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意外と深い、ランボルギーニとモータースポーツの関係【大谷達也コラム第5回】

2017年01月30日 17:42  AUTOSPORT web

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2015年に発表されたランボルギーニ・ウラカンGT3S。昨年のスーパーGT300クラスでは4台のウラカンGT3が参戦し、国内でも馴染みが深い。
「世界最高のスポーツカーを自らの手で作り上げる」

 この目標を掲げたフェルッチオ・ランボルギーニが自動車メーカー“アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニ”をイタリア・ボローニャ近くのサンタガータ・ボロネーゼに設立したのは1963年のこと。ただし、ライバルとされたフェラーリとは異なり、ランボルギーニは当初よりモータースポーツと一定の距離を置いてきたというのが従来からの通説である。
 もっとも、彼らの最初の作品である350GTからして3.5リッターの高性能V12エンジンを搭載していたのだから、ランボルギーニがモータースポーツ界とまったく無関係でいることは不可能だった。たとえば、このエンジンを設計したジオット・ビッザリーニはフェラーリから移籍してきたエンジニアだったほか、レーシングカー・コンストラクターのダラーラを創設したジャンパウロ・ダラーラも350GTのプロジェクトには深く関わっていた。

 350GTとその後継モデルである400GTが大成功を収めると、ランボルギーニはさらなるスーパースポーツカーの開発に手を染めることになる。これがV12 4.0リッターエンジンをコクピット後方に搭載した伝説的ミッドシップ・スポーツカー、ミウラだった。そしてミウラのシャシー開発を主導したのは、またしてもジャンパウロ・ダラーラ。

 さらに、当時テストドライバーを務めていたボブ・ウォレスは、ミウラをベースとするレーシングカー“イオタ”の開発を進めたものの、フェルッチオ・ランボルギーニが新事業に乗り出したこともあって、イオタは実戦に挑むことなく「幻のランボルギーニ・レーサー」としてその役割を終えることになる。

 この直後の1973年にフェルッチオはランボルギーニの株式を友人などに売却。これと前後して石油ショックが起きてスーパースポーツカーの販売は低迷し、ランボルギーニも窮地に立たされることとなる。

 このとき、BMWモータースポーツのボスだったヨッヘン・ニーアパッシュはランボルギーニにミッドシップ・スポーツカーの開発・生産を委託。ここでもダラーラは重要な役割を演じたが、ランボルギーニ社内で並行して進められていたプロジェクトが頓挫したためにBMWのスポーツカー計画からも撤退を余儀なくされた。

 ちなみに、このとき開発されたスポーツカーがBMW M1で、このモデルを用いたワンメイクレース“プロカーレース”が1979~1980年にF1グランプリのサポートイベントとして開催されたことは、古くからのモータースポーツファンにとって懐かしい思い出と言えるはずだ。

 1987年、アメリカの自動車メーカーであるクライスラーがランボルギーニを買収。これと時を同じくして、フランスのF1チーム“ラルース”が元フェラーリのマウロ・フォルギエーリにF1エンジンの開発を依頼する。このときフォルギエーリはランボルギーニに協力を要請。この計画は親会社であるクライスラーからも承認され、F1用V12 3.5リッターエンジンの開発が始まる。1988年にデビューしたこのエンジンはラルースだけでなくロータスなど複数のチームが採用。1990年のF1日本GPでラルース・ランボルギーニに乗る鈴木亜久里が日本人F1ドライバーとして初の3位表彰台を得たことは、いまも我が国のモータースポーツ史に燦然と輝く金字塔といえる。

 しかし、クライスラーが経営不振に陥った影響などにより1991年限りでF1から撤退。続いて無名のインドネシア投資家グループがランボルギーニの新オーナーとなり、1996年には当時のランボルギーニのフラッグシップモデルであるディアブロを用いたワンメイクレースがヨーロッパなどで開催された。

 1990年終盤にランボルギーニはアウディにV8エンジンの供給を打診。これは将来、登場するエントリーモデルに搭載することを想定したものだったが、ランボルギーニの社内を調査したアウディはその将来に大きな可能性を見いだすことになり、1998年にランボルギーニを完全子会社とすることが決定する。

 2003年、ランボルギーニは新たなレース活動を開始する。ディアブロの後継モデルであるムルシエラゴをベースとするレーシングカーのムルシエラゴR-GTをドイツのライター・エンジニアリングとアウディ・スポーツが共同開発し、FIA GT選手権やアメリカン・ルマンなどに参戦。2006年にはル・マン24時間にもエントリーして話題を呼んだ。

 同じ年にデビューしたエントリーモデルのガヤルドもランボルギーニのモータースポーツ史の新たな1ページを切り拓いたモデルとして忘れることができない。ガヤルドを用いたワンメイクレースのスーパートロフェオが2009年にスタート。さらにライター・エンジニアリングはガヤルド・ベースのGT3マシンを開発し、数多くのカスタマーチームが世界中のGTレースでこれを走らせた。

 もっとも、1990年代から2000年代初頭にかけての期間、ランボルギーニのモータースポーツ活動でもっとも華々しく、かつ継続的に行われたのは日本のランボルギーニ・オーナーズクラブによる全日本GT選手権ならびにスーパーGTへの参戦だった。全日本GT選手権初年度の1994年にカウンタックで臨んだ彼らは、翌95年から2003年までディアブロ、2004年から2006年はムルシエラゴを投入。2006年には参戦クラスをそれまでのGT500からGT300にスイッチしたが、2007年以降もガヤルドでGT300に挑み続けたのである。

 設立当初はサーキットでその姿を目にすることがあまりなかったランボルギーニが、1990年代からモータースポーツ活動に次第に力を注いでいった歴史がこれでご理解いただけただろう。後編では、ランボルギーニの現在と未来のモータースポーツ活動を見渡してみることにしよう。