トップへ

宮台真司はなぜ映画批評を再開したのか? 『正義から享楽へ』刊行記念インタビュー

2017年01月12日 16:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』

 社会学者・宮台真司がリアルサウンド映画部にて連載中の『宮台真司の月刊映画時評』を加筆・再構成し書籍化した映画批評集『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』が、2016年12月27日にリアルサウンド運営元・blueprintより刊行された。同書では、『シン・ゴジラ』『クリーピー 偽りの隣人』『バケモノの子』『ニュースの真相』など、2015年から2016年に公開された作品を中心に取り上げながら、いま世界に生じている変化などを紐解いている。さらに、黒沢清、富田克也&相沢虎之助との特別対談も収録。


参考:宮台真司×黒沢清 対談:黒沢作品における“取り残された者の呪い”をめぐって


 このたびリアルサウンド映画部では、著書の宮台真司にインタビューを行い、長らく中断していた映画批評再開の理由から、トランプ現象とリベラルの見解についてまでをじっくりと語ってもらった。(編集部)


■「僕が言う「実存批評」の出番だ、やっと言いたいことが言える」


――連載『宮台真司の月刊映画時評』を再構築した批評本『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』が、売り切れ続出の好評ぶりです。今回はあらためて、長らく中断していた映画批評を再開した背景と、そこにある問題意識について伺っていきたいと思います。


宮台:最初の映画体験と言えるものからお話しします。僕は小学校時代に転校だらけで6つの小学校に通ったので、転校するたびに周りがどんなノリなのか、どういうモードでコミュニケーションをしているのか分からなくて、しばしば途方に暮れました。麻布中学に進学したら中学高校紛争の真っ只中で、いきなりの学校封鎖。やはり何が起こっているのかチンプンカンプン。そんななか、中学2年のときに新宿の「アンダーグラウンド蠍座」という映画館で若松孝二と足立正生の映画を観ましたが、それが運命の分かれ道でした。


 最初に観たのは若松監督の『ゆけゆけ二度目の処女』(1969年)と『現代性犯罪絶叫篇 理由なき暴行』(1970年)。どちらにも衝撃を受け、「自分のことを一番わかってくれるのは若松と足立だけ」と感じました。以降、生活の場よりも映画のスクリーンを通じて、<社会>とは何か──「権力とは何か」「セックスとは何か」──何かを学んで「よく分からなさ」を克服する過程が続きました。僕にとって映画は、それがないと<社会>を見通せない「延長された身体器官」そのものでした。そんな経験が、映画の観方を方向づけました。


 転校先で「誰が何を考えているのか」が分からず、被害妄想的に脅えることを繰り返したので、自分と同じ状況にいる他人たちを見て「人が何をどう体験しているのか」を観察する癖がつきました。『正義から享楽へ』のあとがきに書いたように、自分以外の人々の<世界体験>──<世界>をどう感じながら生きているのか──が知りたくて堪らない。人間だけじゃなく犬の体験にも関心がありました。そのせいで僕は小さい頃から犬を犬扱いできず、犬好きでもないのに登下校時に犬がぞろぞろ僕についてきました。


 かくて<社会>を見るときに<実存>から見るという構えが形成され、中学入学時点で既に「<実存>が分からないと<社会>が分からない」という感覚になっていました。映画を観る際も、ストーリーでなく、差別される者の実存・差別する者の実存・女の実存・男の実存などに反応していました。「映画を通じて<社会>を見る」と言いましたが、「映画に描かれた<実存>を通じて<社会>を見る」のです。映画が描く権力や制度やそれらについてのメッセージに注目せず、専ら劇中人物の体験に注目する癖が強化されて、今に至ります。


――そして、約6年の中断を経て、映画批評を再開した理由とは。


宮台:本を読んでもらえればわかりますが、「人は書割の中の影絵に過ぎない」とか「人は妄想の中を<なりすまして>生きよ!」という僕がかつてナンパ師だった長い期間にも感じていた感覚を──当時はそれを<ウソ社会>と表現していましたが──濃厚に刻印した作品が陸続と出てきていると感じたからです。しかも、かつてと違って妄想の共有を信頼できなくなったせいで被害妄想的になった人々の、浅ましい営みが社会に蔓延しているという僕の年来の感覚──ここ数年それを<クソ社会>と表現してきました──も映画に満ちて来ました。ならば、僕が言う「実存批評」の出番だ、やっと言いたいことが言えるぞ、と。ちなみに妄想の共有は「利己と利他の対称性」を通じて「正義と享楽の一致」をもたらします。


 言いたいことは、本書のタイトルになっている「正義から享楽へ」をはじめとする、「<自動機械>から<なりすまし>へ」「<交換>から<贈与>へ」などのモチーフです。『正義から享楽へ』のまえがきで明言しているように、僕が長年抱いてきたけれど伝えるのは難しいなと感じてきたこうしたモチーフを、皆さんに最も効果的に伝えるために、“映画を利用している”のです。


例えば「宮台真司は右か左か」という論議が過去20年間繰り返されて来ましたが、申し上げた自動機械のモチーフゆえに、僕はリベラルが嫌いです。そのことも、モチーフが伝えられない間はなかなか表現する機会がありませんでした。リベラルの多くは僕がいう<クソ左翼>、つまり言語的に駆動された自動機械です。最近の例。トランプがヒラリーに勝った理由に、ラストベルト(アメリカ中西部から大西洋岸の中部にわたるかつての工業地帯)の没落労働者がトランプを支持したからだという通説が語られますが、異説もある。


 白人福音派の81%が共和党トランプに投票しました。オバマ誕生の大統領選ではオバマが福音派なので白人福音派の73%が民主党オバマに投票したから真逆です。原因は第3回目の大統領候補討論会の主題となった「中絶」。多くの州で出産直前まで中絶可能なアメリカでは、4ヶ月制限の日本とは違う文脈が加わります。民主党リベラルのヒラリーは一般女性らの会合で、お腹にいるか生まれたかで赤ちゃんに人権があるかないかを決めるのことに違和感を示した女性に、出産寸前であっても胎児には権利はないと断言*1。福音派とカトリックの間で「リベラルには心がないのか」と物議を醸しました。Googleトレンドの統計によれば、投票日前日の大統領選関連ワード検索で「ヒラリー アボーション」の組み合せが断トツでした*2*3*4。


*1 ウーピー・ゴールドバーグの女子トーク番組の中でヒラリーがその立場を明確にした。
http://www.lifenews.com/2016/04/05/hillary-clinton-an-unborn-child-just-hours-before-delivery-has-no-constitutional-rights/


*2 Googleトレンドについての記事は以下を参照せよ。
https://www.lifesitenews.com/news/breaking-google-trends-just-revealed-abortion-is-top-search-about-hillary


*3 Googleトレンドの選挙当日の朝の時間ごとの動きは以下を参照せよ。
http://newslab.pitchinteractive.com/ws/5723088213770240/index.html#/5762957321437184/issues/ww-US/horserace?_k=0bjzt9


*4 プロチョイス(中絶自由推進)に立つcosmopolitanがトランプ勝利の翌日に出した記事には、リベラルの狼狽ぶりが具体的な未来予測として描かれている。
http://www.cosmopolitan.com/politics/a8262419/donald-trump-abortion-roe-v-wade/


 実際リベラルの一部は、やむを得ない事情があれば中絶を認めていいという言い方にも文句を言う。「事情どうのこうのは関係ない、母親が産みたくないと思えばそれを尊重して当然」と。これは「(女性の)権利」という言葉の自動機械を思わせます。胎内の3Dスキャン映像を見ると妊娠4カ月でも顔の個性が見え、1カ月前にもなれば姿勢から仕草まで生まれた後と遜色ない。3人の子がいる僕は熟知しています。今はそれも知られているから、4カ月制限がない所が多いアメリカで、生まれていないなら権利はないという物言いの冷血ぶりが、白人女性の反発も招いたのです。行政や病院が、意図せぬ妊娠をした女性が黒人であれば「プロチョイス」(中絶自由推進)を説き、白人であれば「プロライフ」(生命尊重)の観点から日本でいう特別養子縁組を推奨してきたの内部告発もありました。ちなみに僕は特別養子縁組制度の普及を巡るイベントに複数回関与してきました。


 自動機械の如く権利の有無を議論する営みを僕は「正しさマウンティング」と呼びます。20年前にリチャード・ローティが指摘した内容です。グローバル化で貧困化が進めば、減った座席を巡って仲間と思えない連中を叩き出す排除が生じて当然だとした上で、彼は「白人と黒人は平等」「男と女は平等」といった言葉に従ってルールを作ればいいとしてきた輩を「文化左翼」と扱き下ろす。僕の<クソ左翼>と同じですね。この輩が感情を抑圧してきたので、余裕がなくなりゃ叩き出し合いが始まる。必要なのは「言葉」じゃなく、全ての白人男が黒人や女が侮蔑されたら自分の仲間が侮蔑されたと感じて激昂するように育てる「感情」のインストールだと。


 ここには「利己と利他の対称性」を通じた「正義と享楽の一致」のモチーフがあります。「内なる光」を灯すプラグマティズムの基本理念なのです。逆に「正しさマウンティング」は攻撃によって享楽を独占する=享楽を剥奪するゲームです。むろん、リベラルの正しさゲームと言っても所詮「仲間内」の平等ゲームに過ぎず、それ自体が外部からの「享楽の剥奪」に過ぎないことは、コミュニタリアンが歴史的・理論的に論証してきた通り。所詮は先住民の大虐殺の上に作られた国です。そのことが昨年になってアメリカでようやく大手メディア内で公言できるようになったことも、あとがきで紹介しています。


■「“語彙”を与えてくれる映画が陸続と続いている」


――本書で取り上げられた『シン・ゴジラ』(同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性)、『ニュースの真相』(よく出来た映画だが、トランプ現象の背景を捉えきれない)などの批評に登場するモチーフですね。


宮台:そうです。『ニュースの真相』評でも述べたけど、リベラルメディアは今でも「人権・ユニバーサリティ(普遍主義)・近代」万歳といったモード。僕も多勢に無勢だと思ったから、叩き出しゲームに勤しむ連中を<感情の劣化>だと批判する<なりすまし>を続けてきました。ただローティから遡ること50年、批判理論や効果研究が実証したように、ソーシャル・キャピタルの破壊つまり人々の分断と孤立化が進めば攻撃的な排外主義が高まって当然で、ソーシャル・キャピタルを手当てできない限りはどうしようもないのです。<感情の劣化>批判ごときでは何一つ変えることはできません。これからも永久にそうです。


 その意味で、リベラルを自称しつつ、分断と孤立化を拡げる野放図なグローバル化に異を唱えて来なかった輩は、御都合主義者のクズ。だから僕は、古くからの徹底した天皇制擁護を含めて、自分がリベラルとは全く異質な感じ方をしている事実を言う機会を伺ってきました。社会学界隈は、リベラルつまり分厚い中間層の存在を前提にした戦後の平等ゲームが基本です。僕のような構えはなかなか人を説得できません。ちなみに今上天皇の「御意志」の扱いを巡ってはリベラルが沈黙していますが、お笑いです。馬脚が現れました。『正義から享楽へ』では天皇が登場する映画を複数取り挙げ、それに触れています。


 もう一つ、重要な動機があります。それに比べれば今までの話はそんなに重要ではない。それはBH(ビッグヒストリー)上の問題です。本では、分子考古学や進化生物学や比較認知科学やネオ人類学などの成果を必要に応じて導入しています。それは、少なくとも20万年間、遺伝子的な基底が全く変わらない状態で、4万年前にうたと区別された概念言語を獲得し、1万年前に定住社会を獲得し、3千年前に書記言語の誕生によって大規模定住社会を獲得してきた、という展開の中に無理はないのか、という問題設定です。


 そこで参考にしたのが、(書記)言語による拘束が(無)意識を生み出したとする、ラカンからジュリアン・ジェインズを経てトール・ノーレットランダージュに至る思考伝統と、大規模定住社会が「利己と利他の対称性=正義と享楽の一致」の破壊を通じて、<交換>からなるゼロサム・ゲームという<クソ社会>をもたらしたとする、クリストファー・ライアンからフランス・ドゥヴァールに至る思考伝統*5です。むろん「正義と享楽の乖離」を被った<クソ社会>から「正義と享楽の一致」を見る<社会>へ、というプラグマティズムの思考伝統も参照しています。


*5 ライアンを典拠の1つとするのがモノガミー的ゼロサムを否定するポリアモラスの思考。面識圏(トライブ)内のノンゼロサムという思考伝統にポリアモリーを適切に位置づける日本語の文章がない中、例外が佐藤菜生のブログ(http://www.tetrahedron.institute/blog/)と、佐藤が紹介するフランクリン・ヴューの立論(http://www.tetrahedron.institute/what-is-polyamory/)。佐藤によれば共同体論を欠いた性愛論はいいとこ取りに過ぎず、単に有害だ。関連する記述が『正義から享楽へ』の『LOVE【3D】』論にあるが、上記を参照しながら読む と理解か深まり、映画に対する誤解や偏見も避けられる。


 そのことも含めて長年考えてきたことをできるだけ深いところまで表現しようと思うと、社会学の守備範囲を超えるので、そこに「映画」という参照点があれば読者の方々にわかってもらいやすいだろうと考えました。そもそも「正義から享楽へ」という流れは、<社会>を<実存>から見る──あるいは<世界>ならぬ<世界体験>を見る──僕のスタンスを欠いては見通せません。<実存>や<世界体験>に注目するのは映画表現者の基本作法です。だからマッチングが良いのです。「僕の言うことが分からないのなら、この映画を観て」とも言えるし、「この映画が分からないのなら、僕の言うことを聞いて」とも言えます。


――そうした思いが、この数年で強まった、ということでしょうか。


宮台:機が熟したのだと思います。僕は享楽的ですが、人から享楽の機会を奪うのも不愉快です。大学時代、僕の挨拶はいつも同じで「何か面白いことないの?」でした。今も変わらない。幸せでもつまらなく思いがちです。ウェーバーの知識人定義に倣ってこうした実存を<超越系>と呼んできました。反対が<内在系>。本に収録した富田克也・相澤虎之助両監督との鼎談でも話したけど、1993年に援助交際を発見したときも、誤解を恐れず言うと愉快でした。ただし僕はその扱いに失敗し、援交をオーバーグラウンド化させたことでモードを変えてしまった。いずれにせよ僕には幼少期から「正しさによって享楽が奪われている」感覚が常にあります。でも試行錯誤して思うのは、それは必然的ではなく、やりようによって「楽しくて正しい」を広くシェアできることです。でも鈍感な輩が「正しくてもつまらない」「正義によって享楽の独占と剥奪が蔓延した」事態を拡げています。


 でも、それに抗うにしても言葉をどう組織すればいいのか、ずっと自信がありませんでした。なので、援助交際を世間に知らしめるとか、「<社会>から<世界>へ」という文脈で「<社会>の外に拡がる<世界>に享楽がある」という書き方をしたりと、回り道をしました。そんな中、最近の映画に助けられて突然に語彙が大量に与えられたと感じました。リアルサウンドの連載を続けてみて見込みは間違っていませんでした。語彙を与えてくれる映画が陸続と続いているのです。ただ、語彙といってもまだ概念として自立しておらず、映画と引き比べて初めてシニフィエ(意味されるもの)がわかる。だから本にした訳です。


――宮台さんが考えてきたモチーフと響き合い、“語彙”を与えてくれる作品が増えてきたのはなぜだと思われますか。


宮台:理由は簡単です。地球規模で未来が“完全に”消えたからです。技術革新と制度変革が指し示す未来は、人間の幸いというよりも人間の消滅です。圧縮して申し上げます。例えば、黒沢清監督との対談でも申し上げたように、黒沢作品には常に<なりすまし>というモチーフがあります。誰もが死んでいて、風景も滅んでいるのに、気がつかないフリをして、あるいは本当に気がつかないで、毎日を生きている、と。多くの人が理解しなかったこのモチーフが、近年多くの観客に理解されるようになりました。ゼミで継続的に映画を素材にしてきたので、学生の反応から推測できるのです。本で取りあげた『ゴーン・ガール』『リップヴァンウィンクルの花嫁』も<なりすまし>モチーフだし、本で扱わなかった『アンダー・ザ・スキン』や短編『陽だまりの詩』もそう。偶然ではありません。


 「社会はそもそもクソだ」という事実に皆が気づいたのです。僕は映画批評を再開する前から<クソ社会>のキーワードを使ってきました。かつては「社会がクソでも、それは自分が置かれた状況が悪いからで、ポジション次第では良い社会だ」という感覚が共有されていたでしょう。自分が不幸なのは自分をひどいポジションに押しとどめている社会のせいだと。マルクス主義を含めた<19世紀的思考>です。しかし冒頭に述べた定義を思い出してほしい。妄想の共有を信頼できなくなったせいで被害妄想的になった人々の、浅ましい営みが蔓延しているのが<クソ社会>。そこでは利己と利他の対称性が崩れて全てが<交換>を介したゼロサム・ゲームになります。その意味で、程度の差はあれ、大規模定住社会は全てが<クソ社会>です。


 そのことを書けるようになるのはいつのことだろうと思っていました。ところがこの3年、「たまたま置かれたポジションとは関係なく全ての社会は<クソ社会>であり、そこを<なりすまし>て生きる他はない」というモチーフを全面展開する映画表現が続出するようになりました。「未来が完全に消えた」というのは、「ポジションの“回復”によって埋め合わせできる<クソ>ぶりではないことが広く理解されるようになったが、こうした理解の変容は不可逆だろう」という意味です。その意味で、この3年、僕にとって「映画が与える<世界体験>」の変化は大きかった。それが僕が<世界体験>に照準した映画批評を再開した理由です。あとがきにも記しましたが、読者の皆さんにも<世界体験>の変化を共有していただき、「ならばこの映画はどうだ?」という情報をお寄せいただければ幸いです。(取材=編集部)