トップへ

「私は腰かけではない」根性で勝ち取った都銀総合職の座【均等法30年史・3】

2016年12月28日 09:41  弁護士ドットコム

弁護士ドットコム

記事画像

1986年に男女雇用機会均等法(以下、「均等法」)が施行され、2016年でちょうど30年。この30年を生き抜いた女性たちの声を伝える連載第3回では、均等法が施行する前に社会に出た女性のまさに根性でのし上がっていく様をお伝えする。均等法が施行されてから就職した世代とは、また異なる壁があったようだ。(ルポライター・樋田敦子)


【関連記事:バブル時代「東京はお金がすべて」昇進、出産、理不尽との戦い【均等法30年史・1】】


 ●「腰かけではなく、一生働く女性になりたい」


鈴木明子さん(59歳)=仮名、外資系生保コンサルタント=は、均等法が施行された時には29歳だった。1980年に女子大学を卒業して、都銀に入行した。周囲からは、短大卒ならいざしらず、4年制大学を卒業して就職するなんておかしい、と言われた時代だった。「大学卒業の経歴ならいい縁談がくるから結婚したら? 働いてもいいことはない」と。


明子さんの頭の中には4年制大学を卒業しても「腰かけ」ではなく、一生働いて「働く女性」になることが目標だった。


「家が商売をしていたので、銀行の担当者がよくやってきました。父も担当者も互いに信頼関係があって、ああいう関係を銀行で築きたいと思ったのです」


よく吟味して選んだ都銀に応募。見事に採用を勝ち取り、都内の支店に配属された。女性の同期は、高卒、短大卒を含めて10人。大卒は鈴木さん一人。お茶くみ、お茶の出し方、電話の取り方を研修で叩き込まれた。それは、当時としては、ごく普通の女性行員への研修だった。


 ●結婚すると「え、辞めないの?」


社内では「5年以内で辞める」「なぜ働くのか」という冷たい視線を浴びた。


「表立っては言わないんですが、大卒の女性がいるだけで耐えられないという男性行員ばかりで、『どうせ寿退社』だと言われ続け、26歳で私が結婚すると、『え、辞めないの』と言われました。私は、一生働いてはいけないのと疑問を持ちました」


為替係を経て、半年後に窓口担当になった。ここで鈴木さんはめきめき頭角を現していった。接客が好きだから、やってくる顧客たちとも信頼関係を築ける強みがある。男性行員たちは、東京大学、京都大学などの国立名門大学や、有名私大卒のエリートばかり。しかし頭脳は明晰でも、コミュニケーション能力が低く、顧客と親しくなれない男性行員も多かった。


毎日が知らない人との出会い。知っている人とはさらにその関係性を深めていった。お金を通じて、その家族の関係も見えるようになる。それが楽しかった。それでも女性は係長か課長どまり。支店長になることなんて夢のまた夢だと思った、という。大学の派閥の問題もあり、出世は望めないが、一生働くのだ、という意思を突き通した。


 ●総合職としての多忙な毎日、2度の流産


そんなある日、明子さんは支店長に呼ばれた。


「『今度均等法が施行されるけれど、総合職になってみる気はないか』と打診されました。30歳を過ぎれば、男女間で給与や出世で差が出てくるのは分かっていましたから、実はこのまま続けようか、悩んでいた時期でもありました。施行に当たっては銀行としても建前上、総合職の女性が必要だと考えたのでしょう。推薦してくれるというので試験、面接を経て、29歳で総合職になりました」


以前にもまして、労働環境は厳しくなる。遅くとも午前8時には支店について、書類、パンフレットのセット。粗品の用意。9時には、店頭に並んで、客がやってくるのを待った。15時にシャッターが閉まると、事務処理に追われた。まだ紙ベースで仕事をしていた時代だ。小切手1枚でもなくなると、すべての本やノートをさかさまにして探した。1円でも合わなければ、23時ごろまで残業。そして翌朝8時には出社するという具合だった。


一度出勤したら、深夜まで帰れない。早く帰る夫が食事を作り、家事一般をやってくれた。そんなときに妊娠が発覚する。体に気を遣って仕事をしていたものの、妊娠初期で流産してしまった。そしてまた2度目の妊娠でも流産した。


「考えてみると母体には過酷な仕事が多いのです。両替機に硬貨を入れる作業などは、硬貨だけでも重く、運ぶだけでも重労働なのです。そんな負担がかかり流産したのだと思い、子どもはあきらめて仕事に専念しようと思うようになりました。この頃には女性の同期は全員、辞めていました」


 ●営業時間にバケツを持って立たされた同僚


支店では支店長が絶対だ。支店長が王様だから、とんでもない上司に当たったら大変だった。シャッターが閉まったとたんに「お腹がすいたからお菓子買ってこい」は日常だった。同僚の男性社員は印鑑を忘れたことでなじられた。「なんで忘れたんだ」と営業時間の最中にバケツを持って立たされたことも。


「セクハラはありませんでしたけれど、パワハラはすごかったですね。その中でミスをしないように細心の注意を払いました」


街を歩けば「鈴木さん」と声をかけられる。明子さんが構築した人間関係は顧客600人以上を数えた。さすがに支店長も敬意を払うようになっていた。


ところが2002年、1金融機関につき、預金者1人が、元本1000万円とその利息の預金債権が預金保険法の保護の対象になるというペイオフが下った。鈴木さんの支店に5000、6000万円と預けていた大口預金者は「ごめんね、うちも資産を守らなければいけないので、引き出すね」と1000万円を残して引き出し、他行に分散していった。1997年の山一証券の倒産がまだ記憶に新しかった。


「このままでは銀行がつぶれてしまうかもしれない。不安と同時に銀行での達成感がありましたから、銀行にいるのも潮時かもしれないと、次のステップに進むことにしたのです」


総合職にもかかわらず、23年間、同一支店で働き、最後の肩書きは「取引先VIP担当」だった。金融をやってきた経験から、同じフィールドでの転職先を考えていたが、どれもピンと来なかった。そうこう考えあぐねていると、外資系の生保会社からヘッドハンティングされる。「保険のことは分からないけれど、新しい世界に飛びこんでみようと」と入社を決めた。


 ●銀行から保険の世界へ・・・


立ち上げ時は全国で100人ほどが入社した。元銀行員、元証券マン。そこには金融のプロが集まっていた。


「会社に入り、東京での最初の研修に行きました。10人のうち、女性は1人。研修室に入っていくと、椅子にふんぞり返った同僚は“女が来たよ”という目でじろじろ見ました。均等法から16年も経っていたのに、男性の姿勢は変わらない。いつまで経っても日本の社会は変わらないんだと、このとき思いました。


それで大学院に通って保険の勉強を徹底的にし出したのです。同じ金融でも、銀行と生保は違います。かつての顧客の人にも保険いかがですか、とおススメしても、金融と保険は違うからと断られました」


一方で、加入したままで放っておいた保険の見直しをすることで、保険に加入する人も出始めた。気づくと1か月で30件以上もの契約を取り付け、全国1位になり表彰された。同期の男性社員たちは、1人減り、2人減り、5年も経つと鈴木さんともう1人になっていた。


鈴木さん自身が女性であることで苦労した分、女性たちをスカウトし、女性だけのプロジェクトチームで取り組んだこともある。しかしこれは失敗。ほどよく男女が均等にいないと、あらゆる面でうまくはいかないことを知った。


「職場は、人と環境なんですね。優秀な人材がそろい、なおかつ仕事しやすい環境がないと成果は得られない。かつて直属の部下を10人以上持つ所長になったことがありますが、今はコンサルタント業務に専念しています。600人以上いるお客さんからは『交通事故でむちうちになった。どうしたらいい?』と直接電話がかかってきます。すぐにアドバイスしたり、飛んで行ったり…。そういう関係が好きでこれまでやってきたのです」


 ●定年後も「一生働きたい」


バブル前、バブル、バブル崩壊の時代を、常に前ばかりを向いて、ひたすらかけ続けた明子さんから、後輩たちへのアドバイスはーー。


「たしかに均等法以降、女性社員も働きやすくなったと思います。しかし職場での地位の向上だけではなく、やはり人に商品を売る以上、商品の正しい知識を持ち、お客様のオンリーワンになるように努力してほしい。そのための努力と信頼関係。それに尽きると思います」


鈴木さんの会社は、延長しても65歳で定年。その後どうするかを聞いてみた。


「生保の先輩女性たちは、80歳を超えても働いています。私も先輩方と同じく、一生働きたいと思います。仕事が私の生きがい。夫と仲良く暮らしながら、仕事も続けるでしょうね」


男性並みに働くことで、キャリアを構築してきたものの、それがゆえに結婚や育児をあきらめなければいけなかった第一世代。その苦しさもたくさんあった。



【著者プロフィール】


樋田敦子(ひだ・あつこ)


ルポライター。東京生まれ。明治大学法学部卒業後、新聞記者として、ロス疑惑、日航機墜落、阪神大震災など主に事件事故の取材を担当。フリーランスとして独立し、女性と子供たちの問題をテーマに取材、執筆を続けてきた。著書に「女性と子どもの貧困」(大和書房)、「僕らの大きな夢の絵本」(竹書房)など多数。