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ゲイたちの戦いに宿る、R・エメリッヒの作家性 『ストーンウォール』の破壊的な美しさ

2017年01月08日 13:32  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 STONEWALL USA PRODUCTIONS, LLC

 『インディペンデンス・デイ』(1996)、『デイ・アフター・トゥモロー』(2004)、『2012』(2009)といった作品群は、地球破壊、滅亡、災害を繰り返し描き続けてきたローランド・エメリッヒによるものだ。それらはハリウッドの娯楽大作として楽しむことができる。だが、日本が世界に誇る「ゴジラ」をハリウッド化した『GODZILLA』(1998)で海の底からぬっと姿を現した怪獣が引き起こす津波に、呆然と佇んでいた男性がのみこまれる瞬間にみなぎる“画面の力強さ”まで、ただ娯楽と断じてしまってよいのだろうか。


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 これまでハリウッドのエンタメ作家というイメージが強かったエメリッヒだが、作品の細部に宿るエネルギーからは、娯楽という枠組みだけでは捉え切れない固有の「作家性」を見出すことができる。そのことに留意しながら最新作『ストーンウォール』(2015)をみていきたい。


 自身が「ゲイ」であることを公表しているエメリッヒが満を持して製作にのぞんだ『ストーンウォール』は、同性愛者である青年がニューヨークにやってくるところから始まる。同性愛者に対する風当たりが強かった60年代、保守的な町で家族にも友人にも認めてもらえないままに故郷を飛び出すその青年を演じるのがジェレミー・アーヴァイン。『戦火の馬』(2011)でスピルバーグによって見出された才能は、「破壊の帝王」エメリッヒの下でさらに花開く。


 バスの車内から大都会の街並をのぞむアーヴァインは、朝日のまぶしさに目を細めながらもどこか清々しい。この実話を白人青年のヒーロー物語としたことに対する批判もあったが、冒頭からすでに存在感を示す、その表情は、本作の主人公は彼こそが適任だったことを如実に物語っている。ここに感じ取ることができる画面の“熱気”は、しかしまだ予感として立ち籠めているにすぎない。


 ハリウッドの大作監督であるエメリッヒらしく、物語の運び方はあくまで王道的なものだ。まずはニューヨークに巣食うストリート・ゲイたちの日常が活写される。化粧をし女言葉を話す彼ら(彼女ら)は、窃盗は常習であるし、朝っぱらから道端でつるみたむろし、客が来ればすぐさま営業に出かける。それはまさにフランス文学界の「怪物」ジャン・ジュネの処女作『花のノートルダム』のような世界である。そこに男らしい白人青年が迷い込めば、好奇の眼差しの対象となるのも当然。だが「同類」だとわかるとすぐに仲間として輪に加えてつるみ始めてしまう。そんな彼らの奔放さに憩いを見出すアーヴァインは、さらに一人の美しいゲイ・ボーイとの運命的な出逢いを果たすことによって自分たちの存在理由を確かめ合いながら、怒濤の勢いで「革命の英雄」としての一翼を担うこととなる--。


 政府や警察、時には市民たちからの抑圧や惨たらしい暴力に耐えなければならない同性愛者たちが、反旗を翻すことになるのも時間の問題であった。1969年6月、場所はニューヨークの老舗ゲイ・バー「ストーンウォール・イン」。迫害され続けてきた「LGBT」の軍勢が警察権力を相手に抵抗を試みたのである。血を流すことも厭わない彼らは、隣にいる「同類」、いや「仲間」たちと肩を組み合う。まるでお祭り騒ぎのように練歩き、決してひるむことがない。そこに感じられるのは「必死さ」などではなく、暴力というものをただ純粋に乱舞する美しさである。


 一人一人が「革命児」となった彼らには、もはや失うものなどなく、そのフレキシブルな姿勢は爽快ですらある。人間の本来的な生き様を全うしているようにさえみえるのだ。これまで「破壊への衝動」を窺わせる作品を撮り続けてきたエメリッヒは、その潜在意識をゲイであるという出自とともに、ストーンウォールでの革命的行動へとリンクさせ、歴史的暴動事件の再現に見事成功している。画面の奥深くに隠されていたエネルギーとしての「作家性」がここにきてやっと表立ったというわけだ。


 この作品がエメリッヒにとって低予算の「小品」であることが幸いしたことは言うまでもなく、彼のフィルモグラフィ中、最も「作家性」の強いものとなったことは確かである。しかし、残念なことに放出されたエネルギーが完全に燃焼されなかったこともまた事実である。自身の生き方そのものを革命的行為にまで高めることで、一つの青春物語を終えた主人公が故郷の町に帰ってくる場面には決定的な違和感があった。


 故郷ではアウトローである青年の帰還は、ちょうどジョン・フォードの西部劇におけるジョン・ウェインの生還のようである。これほどまでにアメリカ映画らしい主題に、エメリッヒが自覚的でなかったはずがない。だがエメリッヒは当のアウトローたちを温かく迎える女性たちにまでは気を配らなかったようなのだ(これは彼がやはり女性には興味がないということなのだろうか?)。


 再会を果たした兄妹の喉を潤そうと、レモネードを運んできた母親。その腰に巻かれたエプロンは白色ではなく、さらにそれが風に翻りもしない。ジョン・ウェインを迎えるヴェラ・マイルズのエプロンの「白」が、ひらひらと風に翻る爽快さはアメリカ映画の永遠のイメージである。もし、エメリッヒがその伝統的イメージをも顕現させていたのなら、これは間違いなく映画史に残る一本となっていたはずである。とは言え、そういう「不完全燃焼」をしてしまうあたりも含めてエメリッヒの「作家性」といえるのだが。(加賀谷健)