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黒人×白人の芸人コンビはなぜ転落した? 大塚シノブの『ショコラ~君がいて、僕がいる~』評

2017年01月30日 15:32  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 Gaumont / Mandarin Cinema / Korokoro / M6 Films

 “笑い”を題材にした作品、そう聞いた私は、まずは何の先入観もないままに、ただ単にお笑いを観る感覚で、ただそれだけを念頭に置いて、この『ショコラ~君がいて、僕がいる~』を観る。白人芸人フティット(ジェームス・ティエレ)と黒人芸人ショコラ(オマール・シー)のコンビが、サーカスでお笑い芸を披露。白人のフティットが黒人のショコラを叩く、ショコラがおどける。会場は割れんばかりの爆笑の渦。


参考:LGBT同士の愛が社会に訴えたものーー大塚シノブが『ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気』を観る


 しかし、だ。これがちっとも笑えないのである、私には。なぜだ!? お笑いは大好きなはずなのに! ごめんなさい。私には笑いのセンスがないのかしら? それともアメリカンジョーク的な日本人には理解できない感じのアレなのか。あー、この手のジョークが分からない私は、こりゃやっちまったかな、ミスってしまったかな…まさかこれからずっとこんな場面が続くのか? と思ったのもつかの間、この物語はどうやらその手の軽いタッチのものではなかったことにようやく気付く。そして、その展開にどんどん引き込まれていく。


 それもそのはず、これは伝説の黒人芸人ショコラことラファエル・パディーヤが、相方ジョルジュ・フティットに見出され、芸人コンビ「フティット&ショコラ」として活躍した19世紀末から20世紀初頭の、成功から転落までの波瀾万丈な生涯を描いた感動の実話なのである。何事も真実に勝るものはない。この物語を観ていると生身の人間の人生って非常にうまくできているというか、帳尻が合っているというか。人生の裏側に隠された様々な要素を感じるのだ。


 ショコラは奴隷の子として生まれた黒人で、ずっと虐げられて生きてきた。芸でも白人のフティットに叩かれ、笑いを取る。ところが彼の人生は黒人だから認められず、結果、転落したとはどうも考えづらい。なぜなら、黒人として目立つことが時には彼の武器となり、またその天性のキャラクターによって皆に愛され、人気を得ていたからだ。だが当時、彼に対する黒人としての差別は、やはり売れた後にも存在したことは確かだった。それでもスターの座にいた彼は、それを跳ね飛ばせるだけの武器もすでに手にしていたはずだ。無敵とも思える彼は、金、女、名誉、欲しいものすべてを手にしていたように見えた。


 ならば、なにが転落の原因だったのか。それはすべて慢心という言葉一つに集約されるのではないか。黒人として虐げられた経験は彼の人生に影を落とし、その反骨精神は黒人として初めての偉業を成し遂げようと、一人さらなる新たな挑戦へと搔き立てる。反骨精神は上手く使えば成功へと導いてくれる材料ともなり得るが、なんといっても彼の欠点が問題なのだ。自分への完全なる驕り、自分の才能を過信するがゆえの努力の怠り。それが空回りの原因で、彼は奈落の底まで落ちていくのである。そしてそれが、結果悲しい人生へと繋がっていく。


 つまり、敗因は決して黒人差別ということではなく、自分自身の心の在り方の問題というわけで、またその凹の部分を補ってくれていた相方フティットを差し置いて、一人勝ちしようとしたショコラ自身の問題とも言える。ただその要因を作ったのは、黒人差別という背景かもしれないのだが、やはりそれも違うのでは? とも思う。才能があったのにもったいない、としか言いようがない。


 と、ショコラを責めてみたが、人間、自分の欲しいなにもかもを手に入れられた時、自分にはなんでもできるような錯覚に陥ることもあるだろうし、欲も出て、自分一人の力で成功を掴んだとも思いがちなのはなんとなく分かる。ある意味、それは自分の欲求に正直に従った生き方で、人間らしいと言えばそうとも言えるのかもしれない。でも慢心というものは、やはり落とし穴だ。


 近頃、“じゃない方芸人”なんて言葉がある。目立っている方、そうでない方。スターの存在、影の存在。でも、ネタは結構“じゃない方”が考えていたりもする。それでもなぜか愛されて日が当たるのは、真面目に努力で支える方ではなく、自由奔放、感性のまま生きるタイプの方だったりもする。本来コンビとは凹凸を補い合って、支え合って成り立つ。二人で一つ。しかし、成功するとそのバランスが崩れたりもする。コンビがバランスを保つのは難しいことなのか。


 自由奔放で豪快な人気者黒人芸人ショコラと、地味で堅実な努力家白人芸人フティット。一方は光を浴びて輝き、一方は日陰で耐えている。落ちぶれたショコラを、裏切られても結局最後まで見捨てることのなかったフティット。まるで示し合わせたかのような不思議な組み合わせの二人。お互いどんな思いがあろうと、やはり二人は永遠。いいコンビである。人生、誰のせいでもなく、なんのせいでもない。


 チャーミングすぎる演技でショコラを演じるオマール・シー。繊細な静の演技が胸を打ち、本物かと見紛うほどの完璧な芸でフティットを演じたジェームス・ティエレは、聞いて納得、喜劇王チャーリー・チャップリンの実孫。歴史の再現に、こんなふたりだったのかと思いを馳せながら。


 今年、ショコラ没後100年になる。歴史から消し去られていた芸人の伝説が、今掘り起こされる。さて、そこから何を感じるだろうか。(大塚 シノブ)