛する世界を守っている。つまり我々を守ってくれている。


 ドナルド・トランプは中東7カ国の人間の米国入国を制限する大統領令に署名した。差別的であろうが、非人道的であろうが、それで米国内の安全、原作の言葉を借りていうならば「ドミノ・ピザが不変性を獲得している」社会が平和であるなら構わない。それはジョン・ポールの平和への思いとよく似ている。それはおそらくトランプだけが思っていることではない。かなり多くの人が本音ではどこかでそう思っているかもしれない。宮台真司は「ヒトは『仲間を殺すな』『仲間のために人を殺せ』を2大原則として来た」と言うが、ジョン・ポールやトランプはわかりやすくそれに忠実であると言える。そしてそれはトランプに批判的な人たちですら同様だ。ただ仲間の範囲が異なるにすぎず、お互いに見たいものに囲まれて心地良い世界に生きていたいと思っているに過ぎないのではないか。


 「一人殺せば殺人者だが、百人殺せば英雄だ」とチャップリンは言ったが、米国内に平和をもたらしたジョン・ポールはこの理屈で言えば英雄だ。事実、米国内の治安を良くする結果をもたらした。それでも彼を英雄になるような結末にしなかったのは、作家の良心が働いたからだろうか、2007年時点ではそれはリアリティのない帰結だと感じたためだろうか。2007年といえばオバマが選挙戦を戦っていた年だが、トランプ大統領が誕生した2017年に伊藤計劃が生きていたら、どう感じたのだろうか。


 制作会社の倒産によって公開が遅延するというアクシデントによって図らずも2017年公開となった本作だが、むしろ映画の内容を身につまされる絶好の時期の公開になった。2017年の空気の中、体感しておくべき映画だ。(杉本穂高)