2016年12月25日 07:52 弁護士ドットコム
1986年に男女雇用機会均等法(以下、「均等法」)が施行され、2016年でちょうど30年を迎えた。厚生労働省の調査によれば、同法が成立した1985年当時、女性の労働者数は1548万人だったのに対し、2016年速報値は、2754万人。正社員や非正規などさまざまな雇用形態があるが、全体の女性労者総数は増加している。
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また今年4月には、企業や自治体に女性登用の数値目標を義務付ける「女性活躍推進法」も施行されるなど、国をあげて「女性活躍」を促している。しかし、その数値目標は達せられつつあるとは言いがたい。課長職以上目標を30%に設定しているものの、実際は7.5%である(内閣府調査、平成26年度)。
さらに総合職の女性は増加の一方かと思いきや、現在でも総合職で採用される女性は11.6%しかいないのだ(男女共同参画白書、平成25年版)。この30年間、女性たちはどのような壁にぶつかり、道を切り開いてきたのか。ロールモデルのいない中で、日本の女性たちがどのようにこの30年間を生きてきたのか。
連載第1回は、ある地方出身の女性が、東京で何と戦い、どのように生き残ったのかを辿った。(ルポライター・樋田敦子)
●「東京ではお金がすべて」
短大中退、専門学校を経て、短大に入り直し、2回の転職をして、現在IT会社の管理職として働く小川奈津子さん(49歳)=仮名=の働く人生は、一言で言い表すと「理不尽」だったという。
九州にある厳格なお嬢様短大に進学高校から推薦で上がったのが1985年のこと。訪ねた就職課で「あなた就職するの? 就職なんて珍しいね」と言われ、一生自分の手でお金を稼いで生活していこうと思っていた奈津子さんは出鼻をくじかれた。「こんな田舎にいてはダメ。東京に出て行こう」と決意して短大を中退した。
上京し専門学校で簿記や秘書検定などの資格取得を目指し、居酒屋でアルバイトをしていた。世はまさにバブルが始まろうとしていた頃。居酒屋で感じたのは「東京ではお金がすべて。より多くを稼ぐためには学歴が必要」だということ。それを痛切に感じた奈津子さんは、入学するなら短大と、就職に有利なことで定評のあった短大の国文科に入学し直す。
「本当に学生時代は、人生の中でもいちばん勉強しました。成績もよかったんです。しかし学内の就職説明会に行ってみると、『地方出身者は求人があっても入社できる確率が低いので、ワンランク下げたところに応募してください』と言われました。
当時は女性社員の採用条件は、自宅通勤者であることを条件にあげる企業が多く、地方出身、下宿の私にとって非情に理不尽な言葉でした。高い目標を掲げて入り直したのに、地方出身ということで差別されるのか、と。それでも望んでいたマスコミ系にあえてチャレンジしましたが、いいところまで行っては最終で落とされました」
地元選出の代議士の紹介により大手監査法人に就職できた。その法人は、一般職、総合職の区別なく、公認会計士か、専門職か、それ以外という分類の仕方で、縁故で入った女性の事務職が、会計士のアシスタント業務を行なっていた。
「事務仕事は得意でしたから、すぐに終わってしまいます。あとは何をすればいいですかと、指示を仰いでも、デスクで仕事をするフリしておいてと言われます。仕事をやる気は十分あるのに力を活かせない。これもまた理不尽でした」
●「このままでは子どもも産めない」
学歴、地方出身者ということで理不尽さを味わった奈津子さんは、結婚するなら高学歴で関東在住者と決めていた。91年、24歳のとき、まさにそんな男性が現れ求婚された。それが今の夫だった。しかし高学歴、官僚で、しかもダブルインカムなのに、給与が低く生活していくのがやっと。いつまでたっても「このままでは子どもも産めない」と思った。
退社後と週末に週4日、寿司屋の仲居としてダブルワーク。2人合わせて毎月50万円ほどになったが、それと同額の給与を稼げる仕事で一本化をはかりたかった。そこで一念発起し、31歳のときにフランス大手化粧品会社の名を冠したエステサロンの、日本側の運営会社に転職した。
「この会社は、一般、総合の区別もなければきちんとした雇用契約もありません。売り上げを伸ばして給与交渉をするというシステムです。会社に広がっていたのは、仕事が出来なければ罵倒されるパワハラで、まさしくブラック企業でした。
午前7時に家を出て、深夜過ぎに帰宅はざら。全国に担当する店舗を持っていたので、夕方から出張するということも1か月のうち半分くらいありました。一日中ずっと、土日もなく仕事のことを考えているので、家にもだんだん帰りたくなくなったのです。どんどん追い詰められて、自分ではどうすることもできないところまで来ていました。だから先日起こった電通の自殺した女性社員の気持ちがよくわかるんです」
そんな様子を見かねた義妹が「本当にそんな生活でいいの、そのまま続けていたら子どもも産めないよ」と注意してきた。そこでやっと呪縛が解けて、1年で退社。2001年、義妹がすすめたIT企業に転職した。
●部下の妊娠が「悪しき習慣」になるという社長の不安
しかし、この会社には当時は就業規則もなく、定時で退社するのは良くないといった、悪しき日本の風習が残るような会社で、社長の言うことは絶対だった。奈津子さんはマーケティング部、法務、人事と組織構築しながら頭角を現していく。社長の信頼も厚くなった。そんな中、38歳で妊娠した。
「部下が育ってきていたので、私がいなくても大丈夫だと思いました。望んでいた妊娠だったので生む決意はしていましたが、社長になかなか言い出すことができません。当時の女性管理職の社員たちは、未婚か離婚経験者。結婚して妊娠・出産した人はいなかったのです。妊娠6か月まで隠し通し、やっとカミングアウト。社長はどうしていいか分からないという顔をしていましたね。社長にとっては私の妊娠が、『悪しき習慣』になって次々に女性社員が妊娠して、産休を行使されたら仕事に支障が出る、という不安があったようです」
就業規則も固まっていない会社で、労働基準法通りに「産前4週間、産後8週間」を休む権利を主張するのは憚られ、「せめて産後6週間だけは休ませてほしい」と自ら申し出た。そうせざるを得ない雰囲気があった。
妊娠しても出産まで、それまで通り深夜近くまで仕事をした。ところが出産まで6週間に迫った忘年会の日、奈津子さんはあまりの体調不良で会を中座した。病院に行くと、足がぱんぱんにむくんでおり妊娠中毒症(当時、現在は妊娠高血圧症候群)と診断された。
そこから入院生活が続いていく。いよいよ出産の日、陣痛促進剤を使っての出産の予定だったが、子どもの心音が聞こえなくなり、急きょ帝王切開に。出産後、休んだのは2カ月間だけだった。
●「多くのことを望んでも仕方がない」
あれから11年。現在、同社には奈津子さんに続けとばかり、女性社員たちは妊娠し出産し、職場復帰している。時短も当然のこととして行使している。それが本来の姿なのだから…。
「育休など、多くのことを望んでも仕方がないので、現実的な解決方法を選択して、生き延びてきた会社人生でした。後輩に送る言葉? 分からない分野でも、それに精通した人を味方につけることでしょうか。私があれだけ一生懸命働いてきたことにも意味があったと思っています。
娘は11歳になりましたが、ほとんど保育園で育ったようなもの。多くの人の協力があって、ここまできたと思っています。協力者を作ること、これは大事だと思います」
奈津子さんは理不尽と戦いながらも、キャリアップと平行して、結婚、出産と、ライフステージも切り開いていった。次回は、出産をあきらめ、離婚も経験しながら、キャリアを勝ち取った女性の生き方を追う。
【著者プロフィール】
樋田敦子(ひだ・あつこ)
ルポライター。東京生まれ。明治大学法学部卒業後、新聞記者として、ロス疑惑、日航機墜落、阪神大震災など主に事件事故の取材を担当。フリーランスとして独立し、女性と子供たちの問題をテーマに取材、執筆を続けてきた。著書に「女性と子どもの貧困」(大和書房)、「僕らの大きな夢の絵本」(竹書房)など多数。