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地獄の目隠し鬼ごっこが怖い! 『ドント・ブリーズ』を大ヒットに導いた発想力

2016年12月31日 08:41  リアルサウンド

リアルサウンド

『ドント・ブリーズ』場面写真

 やはり映画を駆動させる原動力は「ものを発想する力」だ。頭から尻尾までアイディアの餡子(あんこ)がつまったホラー・スリラー映画『ドント・ブリーズ』は、それを再認識させてくれる。


参考:名も無き英雄たちは何を訴えかける? 『ローグ・ワン』 に引き継がれた「スター・ウォーズ」の魂


 低予算でもヒットが狙えるホラー映画は、玉石が交じり合った、有象無象ひしめくあやしさ帯びた業界だ。と同時に、斬新な発想や過激な表現を競い合う先端的な実験場の面も持っている。サム・ライミが設立した「ゴースト・ハウス・ピクチャーズ」は、清水崇監督の『THE JUON/呪怨』、デンマーク出身のオーレ・ボールネダル監督『ポゼッション』など、世界中の才能ある作家に気鋭のホラー作品を撮らせている。なかでも本作の監督、ウルグアイ出身のフェデ・アルバレスは、YouTubeに自作の短編をアップロードしたことで注目された、それまではほぼ無名のCGアーティストであった。そのアルバレスにサム・ライミはいきなり、自身の代表作であり、映画史に伝説を残したスプラッター・ホラー『死霊のはらわた』のリメイク作を託した。この事実は、サム・ライミによるフェデ・アルバレスの才能への評価の高さを物語っている。


 リメイクされた『死霊のはらわた』(2013)の内容は、大量の血糊を使用した、度肝を抜く血みどろスプラッター祭りだった。何度も繰り返される、身体に刃物が刺さるリアルな描写が秀逸で、思わず映画館で「痛っ!」と声を出してしまった。未見の方は是非鑑賞して、この「痛い」感覚を味わってほしい。かと思えば、そのシーンを暗示するかのように、事前に食肉をナイフで切るシーンを象徴的に挿入していたりもしていて、細かな伏線を用意する丁寧な演出も見せている。この「過激さ」と「丁寧さ」という両極が、フェデ・アルバレス監督の持ち味である。


 私は『死霊のはらわた』(2013)を高く評価しているが、観客やホラーファンの間では賛否分かれる部分もあったらしい。その理由は、持ち味の「過激さ」が、あまりに過剰で、原作の持つユーモアに幾分欠けていたこと、そして「丁寧さ」が、原作の持つ荒々しさからくるリアリティを奪っていたことなどである。


 その評価を受けて後、新作『ドント・ブリーズ』は、前作『死霊のはらわた』の半分以下、10億円ほどの制作費にして、収益はアメリカ国内で同作の2倍近く、世界興収で150億円を超えるという商業的成功を遂げている。アルバレス監督は今回、一体どのようなアプローチをとったのだろうかと興味深く鑑賞したのだが、なんのことはない、血みどろな描写こそ封印したものの、前作以上に「過激」かつ「丁寧」な演出が行き渡った作品だった。まさに「天晴れ」と言いたくなるブレなさである。何より、様々なアイディアに溢れているところが素晴らしい。とりわけホラー、スリラーなどのジャンル映画は、「見せ物」としての価値を求められるので、常に新しい試みがなければ観客に飽きられてしまう。既存の表現を上手く並べるような「センス」だけでは貧弱なのだ。その意味では、前作から継続される「体液」を使った恐怖表現など、本作は発明が多い。サム・ライミが彼を評価するのもそういう部分なはずである。


 そもそもの設定も秀逸だ。家宅侵入してはコソ泥を繰り返している、デトロイトの貧しい若者たち三人組。彼らは年老いて目の見えない退役軍人の家に忍び込む。だが、無力で無害な老人だと思われていた男は、体術や射撃など、軍隊で培った超人的な殺人技術を持っていた。思わぬ反撃によって家の中に閉じ込められた若者たちは、男の研ぎ澄まされた聴覚や嗅覚によって追い詰められ、まさに「息もできない」窮地に追い込まれてしまう。同年に公開された『ライト/オフ』が、「だるまさんがころんだ」や「影踏み鬼」のような不気味な遊戯性を持っていたのに対し、こちらは「目隠し鬼」のような命を賭けた地獄ゲームが行われる。おそらくは、オードリー・ヘプバーンが演じる目の見えない女性が、犯罪に巻き込まれていくサスペンスの名作『暗くなるまで待って』がヒントになっているようにも思われるが、作品自体は、出演者や雰囲気を含め何もかも違う。


 『死霊のはらわた』が、呪術で蘇った悪霊との戦いを描く、さすがに荒唐無稽な内容だったのに対して、本作はオカルトが排除された「あってもおかしくない」都市伝説のような、最低限のリアリティを保っている。思えば、サム・ライミ監督は『スパイダーマン』のヒットで世界的なヒットメイカーになるなど、もともとコミック的な娯楽演出の資質を持っていた監督だ。だから「死霊のはらわた」シリーズも、ホラーの枠をときに逸脱して、ほとんどギャグのような展開に突入するところがあった。「スパイダーマン」のシリーズですら、最終的にギャグを投入しまくり、ぶち壊して去ってしまったのである。それもサム・ライミの作家性として、ある意味楽しめる部分ではある。しかし、アルバレス監督はそこまで破壊的な作家性を持ち合わせていない。だから、ギリギリ現実に踏みとどまるぐらいの加減が、アルバレスが最も力を発揮できる領域だったのではないだろうか。


 とはいえ、『アバター』の役では鬼のように傭兵部隊を指揮していた、スティーブン・ラングが演じるおじいちゃんの殺傷アクションは、美学すら漂う過剰さを持っている。少しでも音を立てれば、1秒、いや、0.5秒もかからずに正確な射撃で対応するのである。この見事な動きは、座頭市すら連想させかっこいい。こういう凄まじさを要所で描くことによって、観客すら息を止めてスクリーンを見つめる状況が生まれる。スリラーの名匠、アルフレッド・ヒッチコック監督ばりの観客の心理支配だと言えば大げさだろうか。


 本作の危うい部分として、視覚障害を娯楽の要素として面白がっているのではないかという点が挙げられるが、このようなクールさと、彼が軍人として命令されてきただろう非人間的な行為や、さらに視力や自分の娘を失うなどして精神的に追い詰められていった状況がほのめかされることによって、ただ登場人物を襲い続ける単純なモンスターとして描かれているわけではないということが、一応のフォローになっている。何しろ侵入、窃盗被害に遭っているわけだから、彼の反撃は正当防衛の部分もある。


 侵入者と殺害者、どちらかを一方的に完全な「悪」と位置づけないところが現代的だ。侵入者たちは、逃げ出すチャンスに恵まれながら、男の持つ札束を諦めきれないがために、殺されるリスクに何度も飛び込んでしまう。彼らも、自動車産業が崩壊したどんづまりの街で、何かによって「奪われたもの」を取り戻そうとしているのだ。そしてお互いに「それ」を取り戻さない限り、このゲームは決して終わることがない。侵入者と殺害者はどちらも、社会状況や時代の犠牲者であり、またそこから抜け出そうと不法行為に手を染める犯罪者である。本作のラストシーンは、両者が根っこでは同じものであり、精神的な繋がりを持つ家族であることを暗示するように、ひたすら不穏である。(小野寺系(k.onodera))