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細野晴臣が語る、音楽の歴史をつなぐこと「本当におもしろいものは届いてくる」

2017年02月10日 19:03  リアルサウンド

リアルサウンド

細野晴臣

 細野晴臣が2016年5月7日~8日に横浜中華街の同發新館で開催したライブイベント『細野晴臣 A Night in Chinatown』。その模様を収めたライブ映像作品(DVD/Blu-ray)『A Night in Chinatown』がリリースされた。細野が同發新館でライブを行ったのは、1976年の同日、アルバム『泰安洋行』(1976年7月リリース)のプロモーションとして開催されたコンベンションライブ以来、ちょうど40年ぶり。5月8日の公演で披露された全21曲を収録した本作『A Night in Chinatown』は、40年前のトロピカル3部作(『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』)の時期と現在の細野晴臣をつなぐ、きわめて貴重な映像作品と言えるだろう。


 今回のインタビューでは『A Night in Chinatown』を軸にしながら、1940年代前後のアメリカ音楽に対する思い、星野源、高田漣などのミュージシャンとの関わり、現在の音楽観、今年リリース予定の新作のビジョンなどについて幅広く語ってもらった。(森朋之)


・「歌うのは昔より好きになってる」


ーー昨年12月、2016年5月に横浜中華街で行われた『細野晴臣 A Night in Chinatown』の模様を収めたライブ映像作品がリリースされました。このライブが開催されたきっかけは何だったでしょう?


細野晴臣(以下、細野):どうだったかな? 「40年前と同じ日に同發新館でライブをやるのはどうだろう?」という話が出て、僕も「それはおもしろいね」って思ったんでしょうね。


ーー40年ぶりの中華街でのライブ、いかがでした?


細野:40年前のライブは記憶が曖昧なんですが、中華街はあまり変わってないですよね。同發新館もまったく変わってなかったし。あの活気が何十年も続いているわけで、活き活きとした場所だなって思いますね。40年前も「北京ダック」を歌ったんですよ。あの曲は“中華街が火事”というシチュエーションなんだけど、誰からもクレームをつけられなくて。おおらかな街ですよね。


ーー『A Night in Chinatown』の1曲目も「北京ダック」ですね。


細野:そうですね。40年前の曲も、いまだにやってますから。つながってるわけですよ、自分のなかでは。もちろん大きく変わったところもあるけどね。いちばん自分で感じるのは年を取ったということですけど、40年経ってるんだから、しょうがないかなと。でもね、歌うのは昔より好きになってるんですよ。40年前はわりとキツかったし、イヤイヤながら歌ってたところもがあったので。とにかく人前に出るのが得意じゃなくて、スタジオでレコーディングするのが好きだったんですよね。ライブはほとんど念頭に置いてなかったんだけど、いまは逆になってます。体力は衰えましたけど、声だけは出るし、ライブはできるわけですよ。歌うのも楽しいし。


ーー近年の作品『HoSoNoVa』『Heavenly Music』も歌を中心としたアルバムでした。


細野:作るたびに歌のバランスが前に出てくるんです。そこも昔とは違いますね。


ーーそれは何か理由があるんでしょうか?


細野:理由はわからないけど、そういうものが好きになったということでしょうね。1930年、1940年代のレコードを聴くのが好きなんですが、その頃の録音というのはマイク1本で、歌が前面に出ていて、楽器が遠くにいるんです。「そういうサウンドで十分じゃないか。すべての音が聞こえる必要もないし」と思ってたんだけど、最近のレコーディングシステムでは、そういう録音が難しくて。それがおもしろいし、挑戦しがいがあるなと思いながら2枚ほど作ったということですね。


ーー『A Night in Chinatown』もそうですが、最近の細野さんのライブでは1940年代前後の楽曲がカバーされていて。ライブのMCでも「懐メロではなく、いま好きな音楽」と仰ってましたね。


細野:そうですね。いまの音楽がおもしろければそれを聴くんでしょうけど……まあ、星野(源)くんくらいかな、聴いてるのは(笑)。最近は新しいものはそれほど聴かないけど、本当におもしろいものは届いてくるでしょ、自然に。そういうものがだんだん少なくなってるんですよ。逆に戦後の音楽とか、そのあたりの音楽は届いてくるんですよね、いまの自分には。10年に1度くらいそういう時期があるんです。ティン・パン・アレーをやってた20代の頃も新しいものを聴かなくなって、バンド仲間の鈴木茂と古いレコードばかり聴いてたことがあって。ディスクユニオンのいちばん奥にビンテージ・コーナーがあって、そこでレコードを漁っていたんだけど、それを1年くらい続けた頃に茂が僕に問題提起をしたわけですよ。「僕らはこのままでいいのか。不安になってきた」と(笑)。ちょうどその頃にSly & The Family Stoneが『Fresh』(1973年)を出して「これはすごい!」と目が覚めたんですけどね。


ーー音楽のフェーズを刷新するような作品に出会うことで、現在に目が向くと。


細野:そうですね。でも、いまの時代はこれまでと様相が違うかもしれないですね。グローバリゼーションによって音の均質化が進んで、世界的に同じレベルの音楽、同じ質の音楽が蔓延しているというのかな。どうしてそうなってるかは分析できないけど、いまの音楽は僕にとってあまり意味がないんですよ。


ーー『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』に色濃く反映されていたエキゾチカは、言ってみれば辺境の音楽だったと思うんです。グローバル化によって、そういう音楽がなくなりつつあるのかもしれないですね。


細野:まあ、なくなってはいないだろうけどね。あとね、これは自分の問題でもあるんですよ。あらゆる音楽を聴いてきて、もう聴くものがほとんどないと思うときもあるからね、ときどき。それは自分の感覚が限界に来ているということであって、それを超えるとまた新しい音楽が入ってくるから。僕にとっての新しい音楽は、大昔のものだったりするんですけどね。いままで聴いたことがない曲を知ると、興奮しますから。


ーー細野さんにとっては、古い音楽こそが新しいわけですね。


細野:以前はヒットチャートに上がってくる曲に興奮していたんです。「どこかで聴いたことがあるけど、初めて聴くサウンドだな」っていう。伝統的な流れを踏襲した革新的な音楽というのかな。ヒット曲とはそういうものだと思って育ってきたけど、いまはそうではないので。だったら昔の埋もれていた音楽を聴くほうがいいし、発見や驚きもあるから。30年代、40年代の音楽を発掘しているというか、汲めども尽きないと感じることもありますね。メディアに乗ってこなかった鉱脈、埋もれたままになっている音楽も、いまの時代は聴けるようになってるし。「え、こんな曲があったの?」ということも多いし、そういう音楽を懐かしいと感じたことはないですね。子供の頃に聴いていた歌謡曲は懐かしいけど、それはまた違う楽しみ方ですね。


ーー『A Night in Chinatown』で演奏されたディズニーの楽曲「Heigh-Ho」に関しては?


細野:あれは半々というか、懐かしさもあるかな(笑)。ただ、昔のまま演奏するわけではなくて、いまの感覚でアレンジしてます。


・「星野源には“星野節”がある」


ーー伝統を踏襲しつつ、新しい感覚を持った音楽ですよね、まさに。それを支えているのが高田漣さん、伊賀航さん、伊藤大地、斎藤圭土さんなどのミュージシャンだと思うのですが、彼らと一緒に演奏する楽しさもさらに増しているんじゃないですか?


細野:それはお互いにあると思いますね。彼らとはもう10年以上一緒にやっていて、いままでやってきたどんなバンドよりも長いので。バンドを組んだ覚えはないですけど(笑)、いまはツーカーになってるし、それはもうバンドですよね。あとね、10年経つと、みんな成長するわけですよ。その過程も体験しているし、彼らの演奏が豊かになっていくことで、自分の表現も変化してきて。そういうことが起きるとは思ってもみなかったけど、すごく新鮮ですね。みんな楽しそうにやってるし、ホントに音楽が好きなんだなって。仕事じゃないですね、あれは(笑)。


ーー細野さんとはキャリアも年齢もまったく違いますが、音楽的にも演奏的にもどんどん通じ合えるようになっているんでしょうね。


細野:長い間やってきた成果というのはそこですよね。たとえばブギウギという音楽も、ノリひとつでまったく違うものになってしまうんです。昔、僕が聴いていたブギウギは特別なもので、自分で出来るかどうかわからないまま演奏してきたんですが、数年前、メンバーのみんながコツを掴んだ時期があって。それはね、すぐには出来ないんですよ。違うなと思ったら「いや、そうじゃないんだ」って演奏を途中で止めたり、そういうことを積み重ねながら、だんだんまとまってきたわけでね。


ーー演奏に対する具体的な指示を出すことも?


細野:ときどきしますよ。彼らは飲み込みが早いから、ひとこと言えばすぐに出来ちゃうので。そこもおもしろいし、ぜんぜん苦労はないですね。彼らも楽しいと思うし、僕も楽しい。ライブもやるたびに良くなってるし、辛いことがまったくないんです、楽しいだけで。


ーーどんどんやりたくなりますね(笑)。


細野:そうなんです。それが音楽の肝だと思うけどね。義務でやってても、ホントにつまらないから。ただね、みんながこれほど忙しくなるとは思ってなくて、スケジュールを抑えるのが大変なんですよ。幸いにも僕のほうを優先してくれてる感じもあって、助かってますけどね。働き盛りなんですよ、彼らは(笑)。


ーー『A Night in Chinatown』には星野源さんも参加しています。マーティン・デニーの「Firecracker」「Sake Rock」、ジェイムス・ブラウンの「Sex Machine」を演奏していますが、特に「Firecraker」のマリンバの演奏が素晴らしくて。


細野:あれは僕もビックリしました。プロのマリンバ奏者ですよ、もはや。僕もあんなふうには演奏できないし、よっぽど練習したんだろうなって思います。練習しても出来る人と出来ない人がいるから、素質があるんでしょうね。


ーー星野さんはSAKEROCK時代にもマリンバを演奏してましたけど、さらに上達してますよね。


細野:星野くんも成長してるんだと思います。最初に会ったときはまだ子供というか、20いくつだったんですけど。こんなスーパースターになるとは思わなかったな。


ーーライブのMCでも「僕の代わりにがんばって」って仰ってましたね。


細野:言いましたね。あれは本音ですよ。いろんなことが出来る人なんでしょうけど、ちゃんと自分のスタイルというものを構築していて。“星野節”っていうのがあるので、そこがすごいなって思いますね。僕はそうじゃなくて、何でもやっちゃうから。


ーーそのときに興味がある方向に振り切るというか。


細野:そうですね。さっき言ったように、40年くらい前は外に出て行かなかったしね。『トロピカル・ダンディー』の頃もそうだけど、一部の人が好きなだけで、レコードのセールスが良かったわけではないし。


ーー『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』もそうですが、当時のセールスはともかく、下の世代に対する影響はすごく強くて。そのことについてはどう思いますか?


細野:うーん、どうなんですかね。“はっぴいえんど”もそうだけど、おもしろいと思ったことを出し惜しみなくやってただけで。精一杯遊んでたから、それが伝わって残っているのかなという感想もありますね。ただ、その時期はそんなこと考えてなかったし、はっぴいえんどだって2、3年で解散して、その時点で自分のなかでは終わったものですから。まさかいまだに聴かれることになるなんて、まったく予想もしてなかったですね。


ーーマーティン・デニーというミュージシャンについても聞かせてください。彼がやっていたエキゾチックな音楽は1970年代中盤の細野さんの音楽に影響を与えていますが、現在はどんなふうに捉えてますか?


細野:自分のなかで波があるんですよね。一頃は聴かない時期もあったんですけど、最近また聴き直したり。いまだに初めて知ることもありますからね。たとえば「Quiet Village」という曲はオリジナルがレス・バクスターというムード音楽に近い作曲家なんですね。でも、さらに原型があったということを最近知って。ブラジルのアリ・バホーゾ(Ary Barroso)という人なんですけど、そういうつながりを発見するのもおもしろいわけですよ。何か元になるのがあって、他の何かにつながるっていう。そういうこと好きなんですよね、僕は。


ーー現代の音楽に足りないのはそこかもしれないですね。


細野:確かにつながりはないよね。同時代の平面的なつながりならあるけど。それはどこの国も同じだし、コンビニで売られているものに近いんだよね。売れるものしか置かないでしょ、コンビニは。「こんなにおいしいものがあるんだ?」というものがあったとしても、誰も買わなければ消えていくわけで。ソコソコのものしか残らないんだよ、つまり。


ーー同じことが音楽にも言えるのではないか、と?


細野:言えちゃうね。誰も言わなくても、僕は言っちゃいますね。ただ「そのなかにもおもしろいものはある」というのは付け加えておかないといけないけど。全部がダメというわけではないので。


ーーリスナー側が積極的に探したり、求めることも大事ですよね。


細野:そうなんだけど、あまり望めないでしょうね。だって探せないでしょ、ヒントもないし。テレビのクイズ番組を見てたら、「The Sound of Silence」が流れて「これは誰の曲か?」という質問があったんだけど、誰も知らなかったんだよ。サイモン&ガーファンクルを知らないっていう、そういう時代ですから。


ーー確かにサイモン&ガーファンクルを耳にする機会って、少ないかもしれないですね。


細野:若い人は知らないし、大人も語らないから、受け継がれていかないよね。去年、ポール・サイモンの新作(『Stranger to Stranger』)もぜんぜん話題になってないし。いまの時代は20世紀の素晴らしい音楽を作った人たちがどんどん消えていくでしょ? 端境期というか、1回消えて、リセットされていくんだろうなとは思いますね。モヤモヤした感じがあるけど、これからどうなるかは僕には係わりがないから(笑)。


・「自分の音楽的な魂が喜ぶことしかやりたくない」


ーーそういう時代だからこそ、細野さんの音楽の存在には意義があると思います。『A Night in Chinatown』で演奏されている楽曲にもたくさんヒントがあると思うんですよ。たとえば「I’m A Fool To Care」という曲をきっかけに「レス・ポールは女性シンガーと組んで活動してた」ということを知る人もいるだろうし。


細野:ギターだけじゃないんだっていうね(笑)。そういうことはあるかもしれないですね。青山のCAYでときどきライブをやってるんだけど、最近、客層が豊かというか、僕と同世代の人はあまりいなくて、若い人が増えてるんですよ。あるとき、20代の若い女の子から、僕の音楽をきっかけにして、古い音楽を聴くようになったと言われたことがあって。そういうときは「やってて良かったな」と思うし、やりがいを感じますね。確かにそういう人は少しずつ増えてるんじゃないかな。ただ、あまり表だって表現しないから、彼らは。静かなんですよね。


ーー細野さんの活動が音楽の歴史をつなぐ役割を果たしているわけですよね。そう言えばMCで「30代、40代の頃はとにかくオリジナル作品を作りたかったけど、いまは違ってきている」ということも話されてましたよね。


細野:世代によってやれることが変わってくるからね。30代、40代、もちろん10代、20代もそうだけど、自分のなかの情熱を表現したかったし、止むに止まないパワーがあった。でも、それをやり続けるのは無理な話だなということもだんだんわかってくる。いまは楽しいことをやりたいし、自分の音楽的な魂が喜ぶことしかやりたくない。自分の表現よりもそっちが優先されるし、だからカバーをやるのが楽しいんですよ。「オリジナルはさんざん作ってきたからいいや」ということも考えますし。ときどきはオリジナルも作るけど「カバーに比べて劣っていたらイヤだな」と思うんですよ。自分がカバーしてきた昔の曲と張り合いたいというか。そこにはまだ到達してないかもしれないですね。そこに近づきたいという気持ちが動機になってるところもあるかな。


ーー1930年代、1940年代のアメリカの音楽はそれくらいスゴイんだ、と。


細野:圧倒されますね。表現力が豊かだし、演奏技術もすごいし。名もないミュージシャンもみんなそうなんですよ。ピアニストにしてもアコーディオン奏者にしても「こんな人がいるんだ」というミュージシャンがいっぱいいて。そこには太刀打ちできないけど、何か違うものを受け取っているんだと思います。彼らがやっている音楽の世界の色合いや香り、全体像を受け継ぎたいというか。


ーーそのスタンスも一貫している印象があります。時期によって音楽性は大きく異なりますが、すべての作品に特徴的な色合い、手触りがあって。特に『泰安洋行』『はらいそ』からYMO結成に至る変化は、いま考えてもとんでもない飛距離ですよね。


細野:そのあたりは時期的にもほぼ重なってるしね。濃い時代だったんですよ。自分だけじゃなくて、世の中も。フォークが流行ったと思ったらサイケになったり、その前はサーフィンだったり。激変の時代ですよね。


ーー東京がもっとも刺激的だった時期かもしれないですね。


細野:そうですね。いまはぜんぜん違うけどね。最近、昭和50年代のこのあたり(東京・港区)の写真を見たんですけど、明治か大正の風景のように感じたんですよ。古い家屋が並んでいて、都電が走っていて、空が高くて。その時代はすごく幸せだったんですが、そういう景色は消えてしまったし、東京オリンピックでさらに変わるでしょ。いまの東京に何かを求めてるかと言われたら、それはあまりないんですよね。アメリカやヨーロッパには古い建物が残っていて、遺跡みたいな場所に住んでるから、みんな新しいものを求めるんだと思うんですよ。東京は正反対だし、世界的に見ると異常な都市ですよね。世界の都市の写真に看板をコラージュするアートを作ってる人がいて、それがおもしろいんだよね。看板を付けるだけで、東京になるっていう。


ーー外国人観光客もよく看板の写真を撮ってますよね。東京という街に刺激を受けて音楽を作ることもないですか?


細野:YMOの頃はかなり意識してましたけどね。「テクノポリス」なんて曲があったり、東京を違う目で幻想的に見ようとしていて。そういう感覚もいまはないですね。あとね、昔は都市ごとの音楽があったんですよ。テクノにしても、ミュンヘンとベルリンとデュッセルドルフで違っていたり。YMOは東京の音ですよね。2000年代のエレクトロニカは都市ではなくて、個人になったんですよ。いろんな人がパーソナルな空間で音楽を作ることで新しいモードになって。「これで世界が変わる」と思ったら、終わっちゃたんだよね(笑)。いまは個人の顔も見えてこないし、どうなってるの?という感じですね。大統領がトランプになって、どう転ぶかわからないけどね。


ーー『A Night in Chinatown』でカバーしている楽曲をいまのアメリカの人が聴いたら、どう思うんでしょうね?


細野:それは僕も興味があって。アメリカでツアーをやってみたいんですよ。ニューヨークは何となく反応がわかるというか、たぶんおもしろがってくれると思うんだけど、南部はわからないよね。もしかしたら酒瓶が飛んでくるかもしれないし(笑)。受け入れられるのか、拒絶されるのか…。


ーーいいですね、アメリカツアー。ぜひ実現させてください!


細野:まあ、そのうち。元気になったらね。


ーーライブの本数自体も多いですよね。去年は6月にツアーがあって、12月にも7本のライブを開催。精力的と言っていい数だと思うんですが。


細野:そういうふうに見えちゃうだろうけど、仕方なくやってるんです(笑)。先に予定を決めないと、ツアーはやれないから。毎年、ソロの新作が出るっていう前提でツアーを組んでるんですよ。ところが作ってないので(笑)、“エア・ツアー”って言ってるんですけど。それを2年続けたから、今年は出さないと。


ーー素晴らしい! 新作の構想はあるんですか?


細野:カバー曲はぜんぶ録ってあるんですよ。それはすぐにでも出せるんだけど、どうやらオリジナルを作らなくちゃいけないみたいで。それは2月からやろうと思ってます。やる気だけはあるんだけど、新曲を作るためには閉じこもらなくちゃいけないから。昔はそうやって集中するのが好きだったんですけど、いまは疲れちゃうからね(笑)。適度にやるってことが出来るかどうか。


ーー初夏のツアーでは新曲も聴けそうですね。


細野:ツアーが始まる頃は、まだ出てないかもしれないけどね(笑)。まあ、言っちゃったからにはやりますよ。
(取材・文=森朋之)