2016年12月29日 11:32 弁護士ドットコム
1986年に男女雇用機会均等法が施行されて30年。その当時の就職活動といえば、「男子大学生のみ採用」と、あからさまに女性採用ノーをうたう企業がほとんどだった。また、女子大学生に門戸を開いている企業でも、入社後にはアシスタント的な働き方を求められる時代。男女間の給与の違い、出世の速度を目の当たりにして愕然とした経験のある女性は多かった。
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激動の30年を生き抜いた女性たちを追った連載の最終話は、出世を諦めながらも「働き続けて良かった」という女性を紹介したい。(ルポライター・樋田敦子)
●総合職になっても不平等な給与
「仕事は生活のお金を稼ぐための手段でしかなかったですね。辞めたい時期もありましたが、結婚もしていない、子どももいない私にとって、今では仕事を続けてきてよかったと思っています」
こう話すのは、大阪のアパレルメーカーに勤める大川美智子さん(52歳)=仮名=だ。均等法施行後の1987年に大学を卒業して入社して以後、これまで29年間、同じ会社で働き続けてきた。卒業の時点では、これといって希望する会社や職種もなく、就職難だったこともあって、父の勧めで縁故入社した。
同期は男性10人、女性50人。男性すべてが総合職だったのに対し、女性はすべて「事務職」と呼ばれていた。翌年の88年からようやく、総合職女性の採用を始めたという。
美智子さんの仕事は、百貨店に婦人靴下を卸す営業部署の事務職。男性の店頭販売員からは「なんて要領が悪いんだ」と怒鳴られて涙したこともあったが、社員の年齢層が若く、自由な雰囲気で上司からセクハラやパワハラを受けた記憶はない。90年頃からは、徐々に社内の女性社員を総合職に登用し、大川さんもまた95年に総合職になった。
「上司から総合職への打診がありました。すでに事務補助というよりも総合職に近い仕事を任されていたので、推薦を受けて総合職に移行することにしたのです。同じ仕事をしていても、同期入社の男性社員と比べて、給与は月に約5万円も差がありましたし、明らかに昇進も遅かったので、総合職になることで何かが変わるかなと思ったのです」
しかし均等法には罰則はないため、すべてが男女平等になるわけではない。総合職になってからも、見えない壁は実際にあった。
美智子さん自身も、総合職になった以後も給与は、けっして平等にならなかった。会社は部署の営業成績で評価が決まるためだと説明し、美智子さんもそれなら仕方ないと、低くても高くても成績並みだと納得するようにしていたそうだ。
●総合職でも出世は諦めている
総合職になったこともあって、出世を意識して働いていた。ところが40代半ばになると、外回りの営業に異動し、疲労困憊の毎日に。仕事をこなすのがやっとで、その時点で出世は諦めたという。
「入社8年後に総合職に転向し、就職して29年目になった今も、私はいまだに平社員です。ただただ淡々と仕事をしてきたことを考えると、それでも仕方ないのかなと思っています。結婚して子どもを持つという選択もあったかもしれませんが、それを選ばなかった。母親と未婚の妹と3人で暮らしてきたこともあり、寂しさを感じることはありませんでした」
かつて美智子さんが会社を辞めたいと先輩に相談したときに、言われたことがある。「他にやりたいことがあるのなら別だが、ないのなら今の会社で仕事を続けるほうがいい。それもまたひとつの道だと思う」と。
現在、それをそのまま後輩社員に伝えるとともに、美智子さんは一言だけアドバイスを付け加えた。
「体力的にも精神的にも大変な時期はあるけれど、努力して毎日働いていれば、必ずその働きぶりを見てくれている人がいる。真摯に仕事することが長く勤めることの秘訣だと思います」
先ごろ発表された日本の男女格差は111位。2012年のデータからさらに後退した。
ロールモデルのいなかった時代に男女差別があった中、働き続けた均等法成立からまもない頃に総合職の座を勝ち取った第一世代。そんな第一世代を見ながら、仕事も育児も両立させようとしている第二世代。今後、第二世代、第三世代が働きやすい職場環境や同一労働同一賃金の徹底など、法整備も進めていかなければ、日本の女性労働者の向上はないと思っている。
【著者プロフィール】
樋田敦子(ひだ・あつこ)
ルポライター。東京生まれ。明治大学法学部卒業後、新聞記者として、ロス疑惑、日航機墜落、阪神大震災など主に事件事故の取材を担当。フリーランスとして独立し、女性と子供たちの問題をテーマに取材、執筆を続けてきた。著書に「女性と子どもの貧困」(大和書房)、「僕らの大きな夢の絵本」(竹書房)など多数。