トップへ

小野寺系の『沈黙ーサイレンスー』評:遠藤周作とスコセッシ監督に共通するキリスト教への問い

2017年01月27日 14:53  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

 観客たちが、こわばった表情で、押し黙ったまま劇場を出て行く。感動の涙を搾り取るのではなく、まさに観る者を「沈黙」させてしまうような、荘厳な何かを持った映画なのだと感じる。


参考:『沈黙ーサイレンスー』塚本晋也インタビュー「幸運にも『野火』と基本的なテーマが同じだった」


 本作『沈黙ーサイレンスー』は、マーティン・スコセッシ監督が、自身もキリスト教徒でありカトリック文学を研究した遠藤周作の代表作となった、世界中で読み継がれ名作と評価される小説『沈黙』に惹かれ、権利関係で揉めながらも28年間熱望し続けた映画化企画だ。それだけに、内容は最大限に原作小説に忠実なものになっていた。


 なぜスコセッシ監督は、これを忠実なかたちで撮らなければならなかったのだろうか。それは、スコセッシ監督が興味を寄せるキリスト教における重大なテーマが扱われているからである。 原作小説は出版された当初、カトリック団体で「禁書」に近い扱いをされてきたという。その背信的とすらいえる過激な宗教観にこそ、この小説の真価が隠されている。


 結末などで大きな改変が加えられた、篠田正浩監督による1971年の映画『沈黙 SILENCE』は、神聖なものが敗北していく悲痛さが描かれていたものの、拷問の描写が穏当なものとなっており、また原作にあった宗教的な解釈が無視されたため、まったく別のテーマにすり替えられてしまっていた。だが、厳格なカトリック教徒であるイタリア系移民の家庭で育ち、少年時代は司祭を目指したこともあったというマーティン・スコセッシは、そこから目を逸らすことなく、宗教的な過激さをそのまま残している。ここでは、本作が目指した、原作とつながる「真のテーマ」とは何だったのかを考えていきたい。


 16世紀、カトリック教会は、死後に罪が許され天国へ行けるという「免罪符」を売り出すなどの教会の堕落した行為をマルティン・ルターに批判され、従来のカトリックとプロテスタントにキリスト教が分派するという事件が起きた。危機を感じたカトリック教会のフランシスコ・ザビエルらは、イエズス会を設立し、熱心に国外への布教に努めた。日本へもその影響は及び、織田信長が存命していた時代に国内の信者は数十万人にものぼった。しかしその後、豊臣秀吉の時代から江戸時代にかけて「危険な宗教」と見なされ、キリスト教への迫害が行われることで、宣教師たちは幕府の許可をとらずに独自に実地で活動を始めた。島原の乱が起こるに至って、いよいよ幕府は、信者や宣教師たちに苛烈な弾圧を強めていく。


 本作は、遠藤周作が取材した史実を基に、「隠れキリシタン」や宣教師への拷問の様子を映像化している。キリストや聖母の図を足で踏みつけることを強要する「踏み絵」、薪に火をつけ弱火でじわじわと苦しめる「火あぶり」、雲仙に湧き出す高熱の湯をたらす「熱湯責め」、満潮になると一部水没する十字架に縛りつけ衰弱死させる「水磔(すいたく)」、汚物などを入れた1メートルほどの穴の中に逆さに吊し続ける「穴吊り」…。原作で「このような残忍な方法をローマ時代のネロでさえ考えついたでしょうか」と表現されている、そのバラエティーに富む拷問からは、目的を超えたサディスティックな異常快楽をすら感じさせる。


 江戸時代の百姓の困窮は凄まじく、村によっては奴隷以下の生活を強いられている者も多かった。役人たちに搾取され続け、何のために生きているのか意味が見いだせない人々にとって、宣教師によって伝えられたキリスト教の思想や犠牲的精神が心の支えになっていたことは想像に難くない。塚本信也が本当の意味で命がけで演じた、水磔にかけられる村人のように、彼らは自分たちの心を救ってくれた信仰があったからこそ、死に向かう勇気が与えられたといえる。史実では、そんな信徒たちを励ましながら一緒に死んでいった宣教師もいたという。本作ではそれを再現する描写も見られる。


 信仰を棄てずに抵抗を続ける信徒に対し、拷問もより巧妙化されていき、それは身体の苦痛を超えた、精神に訴えるものへと洗練されていく。本作では、イッセー尾形が怪演する「イノウエさま」こと、井上筑後守なる人物の悪魔的頭脳による策略として、その残虐性が整理されて描かれる。キリシタンをあぶり出すために、村人たち自身に人質を選ばせ仲間割れをさせたり、宣教師に信徒を殺害すると脅して棄教を迫るなど、人類史上例を見ないほどに陰湿さ極まる拷問は、とりわけ日本の観客には衝撃的なものとして受け止められるだろう。


 本作で棄教を迫られる、フェレイラやロドリゴたち宣教師も、実在の人物をモデルにしている。フェレイラはキリスト教の布教を取り締まり、宣教師たちを説得する役回りをさせられ、キリスト教がインチキであるという書物まで書かされた。フェレイラを師とも仰いでいたロドリゴは、「どんな拷問より、これほどむごい仕打ちはない」と嘆く。


 だが一方で、「お前の栄光の代償は信徒たちの苦しみだ」と述べられるように、宣教師側の、キリスト教こそが何よりも正しく、その教えを守るためならば信徒が殉教する状況をすら甘んじて受け入れてしまう点を厳しく糾弾するような描写もある。キリスト教が弾圧を受けている現実のなかで、なおも教化をすすめ死人が増えていくことを、本当にキリスト教の神は望んでいるのか。そして、本当に神がいるのなら、なぜ神はキリストの磔刑よりもさらにむごたらしいこの状況に、何もせず沈黙を守っているのか。


 その答えは、ロドリゴの精神が弱り切ったときに聞いた、「私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」というキリストの言葉として表現されている。これはかなり衝撃的だ。キリストの存在した理由は、絵を踏んでキリスト教を棄てる者のためにこそあったというのだ。これは、どういうことなのだろうか。


 作中では、仏教にもキリスト教と似ている部分が多いと言う場面があったが、このときのキリストに言わせた考えは、日本の仏僧・親鸞(しんらん)の述べた「阿弥陀さまの願いをよくよく考えてみれば、それはすべて、この親鸞一人をお救いくださるためであった」という言葉によく似ている。親鸞は、阿弥陀如来の救済を待つ「他力本願」という、念仏を唱えることで弱い人間すべてが救われるという信仰を広め、従来の仏教勢力から断罪され、一時期、流罪となった人物だ。仏教界の異端児ともいえる親鸞は、「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる」とも言っている。この真意とは、悪人の方が有利ということではなく、慈悲深い阿弥陀如来の本来の願いは、仏の道に外れた者や、仏の道を全うできない弱い者を見逃さず救済することにこそあるということである。逆をいえば、そのような者にこそ仏の救いが必要だというのだ。


 本作では、役人に脅されてキリスト教を何度も冒涜してしまうキチジローという存在が、その「弱者」を体現している。ロドリゴが、水に映る自分の顔をキリストと幻視する場面などが象徴するように、ロドリゴとキチジローとの関係は、キリストと、キリストを裏切り銀貨三十枚で売ってしまったユダとの関係に、何度も重ねられる。キリストの生涯についての人々の証言を記録した、複数の「福音書」のなかで、ユダは何度もなじられ、みじめな存在として、突き放して描かれている。熱心な保守的カトリック教徒であるメル・ギブソンの撮った『パッション』を観れば、そのあたりは理解できるはずだ。


 しかし本作では、同じような罪を背負ったキチジローに、あたたかいまなざしを向けているように見える。もちろん、信仰に燃えてキリストを裏切らなかった信徒たちは宗教上、教えを全うした立派な人々だといえるだろう。そのような人々は、ある種、神によってすでに救われているという言い方もできる。その一方、ユダやキチジローのように、信仰の道から外れてしまった者を見捨てることが、果たしてキリストや神の真意なのだろうか。遠藤周作は、キリストや神が、真に尊敬するべき存在であるとすれば、そういう者をこそ救ってくれるべきだと考えた。だから絵を踏む瞬間にだけキリストが沈黙を破り、「踏むがいい」と語りかけるのである。 そして、場合によっては、神の存在を声高に叫ぶことなく「沈黙」する行為にこそ、神と人が真につながることができるという結論へと、物語はたどり着く。


 だが、この思想は、信仰を棄てなかった殉教者の権威を、棄教した人々やユダと並べることにつながる。布教を世界に広げるべく努力するカトリック教会が、キリストや神によって棄教を認めるような「沈黙」の思想を問題視したのは、ある意味では当然といえよう。それは、親鸞の教えを断罪した従来の日本の仏教勢力とも重なるだろう。遠藤周作が示したこの「反教会」的主張は、マルティン・ルターがやったような過激な「宗教改革」を、文学でやっている行為だといえるのである。マーティン・スコセッシ監督もやはり、聖書を独自に解釈した宗教映画『最後の誘惑』によって、キリストを一人の人間として描き、ユダの行為を神の意志に沿うものとして表現したことで、キリスト教の団体から抗議を受けている。従来のキリスト教の解釈に対して疑問を感じていた遠藤周作とマーティン・スコセッシの想いは、ここでつながるのだ。


 また、そのような宗教的テーマとともに、隠れキリシタンのようなマイノリティを多数が弾圧するような、当時の日本のドメスティックな状況が、現在の日本やアメリカ、世界中の排他的な動向とぴったりリンクしてしまっていることにも目を向けるべきだろう。さらに、名作映画のフィルムを復元する活動を行うほどの映画マニアであり、彼の異文化への理解につながったという、溝口健二監督の『雨月物語』を参照する小船のシーンをはじめ、牢の格子の撮り方やライティングなど、古い日本映画の風合いを、日本のスタッフも使いながら独自に再現しているところなど、同時代性や作家的成熟を含め、これまで本作を手がけることのできなかったスコセッシ監督の歳月というのは、原作でロドリゴが「私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ」と述べるように、本作を傑作にするための神の采配だったのかもしれないと思えるのである。(小野寺系)