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アジア最大のヒット作『人魚姫』、チャウ・シンチーの笑いとヒューマニズムを読む

2017年01月20日 13:42  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2016 The Star Overseas Limited

 今やチャウ・シンチーはアジア最大のクリエイターと言っても過言ではない。彼にしか成しえないスケールとセンス、テンポとテクニックを織り交ぜて「無厘頭(ナンセンス、訳がわからない、常識はずれ)」という概念を浸透させ、貪欲に冒険を続けてきた彼。とりわけ単独で監督を務めるようになった『少林サッカー』を皮切りに、『カンフー・ハッスル』、『ミラクル7号』、『西遊記~はじまりのはじまり~』はいずれも大ヒットを記録してきた。


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 その最新作『人魚姫』もまた、中国における初日興収の新記録(約48億円)を樹立。本作はトータルでも中国歴代興収NO.1の大ヒットとなり、それどころか2016年の世界興収ランキングを紐解くと、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(1位)や『ファインディング・ドリー』(2位)が桁違いの強さを見せつける中、『人魚姫(The Mermaid)』は唯一のアジア勢として12位にランクインし、ハリウッドが主導権を握る世界の映画界に一矢を報いる結果を残した。


■アンデルセン版をしのぐ、奇想天外な人魚のものがたり


 そもそも人魚姫といえばアンデルセンの童話でおなじみだ。「難破した船に乗っていた王子様を救ったことで恋に落ちてしまう人魚姫。彼と結ばれるために魔女と取引をした彼女は、人間の姿を得て王子の元へと向かうが……」といった流れがアンデルセン版の大筋だが、これもチャウ・シンチーを始めとする総勢8名の脚本家チームの手にかかれば原型をとどめない奇想天外な物語へと変貌する。


 まず驚きなのは、シンチー版『人魚姫』が、おおよそファンタジーの導入部とは思えぬ極めてナンセンスな切り口で物語を起動させるところ。幕を開ければそこには「世界珍獣博物館」なるプレートが映し出され、順を追って世にも珍しい生物の剥製が紹介されていく。全ては見るも無残な嘘っぱちでデタラメなものばかりで、最後に登場する「人魚」に至っては、でっぷりと腹の出た館長が下半身に布を巻きつけただけの姿で、「食っていくためには、こうでもしなきゃ、しょうがないんだ」と涙ぐむという始末。


 そこから画面は一転して、今度は中国の消費経済社会で巨万の富を築いた者たちが夜な夜な優雅に語り合う姿。若くして大成功を収めたリウ(ダン・チャオ)は、イルカの生息する自然保護区にある青羅湾を購入したばかり。「自然保護条例が足かせになって、何も金儲けできないだろ?」という友に対し彼は、強力なソナーを使って海洋生物のいっさいを湾から追い出し、そこを完全埋め立てしてリゾート開発することで一儲けを企てるという非人道的なアイディアを披露する。


 その計画はすでに着々と実行中だった。そして実際に湾から追い出された中には無数の人魚の群れも含まれていた。彼らは人知れず難破船に隠れて暮らし、リウのリゾート開発をやめさせるべく、可愛らしい人魚のシャンシャン(リン・ユン)を使って暗殺計画を仕掛けるも失敗。しかしいつしか、リウとシャンシャンの二人の間には思いもよらぬ愛情が芽生え始め・・・。


 今やチャウ・シンチーの代名詞ともなった奇想天外なVFXも著しく加味。とはいえ、海底を人魚が泳ぎ回る姿、長老のオババ様が魅せる妖力、さらには一族を率いるタコ兄(ショウ・ルオ)の軽妙なタコ足さばきといい、スペクタクルとは程遠い、変わったところでデジタル技術が駆使されるのも、なんともシンチーらしい一面だ。その一方で、例えば冒頭のオッサンが悲哀のコスチュームを身にまとい人魚になりきる姿は完全なるアナログだし、またリアル人魚のシャンシャンが人間の姿になりきる姿もまた作り物っぽさを前面に押し出したアナログ感が漂う。この温度差というか、緩急のポイントのズラし方こそこの人、シンチーのサジ加減の巧さだろう。だからこそ、笑うまいと思っていても、このノリについつい笑ってしまう。


■大きな力に触れ、変貌を遂げる主人公


 この『人魚姫』は「アジア歴代興行収入NO.1作品」という威厳たっぷりの惹句を身にまといながらも、実際にはもっと気軽に笑いながら見ることのできるエンターテインメント作だ。だが、この気軽さの裏側には、チャウ・シンチーがナンセンスな笑いの本筋にいつも忍ばせるヒューマニズムが、やはり変わらず宿っている。


 彼の映画では「挫折を味わった主人公が何か大きな力に触れ、人間として変貌を遂げていく」という決まった軸がある。特に本作では、中国全土で問題になっている公害汚染や自然破壊、拝金主義に警鐘を鳴らすメッセージが付与され、我々はてっきり人魚シャンシャンの方が主人公かと思っていたら、実は大きな変貌を遂げるのはリウの側。いつしか彼が、かつてチャウ・シンチーがこれまで自作で演じてきたような“変わりゆく”役柄に収まっていく。こういった、ナンセンスだが決して人の道を外れることのない安心感がシンチー作品の魅力なのかもしれない。


 ちなみに、もう一つ私の心を捉えたのは、クライマックスで冒頭の太った人魚オヤジがもう一度だけちらりと登場して、人魚のシャンシャンにカメラを向ける無言のワンシーンだ。もしかすると多くの観客が苦笑いしてスルーするだけの、取るに足らない場面かもしれないが、いわば「フェイク人魚」と「リアル人魚」が初めて対峙する場面に何らかの意味を持たせるとすれば、これは脚本の構成上、いわゆる電極のプラスとマイナスが合わさって、何かが起こることを保証する箇所とも言えるだろう。


 結果、海と陸から追っ手がせまる中、思いがけない方法でシャンシャンは救出されることになり、まさにこのくだりでリウの行動力は沸点に達し、彼はこれまでの価値観から脱して本当に大切なものは何かをようやく確信するに至る。それはささやかだが、大きな奇跡と言っていい。


 もしチャウ・シンチーの試みが成功しているのであれば、同じタイミングで観客の心のスイッチもグッと押され、昨日までは気づかなかった大切な何かに気づくことになるだろう。翻ってあの人魚オッサンは単なるナンセンスの塊などではなく、実はその導火線としてこの物語に最初から潜み続ける人魚以上に奇怪な、それでいて大切な存在だったのかもしれない。(牛津厚信)