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坂口健太郎は「記号」を超える! 『東京タラレバ娘』の“キー”となる演技を考察

2017年01月25日 06:13  リアルサウンド

リアルサウンド

日本テレビ

 若手の脚本家・演出家として活躍する登米裕一が、気になる俳優やドラマ・映画について日常的な視点から考察する連載企画。第16回は、吉高由里子らが主演を務める『東京タラレバ娘』(日本テレビ)の坂口健太郎について。(リアルサウンド映画部)


参考:松坂桃李の“影”と濱田岳の“光”、堤ワールドをどう築く? 『視覚探偵 日暮旅人』第1話レビュー


 『東京タラレバ娘』の放送が、先週18日(水)より始まった。同作は、東村アキコの同名漫画を原作としたラブコメディで、「タラレバ」ばかりを言っていた30代の独身女性3人が現実と向き合い、恋に帆走する姿を描く。このドラマの中で、女性3人(鎌田倫子/吉高由里子、山川香/榮倉奈々、鳥居小雪/大島優子)に対するキーパーソンとなるKEY役を、坂口健太郎が演じている。


 KEYは新鋭気鋭のモデルで、歯に衣着せぬ言葉で倫子たちを叱咤し、彼女たちが現実を見るように仕向ける役どころだ。“いつも正論をいうイケメン”という、アプローチの仕方次第では「記号的」になりそうな役だが、きちんと人間らしい輪郭を持って存在していたのが印象的だった。


 では、「記号的」とはどういう事か、少し考えてみたいと思う。役者は、限られた時間で自分がどういう役柄であるかを見ている人に伝えなければいけない。そして役柄には、高圧的な社長、こびへつらう中間管理職、仕事そっちのけで恋に夢中のOL、一生懸命だけど不器用な部下、というように、一言に集約できるイメージが与えられていることが多い。このイメージが、いわば「記号」だと考えてもらえるとわかりやすいだろう。


 さて、役者はこの「記号」を伝えるための演技をしなければいけないのだが、そう簡単には事は運ばない。というのも、役者が「記号」をそのまま演技に反映させると、ドラマがリアリティを失ってしまうからである。どういうことか? そもそも実生活において、高圧的だと思われたい社長や、不器用だと思われたい部下はあまりいない。“高圧的”や“不器用”は、あくまで他者から見たときの特徴であって、主体的に強調すべき特徴ではないのだ。意図的にその特徴を出そうとすればするほど、不自然な振る舞いになるのは当然だろう。


 では、役者はどう振舞うべきかというと、「本人は意図せずして高圧的になっている」ように演じるべきだろう。実生活において、人が自らの振る舞いを客観的に見ることができないように、その登場人物は自らの役柄を知っていてはいけない。つまり、演者は記号を演じるのではなく、“人間そのもの”を演じなければいけないのである。


 『東京タラレバ娘』で倫子たちは、「あの時の彼がもう少し素敵だったらプロポーズを受けていたのに」とか、「バンドマンの彼がもう少し将来を考えてくれていたら、一緒になっていたのに」と、過去を振り返っては不毛な言い訳を続けている。そんな彼女たちに、金髪の美青年であるKEYは「このタラレバ女!」と言い放つ。


 彼の役柄は、「30代の女性にズケズケとものを言う、空気を読まない自身満々の20代男」として、わかりやすく記号的に演じる事もできただろう。しかし、坂口健太郎はむしろ、KEYを「気遣いを持ち合わせた人間」として演じている。最初は、みんなが溜まっているお店の店員や、3人娘にさえもきちんと礼儀正しく接していた。ところが、タラレバ娘たちがあまりに情けない有様のため、KEYは憤慨してズケズケと物申してしまうのだ。KEYはKEYなりに、自らの正義感に則って行動し、結果として「空気を読まない自身満々の20代男」になっているのである。


 タラレバ娘たちにとって、KEYという存在は脅威だ。大きく分ければ、敵役といえるかもしれない。しかし自らの正義を持っている敵役は、主人公を際立たせるのである。『ダークナイト』のジョーカーや『レオン』のスタンスフィールドなど、信念を持った敵役は、恐ろしくも魅力的だ。そして、主人公たちを追い詰めることによって、彼らの本当の力を引き出しもする。


 もちろん、KEYは単純にタラレバ娘たちと敵対関係にあるわけではない。しかし、30代を迎え、失敗と後悔を抱えた主人公たちの正義と、自信と成功に満ち満ちた20代の正義が、本作ではまさに対比となっている。記号的ではない自然な演技で、その役どころを伝えたKEYによって、タラレバ娘たちも今後、その本音を明かしていくことだろう。相手から良い演技を引き出すという意味でも、坂口健太郎演じるKEYは、文字通りこのドラマの“キー”となるはずだ。(登米裕一)