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『ヒトラーの忘れもの』が伝える痛みのリアリティ 美しい海と地雷が意味するもの

2016年12月27日 13:31  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2015 NORDISK FILM PRODUCTION A/S & AMUSEMENT PARK FILM GMBH & ZDF

 「ヒトラーの忘れもの」、それはただナチス・ドイツが連合国の上陸を防ぐためにデンマークの海岸線に埋め込んでいった「地雷」のことを意味しているのだろうか。


参考:「劇団EXILE」佐藤寛太の“ハイスペック”ぶりに注目! 『イタズラなKiss』入江役で体現した美少年像


 護送車に乗せられたドイツ人少年兵たちは行き先を知らない。キャメラはその一人一人のアップを捉える。どの表情も純粋無垢そのものだが、みな瞳には涙を湛えている。彼らは異国に置き去りにされたあげく、これから浜辺に埋め込まれた何万という地雷を手作業で一つ一つ撤去しなければならない。その作業を終えたら故郷に帰してくれるという保証などどこにもなく、彼らはただ「忘れられた」存在者たちなのである。


 だが少年たちは一言の文句も洩らそうとしない。いつ爆発音が響き渡るとも分からない浜辺に這いつくばり、細心の注意をはらって砂を掻き分けていく。その寡黙さには胸がはりさけそうになるが、極度のナチ嫌いらしい鬼軍曹は相手が子どもだろうと容赦せずに罵詈雑言を浴びせるし、食事すら与えようとしない。さらには夜な夜な少年たちを外へ引きずり出し跪かせ、あろうことか小便を浴びせかける戦勝国(イギリス)の兵士までいる始末。偏執的なまでのユダヤ人虐殺を思い出すまでもなく、かの独裁者は「忘れもの」どころか、強者から弱者へのサディスティックな暴力の狂気をこんなところにまで波及させているのだ。


 黙々と作業をする少年たちが手をやすめ、ふと視線をあげると、そこには青く美しい海がひろがっている。だがそれは「解放」を象徴する海などではない。ひと泳ぎしようと思い立ち走り出せば、必ず「悲劇」が待っていよう、その海は傷ついた身体に癒しを与えてくれるような生易しいものではなく、不吉で危険な決して近寄ることのできないものなのだ。徐々に情を移していく軍曹と少年たちとが海辺でフットボールにうち興じ(軍曹が一番はしゃいでいる!)、徒競走をやったりもする安らぎの光景があるにせよ、それもすぐに「爆発音」が掻き消してしまう。やはり海はどこまでも「まがまがしさ」の象徴なのだろうか。


 けれども、ただ一人の少年だけが海に入ることを許される。目を合わせなかったことから軍曹との間に「因縁」を持つようになったその少年は、自分よりも仲間たちのことを気遣い、冒頭からリーダーシップを発揮する聡明さと思慮深さを備え、いつでも首にスカーフを巻き付けている。重労働を終え浜辺で黄昏れる少年。彼はそこで軍曹と冗談を言い合ったりもするのだが、その美しい瞳はただ一点、夕日が沈んでいく海を見ている。そうして気がつけば少年は海に入っている。これまで誰一人として入ることが出来なかった(許されなかった)海に軽々と身を浮かべ、水に濡れた身体を夕日に晒す。一時の癒しを得る少年の姿は、いままでのすべての苦しみを忘れさせる「永遠の輝き」のようであるが、しかしそれはまた同時にどこか異様な光景としてこの映画全体から浮き上がっているようにも思う。いくらなんでも無防備すぎはしないだろうか。この違和感はしかし、「感傷」にだけは流されまいとする演出家の心境に重なるものがある。その抵抗の「ぶれ」がつまり、歴史的事実の痛ましさをあくまでも冷徹なリアリズムで撮っていこうとする演出家の「困惑」(痛み)として表出してしまっているのである。だが、そういう一端を窺ってしまうことこそ、「映画をみる」ということの意義なのではないだろうか。


 かつてジャック・リヴェットは批評家時代に、『アルジェの戦い』(1966)で名高いジッロ・ポンテコルヴォがナチスの強制収容所を題材にした『ゼロ地帯』(1959)の「美化」された物語を痛烈に批判したが、戦争映画というのは戦争自体が「非=現実」であるため安易な「リアリズム」が通用しない。そこではその日常ならざるものをどの程度「虚構化」し、どのように切り取っていくのかという「映画的倫理」が作家に常に要求される。その点で、けたたましい爆発音とともに次々散っていく少年たちの姿を決して「滅びの美」などには回収せずに、どこまでも淡々と対象にキャメラを向け続けた演出家の態度はかなり信用にたるものだと言えるだろうし、なにより『ヒトラーの忘れもの』は人間的な「痛み」を伴っている点において「真実味」がある作品なのである。(加賀谷健)