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一般社員が感じたレースの苦楽、そしてホンダの社風:ボンネビル挑戦記後編

2017年01月11日 16:31  AUTOSPORT web

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S-Dreamはピットからスタート位置までオリジナルで作成したカーゴで移動
ホンダがS660の軽自動車用のエンジンで自社の四輪最高速を更新することとなった、アメリカのユタ州で開催されたFIA公認イベントのMike Cook's Bonneville Shootout。わずか1年足らずの期間に、未知の領域に挑んだ山あり、谷あり、涙ありの本プロジェクト。

 1年限定の公募で集まった16人のスタッフが手探りの中、約半年でレース参戦マシン、S-Dreamを作り上げた前編に続き、後編はいよいよ、レース開催地アメリカへ。その奮闘を開発責任者、蔦佳佑エンジニアのインタビューをもとにお届けする。

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 S-Dreamのマシンを完成させた後、マシンはアメリカ、ロサゼルス近郊にあるHPD(ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント)でスペースを借りて、メンテナンスなどの作業を行うことになった。HPDからユタ州にあるボンネビルのレース会場までは、直線で840km。クルマで約10時間の距離だが、スタッフの行き来は飛行機を使用することになる。早速、本番の前哨戦となる「マイク・クック・テスト&チューン」にS-Dreamは参加したが、ここで思わぬハプニングが起きた。

「日本で走ったときは問題なかったのですが、ボンネビルのテストで走ったらドライバーの宮城(光)さんが『全然、前が見えない』と言うんです。というのも、ボンネビルは一面、塩湖なので景色が真っ白。もともとS-Dreamの視界は狭いですが、日本のテストコースで走ったときはアスファルトは黒くて白線やガードレールがあり、周りに緑の木があるので方向は認識できて真っ直ぐ走れました。でも、ボンネビルでは周りに何もなくて真っ白なので、少し方向が変わっても景色はまったく変わらない。方向感覚が分からなくなってしまうんです」と蔦エンジニア。

 事前の動画や資料などで、走行コースには1/4マイルごとにパイロンが置かれていたことは確認していたが、この時は1マイルごとに間隔が広がっていたのも、進路方向を狂わせる原因になった。

「宮城さんは実際、コースの右にあったパイロンを左側だと錯覚するくらい、方向間隔が分からない状況でした」

 ボンネビルは、減速区間も合わせて約10kmの直線コースで最高速を競う。方向感覚が分からないまま、400km/hでまっすぐ10km走行することは、想像するだけでも困難な状況だ。

「外にカメラを付けて、コクピット内に液晶モニターを設置して走るというのも試したのですが、どうしてもモニターに映るのに遅れがあるし、400km/hで走行していてモニターを見ている余裕はない。“このままでは走れない”となりました。でも、テストができるのはこのタイミングだけで、エンジン、サスペンションのセッティングなど確認しなきゃいけない項目はものすごくある。仕方ないので、その場はカウルを外して走ることにしました。塩湖で塩害があるのでカウルの代わりに急きょ、段ボールで車体を覆って走りました」

 さらに、このテストで大きな問題に直面することになった。目標の450km/hどころか、速度は250km/h程度しか出せなかったのだ。

「気温が朝の10℃から昼は50℃と寒暖差が大きく、エンジンの燃調セッティングが想定とは違いました。回転数も研究所のベンチテストで1万0000rpmまで回っていましたが、現地では最初5000rpmくらいしか吹けませんでした。路面は塩を固めたものなのでトラクションが全然かからないし、前のクルマが走ったあとに轍(わだち)ができるので、毎回、路面状況が異なります。次に走る路面のコンディションが全然、想定できないので、集めたデータを見て、勘で『えいや』とセッティング決めなければいけない状況でした(苦笑)」

 これぞ、まさにボンネビルの洗礼だった。『前が見えない』。『エンジンが吹けない』。『遅い』。このテストから本番までに残された時間は2週間。S-Dreamのチームは、大きなピンチを迎えることになった。

「まずは車体のカウルを作り替えることにしました。アメリカは航空機文化が盛んで、趣味でエアレースをしている人も多いんです。そこで、アメリカの航空機用のキャノピーを作って売っているメーカーを見つけてもらって、ロサンゼルスからクルマで3~4時間のところにあったそのメーカーに行ってキャノピーを買って、クルマに積んでHPDに運びました。その中で栃木の研究所に電話して、急きょ、CFRPのスペシャリストふたりに来てもらうよう連絡しました」

 そして3日後、日本からふたりのエンジニアが応援に駆けつけた。呼ぶ方も呼ぶ方なら、行く方も行く方。そして、それを認める上司も上司だ。普通の会社員なら、連絡が来た3日後にアメリカの現地に出張で着くことは考えづらいが、そこはさすがホンダというべきか。そこから空力形状を5種類考え、CdA値としては5パーセントダウン、理論上で6km/hの損失で収まる形状で最終決定し、切った貼ったで外板が完成した。

「もう見た目で作業するしかなかったので、実際に完成したカウルはよく見ると左右非対称です(笑)。子供の夏休みの工作レベルの環境でしたが1週間でカウルを完成させました」と当時を振り返る蔦エンジニア。

 エンジンの出力についても、現場で対策を講じた。

「ボンネビルで聞いたのですが20年、30年参戦しているエンジニアでも、ベンチテストでどんなにセットアップしてきても、現地では20パーセントは出力がダウンすると言っていました。そのくらいボンネビルはエンジンセッティングが難しい、特殊な場所だったんです」

 40℃の気温差に加え、一般の計測器では表示すら出ない1%以下の乾いた湿度。そして、650台に及ぶ参加車両の走行で変化する路面状況。帰国後の解析で判明したことだが、走行抵抗は想定してたワーストの数値を、6倍も越えるほど高かった。平坦なボンネビルの塩路の直線は、実際には圧雪路の坂道を走っているような路面状況だったのだ。

「現場で走らせて合わせるしかない、ということをボンネビルに行って実感しました。エンジンパワーのピークは高いですが、660ccですのでトルクが細くてパワーが路面の抵抗に勝てません。そこでアメリカの業者を探してダイナパック(エンジン出力計測器)を借りてピットの横に置き、スペアシャシーのエンジンを現場でベンチテスト用にして、レースカーの横でエンジンがずっと回している状態でした」

 本番では、そのスペアシャシーのエンジンで254馬力を出してセットアップを進めることができた。しかし、それでも385km/hしか速度は出せなかった。

「目標とした速度が出せなかったので、チームとしてもどんよりした空気でした。でも、最終日にレースの主催者が来て『来月もレースがあるから出ないか』と。実はその期間は日本の8月で夏休み期間でした。ですので、16人のスタッフは帰国後はきちんと夏休みを採らないといけない。1カ月後の出場は難しいと思ったのですが、その場にいたウチの役員も出ることを提案したんです」

 だが、蔦エンジニアをはじめ、その時点のチームスタッフは心身ともに疲労困憊の状態だった。

「実際には『もう休みたい』というのが本音でしたが、みんなに確認したら満場一致でやりたいと言うんです。僕はもう一度聞いたんです。『こんな厳しい環境のところでまたやるのか?』と。それでもみんな『やる』と。やっぱり、記録を出せなかったことが、みんな悔しかったんです」

「そこで一旦、スタッフは全員帰国して夏休みを採って、僕だけが夏休みをズラして、次の大会のエントリーや、2週間で新しいエンジンを作ることを研究所のエンジンスタッフの方にお願いするなどの作業に追われました」

 8月のイベントの方が開催規模は大きいが、9月のボンネビルのイベントはFIAの公認イベントで世界記録として残る。ただし、FIAのイベントのため、エントリーは招待制で、ホンダはチームとしてJAFの承認を受けなければならなかった。その承認を採るために蔦エンジニア、そしてモータースポーツ部の冨澤潤は東奔西走して社内の承認を採り、2週間でエントリーにこぎ着けた。

 ただし、そこでこのプロジェクトは若手育成の目的から、世界記録を出すということが目的に変わることになった。「世界記録を出して、ホンダの技術力をPRするというのは、もうF1に参戦するのと同じ目的になったわけです」と、蔦エンジニアも当時のプレッシャーの大きさを振り返る。

 そして9月、夏休みを終えたスタッフたちが再びボンネビルに揃った。8月のデータの解析も終えており、準備は万全。課題であった変化する路面には、走行車両が少ない朝イチのタイミングを狙うことにした。轍ができていない、なるべくフラットな路面でアタックを行った。

 最終的にレース3日目に421.595km/hをマークして世界記録を樹立するとともに、ホンダ四輪車としての最高速をFIAの公認イベントに残すことができた。

 S-Dreamのプロジェクトを終えて約3か月、開発責任者の蔦エンジニアが振り返る。

「もう一度あのプロジェクトをやりたいかと言えば、時間が経てばやりたいと思うかもしれないけど、今はやりたくありません。それくらいしんどいプロジェクトでした。F1もスーパーGTも、レースは勝ったときだけがうれしくて、それ以外はしんどい時間がほとんどだと思うんです。それでもまたレースがしたいと思えるようになります。今回のプロジェクトで世界記録を出せたことはうれしいですし、大きな反響も頂きました。だけど、一番うれしいのは、『久々にホンダらしさを見た』とか、『ホンダにもまだまだこういうものが残っていた』という声を聞けたことです」。蔦エンジニアは続ける。

「もともと私に、ものすごく愛社精神があったかというと、そうではないし、根っからのホンダ信者なわけでもありません。それでもレースとホンダが好きで入社しましたが、社内外のみなさんと一緒でレースも量産車も『最近のホンダって元気がないな』と感じていました。でも、今回のプロジェクトに参加してホンダ社内でいろいろな方の協力を受けて、世界記録を出した時よりも、帰国して『ホンダらしい』という声を聞いた時が一番うれしかった。こういうことをやらせてくれるホンダって、いい会社だなって。自由にやらせてくれる環境だとか、懐の深さをすごく感じました」

『火事場のくそ力』、『コンチキショーの精神』などなど、モータースポーツファンが期待しているホンダ・スピリッツ。最近、めっきり言葉にすることが少なくなったが、ボンネビルのプロジェクトだけでなく、そのスピリッツを世界最高峰のF1でも、国内最高峰のスーパーGT、スーパーフォーミュラでも体感したいのは、ホンダファンだけでなく、日本のモータースポーツファンの夢でもある。

 ホンダのこの16人だけでなく、2017年は日本のモータースポーツとしても、大きなチャレンジの年となることを願うばかりだ。